私達の教育改革通信 
第60号  2003/8

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太陽エネルギーを用いる水からの水素製造

堂免一成  田丸謙二

化石資源の消費、枯渇からもたらされるエネルギー問題と二酸化炭素発生などによる地球環境問題は、我々が直面する深刻な課題である。これらの問題は、放っておけばいつか解決するという類のものではない。我々の生活に直結しており、我々自身で積極的に取り組んでいかねば決して解決しない問題である。この問題の本質は、現代の人類の生活が多量のエネルギーを消費する事によって維持されているという点である。しかも現在そのエネルギーを主に担っている化石資源は、有限な資源であり必ず枯渇するだけでなく、それを使い続ける事は地球環境を破壊する危険性が高い。

もともと石油や石炭などの化石資源は、光合成によって固定された太陽エネルギーを何億年もかけて地球が蓄えてきたものであり、それとともにわれわれの住みやすい地球環境が形成されてきたはずである。我々はそのような地球が気の遠くなるような時間をかけてしまいこんできたエネルギーを「かってに」掘り出し、その大半を20世紀と21世紀のたった200年程度で使い切ってしまおうとしている。したがって現在の時代を後世になって振り返れば、人類史上あるいは地球史上極めて特異な浪費の時代と映っても不思議ではない。かけがえのない資源を使い切ってしまいつつある時代に生きる我々は、それについて微塵も罪の意識を持っていないが、少なくともわれわれにとっては地球環境を破壊しない永続的なエネルギー源を開発することは、後世の人々に対する重大な義務である。その為には、核融合反応や風力などいくつかの選択肢があろう。なかでも太陽エネルギーをベースにしたエネルギー供給システムは、枯渇の心配のない半永久的でクリーンな理想的なエネルギー源であろう。

太陽光を利用する方法もいくつかの選択肢がある。例えば最も身近な例は太陽熱を利用した温水器である。また太陽電池を用いて電気エネルギーを得る方法も既に実用化している。しかし、これですぐにエネルギー問題が解決するわけでない事は誰でも実感している事であろう。(ただし、58号参照して下さい。編集者)

ここで太陽エネルギーの規模と問題点について少し考えてみる。太陽は、水素からヘリウムを合成する巨大な核融合反応炉であり、常時莫大なエネルギー(1.2 x 1034 J/年)を宇宙空間に放出している。その中の約百億分の一のエネルギーが地球に到達し、さらにその約半分(3.0 x 1024 J/年)が地上や海面に到達する。一方、人間が文明活動のために消費しているエネルギーは約3.0 x 1020 J/年であり、地球上に供給される太陽エネルギーの約0.01 %である。ちなみにそのうちの約0.1 %、3.0 x 1021 J/年、が光合成によって化学物質、食料などの化学エネルギーに変換されている。また、地球上にこれまで蓄えられた石油や石炭などの化石資源がもつエネルギー量は、もし地球上に降り注ぐ太陽エネルギーを全て固定したとすれば約10日分にすぎない。このように考えれば太陽エネルギーは我々の文明活動を維持するには十分な量であることがわかる。

では、なぜ太陽エネルギーの利用が未だに不十分なのであろうか。理由は太陽光が地球全体に降り注ぐエネルギーであることである。したがって太陽光から文明活動を維持するための十分なエネルギーを取り出すためには数十万km2(日本の面積程度)に展開できる光エネルギーの変換方法を開発しなければならない。ただしこの面積は地球上に存在する砂漠の面積のほんの数%程度であることを考えれば我々は十分な広さの候補地を持っていることになる。その様な広大な面積に対応できる可能性をもつ方法の一つが人工光合成型の水分解による水素製造である。もし太陽光と水から水素を大規模に生産できれば人類は太陽エネルギーを一次エネルギーとする真にクリーンで再生可能なエネルギーシステムを手にすることができる。水素の重要性は、最近の燃料電池の活発な開発競争にも見られる様に今後ますます大きくなってくることは間違いない。しかし現在用いられている水素は化石資源の改質によって得られるものが殆どで、水素生成時に二酸化炭素を発生するのみでなく、明らかに有限な資源であり環境問題やエネルギー問題の本質的な解決にはならない。
もし、太陽光の中の波長が600nmより短い部分(可視光、紫外光)を用いて、量子収率30%で、1年程度安定に水を分解できる光触媒系が実現すると、わが国の標準的な日照条件下1km2当たり1時間に約15,000 m3(標準状態)の水素が発生する。この時の太陽エネルギー全体の中で水素発生に用いられる変換効率は約3%程度であるが、この水素生成速度は現在工業的にメタンから水素を生成する標準的なリフォーマーの能力に匹敵する。したがってこの目標が達成されれば研究室段階の基礎研究から太陽光による水からの水素製造が実用化に向けた開発研究の段階に移行すると考えられる。

現在、水を水素と酸素に分解するための光触媒系として実現しているのは、固体光触媒を用いた反応系だけである。他にも人工光合成の研究は数多く行われているが、以下、不均一系光触媒系に話を限定する。水を水素と酸素に分解する為に必要な熱力学的条件は、光触媒として用いる半導体あるいは絶縁体の伝導帯の下端と価電子帯の上端がH+/HおよびO2/OH-の二つの酸化還元電位をはさむような状況にあればよい。個々の電子のエネルギーに換算すると、1.23 eVのエネルギーを化学エネルギーに変換すればよい。また、光のエネルギーで1.23 eVは波長に換算するとほぼ1000 nmであり、近赤外光の領域である。つまり、全ての可視光領域(400nm 〜 800nm)の光が原理的には水分解反応に利用できる。ただしこれらの条件は熱力学的な平衡の議論から導かれるものであるから、実際に反応を十分な速さで進行させるためには活性化エネルギー(電気化学的な言葉でいえば過電圧)を考慮する必要があるので、光のエネルギーとして2 eV程度(光の波長で600nm程度)が現実的には必要であろう。

固体酸化物を用いた水の光分解は、1970年頃光電気化学的な方法によって世界に先駆けて我が国で初めて報告され、本多・藤嶋効果と呼ばれている。この実験では二酸化チタン(ルチル型)の電極に光をあて、生成した正孔を用いて水を酸化し酸素を生成し、電子は外部回路を通して白金電極に導き水素イオンを還元し水素を発生させた。このような水の光分解の研究は、その後粒径がミクロンオーダー以下の微粒子の光触媒を用いた研究に発展した。微粒子光触媒の場合、励起した電子と正孔が再結合などにより失活する前に表面あるいは反応場に到達できるだけの寿命があればよい。さらに微粒子光触媒の場合、通常電極としては用いることが困難な材料群でも使用できるメリットがあるため、多くの新しい物質の研究が進んでいる。現在では紫外光を用いる水の分解反応は50%を超える量子収率で実現できる。

しかしながら太陽光は550nm付近に極大波長をもち、可視光から赤外光領域に広がる幅広い分布をもっているが、紫外光領域にはほんの数%しかエネルギー分布がない。つまり太陽光を用いて水を分解するためには可視光領域の光を十分に利用できる光触媒を開発することが必要である。しかし、これまでに開発された水を効率よく分解できる光触媒は全て紫外光領域の光あるいはほんの少しの可視光領域で働くものである。

最近になって新しく可能性のある物質群が見出され始めている。それらは、d0型の遷移金属カチオンを含み、アニオンにO2-だけでなくS2-イオンやN3-イオンをもつ材料群である。例えばSm2Ti2O5S2やTa3N5、LaTiO2Nなどのようなものであり、オキシサルファイド、ナイトライド、オキシナイトライドと呼ばれる物質群である。これらの材料では価電子帯の上端はO2p軌道よりも高いポテンシャルエネルギーを持ったS3p軌道やN2p軌道でできている。しかし、このような物質はまだ調製が容易ではないが、酸化剤や還元剤の存在下では水素や酸素を安定に生成することが確認されており、これまで見出されていなかった、600nm付近までの可視光を用いて水を分解できるポテンシャルを持った安定な物質群であることがわかってきた。従って、このような物質の調製法の開発および類似化合物の探索によって、太陽光を用いる水からの水素生成が、近い将来実現する可能性も十分にある状況になっている。安価で安定な光触媒を広い面積にわたって水と接触させて太陽光を受けることにより、充分の量の水素を得るのも夢ではない。 このような触媒の開発に成功し、大規模な応用が可能となれば、21世紀の人類が直面する大きな課題であるエネルギー問題と環境問題に化学の力で本質的な解決を与える可能性がある。

「バカの壁」と親鸞「五つの不思議」  法橋登

「バカの壁」(養老孟司、新潮社)が話題になっている。「著者(養老)は話せばわかるなんて大嘘だという。現にみんなバカの壁を築いて、知りたくないことに耳を貸そうとはしないではないか。その結果戦争やテロや紛争がやまない。人間の脳は「私は私」と自分を不変の情報システムだと思い込んでいる。だから「個性の重視」が教育のテーマになる。 だが、人間の意識は個性でなく、共通了解を求めて進歩した。社会はその矛盾を見ない。自分が正しくて相手は正しくない。そんな主張が出るのは、現実があやふやで人間は何か確かなものを求めたがるからだ。そして、人間にはわからない現実をすべて把握しているものがいる、というフィクションを考え出した。神である。神があるから正解もある。こうしてどんな場合でも正解を徹底的に追及する。これが一神教だ。」(中条省平、朝日新聞書評)

神経生理学者のポール・マクリーン(三つの脳の進化、法橋訳、工作舎)は、人間の大脳新皮質(理性脳)に覆われている内側に進化の歴史が隠されているという。哺乳類から受け継いだ大脳周辺系(情動脳)と爬虫類から受け継いだ大脳基底核と脳幹(反射脳)である。爬虫類の集団では、なわばり巡回、威嚇、挑戦、求愛、服従、序列づくり、挨拶、協働、よそものいじめ、など二十数種の社会行動のパターンが観察されている。生活圏の確保と日常行動の定型化を求めた爬虫類の発明である。戦争やテロは、個体密度の急増や飢餓などの異常事態を予感した大脳基底核の恐怖と反射脳の挑戦衝動が短絡したものだという。一方、家庭内秩序調整のためのスキンシップや模擬狩猟としてのアソビや自分の役割に対する責任感や利他行為は哺乳類にならないとみられない。バカの壁(思想の定型化)も起原は爬虫類かもしれない。挨拶は集団の秩序維持のために爬虫類が発明した身体言語であるが、是非善悪を離れた価値中立の握手は人類最大の社会科学的発明だという。握手では2秒息を深く吸う。3秒息を止めてから相手を見てゆっくりと息を吐く。これは遺伝子の支配の及ばない理性脳と生命のリズムを伝える反射脳を結びつけるために道元が考案した禅宗の念仏、息念の法の定形化である。相手の表情やしぐさによる前言語表現の読み取りは、人間が哺乳動物から受け継いだ大脳周辺系の働きであろう。浅草報恩寺で発見された親鸞の五箇条要文には宗派の「壁」について次のような文章がある。(「親鸞のはらわた」井上義光、少林窟道場)「わが一向一心の宗旨なりとて、他宗に耳をふたげ、我宗に固執するはまことに愚痴のいたりなり。心狭く人にも疎まれ、わが宗旨にも背くことなり。仏とはわが心の異名なり、しかあれば念仏はわが心を呼び返し、散乱の心を止めるための方便なり。」親鸞は散乱する心よりも、呼び戻す意識の方に実体性を認めていた。文中の我宗は我執であり、自分を不変の情報システムだと思い込む「バカの壁」である。親鸞は「念仏を心の主とし、煩悩を客人とせよ」と弟子に書き残した。煩悩は進化の宿命に支配された「私」であり、佛はその宿命をコントロールする「私」である。また、親鸞は人間には「因果のことわりを超え、世の常にあるまじき」五つの不思議があるという。自分の身体の不思議、身体を支配する法則の不思議、今日の自分をつくったさまざまな出会いの不思議、人間の不思議について深く考えた優れた善知識に出会う不思議、そのような不思議に気づく不思議。

インドラの網を織る人々(六)

関屋友彦著 真実と思いやりの物語「激動の50年 明治・大正・昭和 私の家族の選んだ道」

1909年鹿児島に生まれた著者が語る、父母兄弟5人の愛の信仰に生きた激動の生涯の記録である。

第一章 関屋貞三郎の生涯

大学を出たばかりの関屋貞三郎は、児玉源太郎台湾総督の秘書官に抜擢され、やがて日露戦争に児玉とともに出陣、戦いが終るとともに、児玉の推薦で大連市の初代市長になった。児玉は正義と人間愛の人であったという。しかし、日露戦争の勝利は、国学者による皇国史観を広め、政府と世論が動き、結果がやがて韓国併合となるに至った。韓国民にとって民族の誇りを失う屈辱であった。その中で、関屋は朝鮮総督府学務局長となり、皇民教育の強制に強く反対した。「教育は時勢と民度に適合せしめることをきすべし。」の一条を追加することに成功し、これが第二次大戦にいたるまでの日朝融和の基礎となったという。
その後の幾多の人道的業績は省略するが、最後に、マッカーサーの最高秘書官をつとめたボナー・フェラーズ準将との間で、昭和天皇とマッカーサー元帥との会見のお膳立てをした秘話がある。フェラーズは一色ゆり子、河井道と以前から親交があったが、クリスチャンの河井は皇太子時代から昭和天皇に仕えた関屋を見込んで一緒にフェラーズを訪ねた。昭和二十年九月二十七日の会談で、天皇は開口一番「今度の戦争の責任は全部自分にある。国民の飢えを助けて貰いたい。私は連合国のどんな処置も喜んで受け入れる用意がある」と述べた。フェラーズが関屋の妻衣子に語ったところによると、マ元帥は熱心な英国協会信者のためか、天皇の全ての責任を負う態度にイエスの十字架の死と重ね合わせて、涙を流した、という。

第二章 関屋衣子の生涯

クリスチャンとして、日本夫人として、この人の生涯は見事という外はない。夫とともに朝鮮にあって人々とともに苦しみ涙を流し、彼らを元気付けた。長男正彦がニュージーランド、マッセー大学日本語学の草分け講師として招かれたときについて行き、親しくなったウオルシュ夫人が彼女に捧げた詩の一節は美しい、「あなたにお会いしたことを感謝している。早く年をとりたいと思わせる程、感動を与えてくれたことを。」

第三章関屋正彦の生涯

洗礼名はポーロ、使徒ポーロの如く、後を振り向かず、主イエスの足跡をひたすら前へ前へと歩いた。平成六年、八十九才九ヶ月の独身の生涯であった。
昭和六年満州事変がおこり、国は満州国建設と中国制覇に傾倒する中、正彦は時代を憂え、何が正しいかを考える青年の養成を志し、「一心塾」を開いた。第二次世界大戦時には、上海に赴き、ナチス・ドイツ占領地区のユダヤ人がシベリヤ経由で集まってくる難民保護に当たった。難民から愛され尊敬され、セントジョン大学で聖書の講師もしたという。戦後は、フレンド学園再建、ニュージーランド・マッセ大学の日本学、非行少年少女の指導、少年法の新設、聖公会司祭、英国立教学院校長など、非戦平和の活動主義をした。晩年には、紀尾井聖会を開き、聖書を読み交友と対談を楽しんだという。

第四章 関屋光彦の生涯

著者の次弟であるが、私(海野)の松本高等学校時代の恩師でもある。東大でギリシャ哲学を専攻、青山学院中学部教諭を振り出しに教育の道に入る。キリスト教校に対する軍の締め付けは厳しく、暴力を振るう配属将校から関屋先生は身を挺して生徒をかばったという。殴られた生徒がとぼとぼ帰ると先生は、「ひどい目に会ったね、だが人を殴るなんて心の弱い人間のすることだよ、だから、憐れんでやろうよ」と慰めたという。松本高校に於ける倫理学の講義は、ヒルテイの「眠られぬ夜のために」やアランの「幸福論」などを小脇に抱えて来て、優しさにあふれた人間愛の講義であった。その後、津田塾大学、国際基督教大学で講義、さらに西荻聖書研究会、古典共同研究会ペデイラヴィウム会、武蔵野読書会、YWCA夏季ゼミナールなどでクリスチャンとしての教育活動を活発に行った。

第五章 関屋友彦の生涯

著者自身の自伝である。リーダーズダイジェスト日本支社営業部長などの異色の経歴の記録も重要であるが、独協大学で講義の後で個別に学生と話し合う時間を作ったときの逸話が感動的である。“一度、女子学生で、その話が余りに無情な話で私も泣き出した。すると、彼女は「先生が涙を出して、私のために、泣いてくれました。今まで一緒に泣いてくれた人はいませんでした。もう、大丈夫です。私も負けず乗り切る勇気が出ました」と、つと立ち上がって去ったことがあった。”

以上、不十分ですが抜書きです。(文責、海野)

科学的に気になる表現

菅野礼司

日常何気なく使っている科学用語のなかで、一寸考えるとおかしい表現、つまり科学的に厳密な解釈に従うと、その表現が明らかに誤りであるものがある。たとえば、「エネルギーを消費する」とか、エネルギーを節約する意味で「省エネ」というのがそれである。エネルギーの全量は一定で保存することは、理科(自然科学)の「いろは」で誰でも知っているはずであるが、この表現を変だと思わず毎日平気で使用している。

これに類するものは他にもあって、いまさら言挙げして言う必要はないと思うかも知れない。事実そうかも知れないが、ここには理科教育に関する盲点が潜んでいるようにも思えるので、敢えて採りあげることにした。折角、学校で理科や科学を学んでも、その知識を自然現象や日常生活において科学的に理解したり、応用したりする訓練がなされないために、理科は「机上の科学」となって、自然と乖離した知識として覚える暗記科目となっている。このような現象は科学教育のあり方にも原因があるように思える。それゆえ、日常無造作に使われている言語表現、特に科学用語で上記のような「誤り」を採り上げて、その正しい表現を考えさせることは、筆者の経験からして、理科教育として有意義であるし、よい教材にもなりうる。

そこで、科学用語を含み、誤った表現のまま使用されている事例をいくつか採り上げて、どう表現すべきかを提案し、議論の素材としたい。

(1)「エネルギー消費」と「省エネ」について

「消費」には消えてなくなるという意味がある。普遍法則である「エネルギー保存則」からみて、この表現は明らかに誤りである。エネルギーはその形態(種類)は変わっても全量は一定であるから、それを利用することで「消費」したり、「節約」したりできるものではない。
 エネルギーには種々の形態(種類)があり、それぞれみな質が異なる。その質の違いは有効性の差である。すなわち、利用するのに有効なエネルギーと有効でないものとがある。熱力学ではその差を「エントロピー」で表すし、エントロピーの低いエネルギーは有効性(利用度)が高く、逆にエントロピーの高いエネルギーは有効性が低い。たとえば、力学的エネルギーはエントロピーが低く、温度の低い熱エネルギーはエントロピーが高く利用度が少ない。

人間が「エネルギーを使う」というのは、有効性の高いエネルギーを有効性の低いエネルギーに変えることで、「質の差を利用する」のである。言い換えれば、エントロピーの低いエネルギーをエントロピーの高い状態に変えることにより、そのエントロピーの差を利用するというわけである。その変化でエネルギーの量は増えも減りもしない。

ただし、エネルギーを利用するとき、その目的のためには使われず、一部は外部に逃げてしまう。有効性の高いエネルギーというのは、それを利用するときに外部に逃げて無駄になる量が少ないエネルギーのことである。つまり、利用の際に損失が少ないく、利用度の高い(効率のよい)エネルギーをこのように呼ぶのである。 有効性の高い電気エネルギーを利用してヒータで部屋を暖めるのは、有効性の低い熱エネルギーに変えているのである。部屋の温度を使ってもとの電気エネルギーにすることはできない。それ故、「エネルギーを消費する」は「エネルギー資源の消費」又は「○○エネルギーの消費」とすべきだろう。

(2)「再生可能なエネルギー」について

環境保全のために、2酸化炭素や窒素酸化物を出す石油・石炭の使用や放射性物質を造り出す原子力発電を減らそうと、いわゆる「自然エネルギー」の利用を提唱している。この運動には賛成である。しかし、エコロジー運動で、太陽光や風力・水力エネルギーなどを「再生可能なエネルギー」と呼んでいるのをときどき見かけるが、どうもこの表現に引っかかる。

この「再生可能」という言葉には、一度使ったものを、もう一度修復して再利用するという意味が含まれているだろう。だが、(1)で述べたように、エネルギーの量は減らないから、その量を復活させるという意味ではない。エネルギーの質も自然に再生されることはない。有名な熱力学第2法則の「エントロピー増大則」によれば、「閉じた系のエントロピーは増大する一方で減少することはない」。つまり、エントロピーの高い(有効性の低い)エネルギーは、それに手を加えることなく自然のままエントロピーの低いエネルギーに変わる(再生される)ことはありえない。一旦利用して高エントロピー状態になったエネルギーを、低エントロピーのエネルギーに変えて利用しようとすれば、そのために必ず別のエネルギーを使わねばならず、その結果、全体としてエントロピーはかえって増大し、環境に悪影響をもたらす。エントロピー増大を伴ってよいなら、すべてのエネルギーは低エントロピー状態に「再生可能」である。それゆえ、「再生可能」というべきではない。

太陽光や風力・水力のエネルギー(これも元をただせば太陽光エネルギー)などは環境に悪影響を与えずに、太陽から「自然に補給される」エネルギーである。以上の理由により、「再生可能」に代わり「自然に補給可能なエネルギー」というべきであろう。

(3)「自然界に存在しない人工物質」について

「自然界に存在しない物質」を本当に造ることができるのだろうか。自然界に存在する原料を用い、自然法則(化学法則)に則って合成した物であれば、自然界には必ず微量には存在していると思う。自然界は複雑多様で、その内容の豊富さには驚嘆させられる。科学の進歩とともに自然の探査が進むと、こんな物まで存在したのかと驚くような発見があった。また、理論的には可能だが、それが果たして実在し得るだろうかと思われていたものが、結局は発見され、自然の奥深さに改めて感嘆したことが多々ある。たとえば、ブラックホールもそうだし、「天然の原子炉」ともいうべきものも発見されたように、この自然界には自然法則に従って可能な物事は、人間の手に依らなくとも何処かに存在するというのが、最近の筆者の信念である。

炭素原子60個からなるフラーレンにしても、また猛毒のダイオキシンや合成高分子なども、自然物質を用い自然法則に従って合成できるものである限り、人間が合成に成功する前から、自然界には極く微量ながら天然に存在していたのでる。それゆえ、「自然界に存在しない物質を生み出す」とか、「自然界に存在しない人工物質」を合成したという表現は正しくないと思う。極く微量にしか自然界に存在しなかったために、あるいは稀にしか存在しなかったために、それまで人類には未知であった物質を合成したのである。それゆえ、「それまでに未知の物質を人工合成した」というべきであろう。

その物質の存在の可能性を理論的に予測し、その合成法を考案して人工的に造り出したことは素晴らしいことである。そして、そのことは人間能力の発展の可能性には限りがないことを示すものである。しかし、その成功を余り誇張して、「自然界に存在しない物質まで造り出した」というと、人間の驕り「自然支配の思想」に繋がりかねない。ヒトも自然の一部であり、自然は人間よりも遙かに偉大であって、人間はその中に包み込まれていることを忘れないようにすべきである。

(4)「電子」の乱用

上記3つの例に類する気になる表現はまだ他にもある。たとえば、電気機器に「電子」という言葉がやたらに乱用されている。「電子レンジ」、「電子メール」、「電子投票」など、何でも「電子」を付けることにも違和感がある。電流は電子の流れであるから、電気機器には電子が関与しているが、電子の作用を直接利用しているわけではない。「電子レンジ」は電磁波を利用しているのだから「電波レンジ」というべきであろう。また、「電子メール」は「電紙メール」としてはどうだろう。

ここで指摘したことは、最初に触れたように科学教育では無視しえないものを含んでいると思う。特に(3)のテーマは、科学とは何かという科学観、そして自然はいかに奥深く内容が豊かであるかという自然観について深い意味を含んでいると思う。これまでに、レーザーやナイロンなどの合成高分子は天然には存在しないという反論もあった。しかし、これらも自然界に存在する。したがって、この問題に関する正しい見解を持つことは、科学者としてのみでなく教育者としても大切なことであろう。それゆえ、細かい屁理屈として片付けるのでなく、皆さんの議論をお願いしたい。(『日本の科学者』Vol.38.No.5より)

「正論」 曽野綾子

「理念的仲介のみで中東和平は動かず」 考

海野和三郎

これは優れた評論(産経新聞6月2日)である。これを翻訳して、フランス在住のユダヤ人天文学者の親しい友人に送ってみようと思う。

ブッシュ米国大統領が、イスラエルのシャロン、パレスチナのアッバス両首脳に、パレスチナ国家樹立と平和共存に向けた「行程表」の履行を約束させた。しかし、曽野氏は言う「聖書に一回でも出てきた土地はイスラエル人の祖国だからパレスチナ人に明渡すことはできない、というような頑強な人々の全人生を賭けた考えを変えさせることは不可能に近いだろう。対するパレスチナ人も、ユダヤ人たちと同じような考えを持った人たちだ。(中略)よく似た論理を持ちつつ対立している当事者同士にしか解決の道はない。」「イスラエルもパレスチナもどちらも、夫々の、宗教的、派閥的、部族的、政治的、経済的立場を、強硬に固執して決して譲らない人々である。協調、妥協、淡白に振舞うこと、などというものは、彼らの美学の中にはほとんどないだろう。旧約聖書以来、両者はさまざまな外的要因に対して、常に戦い、正義の感覚を理由に報復を繰り返してきた。こうした膠着状態の中にある民族と文化の中に和平がやって来るのは、皮肉な言い方だが、たった一つの条件しかない、と私は思う。それは彼らが芯から抗争に疲れてしまった時だけだが、両者は強靭な人たちで、まだ疲れ果てるところまでは行っていないから和平も当分望み薄である。」

とはいえ、曽野氏は優れた提言も行っている。『中東の壁の直ぐ傍に、イスラエルとパレスチナと両方の、できれば貧しい家庭の子供たちを集めた「共学の小学校」を実験的に建てることを、双方の人々が可能だと判断し納得すれば、先生は両サイドから出て、共にまず「神」に祈ることから始める。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の信仰者が、それぞれの信仰を冒し合わないことを習慣づけるためだ。学校は、小さな畑と花壇を持たなければならない。共に土地を耕して食べるものを生み出し、花に共通の歓びや安らぎを見出すためである。こうした共学が可能かもしれないのは、アラビア語とヘブライ語はその30%が共通語だから、同じ授業を受けることが決して不可能ではないからである。』蓋し、卓見というべきである。

国家という共同体と個人をつなぐ愛国心の中にも、国家間の紛争にいのちを懸ける心もあるが、人類愛で国と国を未来につなぐ心もある。戦争のような武力が必要な場合もあるが、それだけでは永久に問題は解決しない。よい指導理念を持った教育のみがこの多次元の複雑極まる問題に対処できるであろう。その指導理念は多次元に埋没して見つけにくいが、ただ時間軸上未来に投影すると見えてくるように思われる。人類生存の危機にある21世紀に、未来志向の教育に光を当てる試みは如何なる人々も反対しないのではなかろうか。人類の歴史始まって以来未だ嘗てなかった人類存亡の危機に今あることを、アラブもイスラエルも知らぬはずはない。未来の子孫のために忍び難きを忍ぶことができるかどうか、もし、友人から返事があったらまた報告したい。     (第60号編集:海野)