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ヤコブ・ベーメ

南原 実  (株)牧神社


ヨーロッパ・キリスト教の神

第一章、すなわち領域1は、無、底無し、鏡……などおよそ五十ばかりの言葉の群で構成されているのであって、この言葉は『黎明』以後の作品すべてにわたるキーワードであるが、『黎明』では、ほとんど完全に脱落している。

この言葉群は、「神の系」につらなっている。

「無」は、二元を包み、解消させ、二元の成立しない神の一領域であって、『黎明』では、悪と善、闇と光などという二元が強調されているため、すべての差別の消滅するこの「無」の系が見おとされがちである。

 

このベーメの「無」は、キリスト教の神なのであって、特殊な民族的な神、地域集団の神しか知らず、また神を一般的な「空」に解消させる大乗仏教の論理の訓練をうけてきた私たち日本人にとって、このベーメの神の系は、「無」「混沌」「何も映さない鏡」など、私たちになじみのある言葉を含みながら、私たちとは、もっとも無縁で、なじみにくい領域となっている。

  1. ベーメの神は、普遍である、とされる(いつ、どこにでも働く神)。普遍と対になる概念を、特殊という。普遍と特殊は、次のような相関関係にある、という。すなわち、普遍は、すべてをおおう全体、一者という単数であり、特殊は、それぞれの個という複数である。複数の個は、ことごとく普遍の単一のなかに包含される。したがって、普遍は特殊を排除しない。普遍は、特殊の個をして特殊の個たらしめる。特殊な個は、普遍の中にその根拠をもっている(普遍がなければ、特殊はない)。一方、普遍は、特殊な個のなかに働き、特殊を通じて、自己をあらわす(特殊がなければ、普遍はあらわれることができない)。特殊という対象が、普遍のそとにあって、そこに神が働きかけるのではない。もしもそうだとすると、普遍の概念と矛盾して、普遍は普遍でなくなる。したがって、特殊は、神によって神のなかからつくり出される、とされる。しかし それは、普遍の神が内部分裂を起して、特殊になるのではなくて、普遍と特殊との関係は、つくるものとつくられるものとの関係に置き換えられる。すなわち、普遍な神は、自己自身のなかから外へと特殊をつくり出して、そこに自己自身をあらわす。普遍が外へ出ることによって、すなわち、普遍の自己外化によって、特殊がつくられ、特殊は、外にあるにもかかわらず、普遍によって包まれる。ツクル、ハタラク、アラワレル、という動詞の主語は、人格的なものとされる。すなわち、何を、何の目的のためにつくるのか、何のために自己をあらわすのか、という一定の方向をもつ意志がそこにはあるのであって、ここから、意志をもつ人格という概念がみちびき出される。
  2. この普遍的な人格神は、意志をもつ人間と対になっている。人間もまた、つくり、みずからをあらわす意志をもつ人格とされる。このことから、人間は、神の似姿であるという命題がみちびき出される。しかし、人間は似姿であって、神ではない。神と人間は、あくまで普遍と特殊との関係にある。神は、普遍であるのに対して、人間は特殊である。特殊は普遍をあらわす、という命題から、人間がつくり、あらわし、実現するのは、神の意志であるということがみちびかれる。神は、人間という特殊な個を通じて、自分の意志をあらわす。人間という存在は神の意志に貫かれている。このことから、すべての個は、その特殊性にもかかわらず、あるいはまさにその特殊性のゆえに、等価であり、特殊な条件(民族、階級、家柄、身分、性格、その他……のちがい)にかかわりなく、人間は人間であるという「普遍的な人間像」がみちびき出される。
  3. 普遍につながる人間が結び合って形成する社会もまた、普遍的な性格を帯びる。この社会の構成員は、それぞれ身分、階級、民族、性格などのちがいによって条件づけられているが、普遍につながることによって、「人間」として等価・平等なのであるから、たがいに等価な構成員として認め合える。したがって、この社会の範囲は、神の似姿である人間すべてに及ぶのであって、民族、村、家族、会社……などの特殊なグループの枠をこえる、この開かれた社会は、普遍的な人格共同体となる。
  4. 自然もまた、普遍な神に対する特殊として、神の意志のあらわれとなる。自然もまた、神によってつくり出された、神の自己外化である。したがって、石、花、木、動物、……であって、神の意志が働きあらわれていないものは、一つとしてない。しかし、自然は、産めても、みずからツクルことができない。このため、自然は、意志をもつ人格ではなく、神の似姿とはされない。このことから、神・人間・自然のあいだに次の関係が成立つ。すなわち、神の似姿である人間は、自然の中にあらわれた神の意志を認識し、実行する。人間が神の意志にそって、自然をたすけるとき、自然をも含んだ、普遍の神につながる真に普遍的な共同体が形成される。
  5. 普遍と特殊との関係は、永遠と時間(歴史)との関係に置きかえられる。普遍が特殊のなかに姿をあらわす創造とは、永遠が時間のなかに入ることである。そのとき、特殊の個が生ずる。時間性のなかではじめて創られる特殊は、また、時間の流れのなかで消え去る運命にある。しかし、その特殊は、時間の中に入り、あらわれ出た永遠の姿であるから、普遍につながり、それ自体、絶対的なリアリティをもち、無意味に消え去る影とはならない。歴史は、無意味な時間の流れではなく、一定の方向をもつ神の意志のあらわれとなる。
  6. 普遍な神は、すべての特殊な個をおおうという命題から、悪もまた神のなかにあることが導き出される。悪とは、普遍な神に対する反逆、神の意志に逆らう特殊をいう。マイナスの方向もまた方向の一つであって、神に対する反逆も、神のおおう範囲の外に出られない。こうして、悪もまた神のなかに、根拠をもつ。この命題は、人間の理解力を超える場合が多く、普遍の神に対する信仰のつまずきとなる(戦争、暴力、悪……)。私たちは、時間のなかに特殊としてあらわれ出た悪もまた、神にもとづくことが理解できずに苦しむ。しかし、神は、静的ではなく、神は動く。神は、特殊をつくり、特殊を通じて、自分の意志をあらわしていく。私たちの理解をこえる悪――神を否定し、神の不在を証明するような悪もまた、神の意志のあらわれであって、神が動いて、時間が生じ、時間の中に神の意志が成就していくとき、悪もまた神の普遍の意志のなかにあることが明らかになる。
  7. 普遍と特殊とをつなぐものは、言葉とされる。普遍は、ことばによって、特殊のなかにあらわれる。あらわれる、とは、ことばによって知らせ明らかにすることである。あらわとはことばであり、ことばは肉となる。普遍な神は、言葉によって、特殊な個である人間に語りかけ、人間は、言葉によって、神に答える。さらに、普遍につながることによって、等価な人間どうしは、言葉を媒介として、たがいに結びあう。ことばによって自己の人格をあらわし、認識しあう。その言葉は、限定された特殊な社会だけに通ずる特殊な言葉ではなく、普遍につながる特殊な個すべてに通ずる言葉である。したがって、自然のなかにも神はことばによってあらわれる。自然物のなまえは恣意的なものではない。この普遍的な言葉が、神と人間を、神と自然を、神と歴史を、人間と人間を、人間と自然を……結んでいる。

 

人間、社会、自然、歴史、悪、言葉……は、普遍の人格の神を中心にして、以上のように配列されている。普遍の人格神という中心をはずしてしまうとき、人間、社会、自然、歴史、言葉……などは、全くちがう方向(意味)をもつようになる。そのとき、たとえば、自由で平等な人格としての人間(神の子)という認識が、成立ちにくくなる。民族、村、家、会社……などという、特殊なグループの一員という意識はあっても、民族、村、家族、会社……などを超えて、神にむかって開かれた普遍的な社会の一員である、という意識は、生じにくい。歴史のなかに起るさまざまな出来事すべては、そして悪もまた、さらにこの私という存在もまた、いずれは無の中に消え去る実体のない影にすぎない、と考えることすらできるから、悪に対しても無関心となり、現実に対しては淡白となり、「私」に執着することなく、その場、そのときに応じて、時の流れにのって生きていくことができる。世界創造、悪魔の反逆、終末、そればかりか人格神そのものも、神話の物語となって、現実性を失う。普遍的な人格神が姿を消した系では、言葉もまた、別の機能を果す。普遍的な人格の意志は言葉によってあらわれる、という命題が成立たないから、言葉・イコール・リアリティ、リアリティ・イコール・言葉という単純な図式が崩れる。言葉に対する素朴な信仰にかわって、言葉を超えるコミュニケーションの領域が、ここではひろがっている(肌、腹、アウラなどによるコミュニケーション)。

ベーメの世界は、この普遍で唯一の人格神を中心にして、人間、自然、社会、歴史と展開している。私たち日本人の生きる世界の座標軸との相違を思えば、私たちがどこまでベーメに近づけるか、きわめて疑わしい。あるいは、それにもかかわらず、ヨーロッパ・キリスト教の神が、ほんとうに普遍であるとするならば、その神は、まったく違う世界に生きていると思っている私たちをも、知らぬまに包み込んでいるのだろうか。神は、ベーメに対して、宇宙の中心に生長する世界樹となってあらわれた。ぐんぐんと大きくなるその木は、地の東のはて、西のはてまで枝葉をのばし、神の名を否定する人たち、神の名を知らぬ人々をも、その木陰でおおい包む。神は、キリスト教徒だけの神ではない、異教徒もまた神の中に生きている、キリストの名も知らぬまま、神の道を歩む異教徒は、キリスト者よりもさきに天国へ行く、とベーメはいう。

「無」は、ベーメにとって、はじめであり、またおわりである。無は神であり、神は無なのだから、そこでは、あらゆる二元、差別、が解消してしまう。一切がない。無は、無限であり、無差別であり、一者であり、永遠であり、静寂(虚静)であり、闇でもなければ光でもないとされる。

「神の中には、いかなる区別もない。しかし、悪と善がどこからきたのか探求しようと思うならば、怒りの、そしてまた愛の最初の根源のそのまた根源は何か、を知らなければならない。なぜならば、この二つは、一つの根源から、ひとりの母から出ているのであって、二つは、一つのものであるからである。」(『神の本体の三つの原理』1−4)

「神とは何か考えるとき、私はいう――神は、万物に対する一者であり、永遠の無として、底もなく、はじまりもなく、場所もなく、神にとってあるのは、神自身のみ。」(『大いなる神秘』1−2)「神は、光でもなければ、闇でもなく、愛でもなければ、怒りでもなく、永遠の一者……」(『恩寵の選択』1−3)

「神は、思考の翼をはばたかせていかに空高く舞い上ろうとも、それよりも深い。一万年間、ひたすら神の大きさ、深さを、数を並べて数えたてようとも、その深さについて何もいい出さなかったのとおなじだ。なぜなら、神は、無限である。数え、測定しうるものはことごとく、自然と形の世界に属する。しかし、神がすべてをひとつに包むことは、ことばで語れない。」(『神の顕現の観察』1−1)

ヨーロッパの無と私たち

無の原語はdas Nichts である。絶対者が無とよばれることはヨーロッパのキリスト教ではめずらしい。神・イコール・「無」という図式は、否定神学――テオロギア・ネガティヴァとよばれる系統にみられるが、ベーメほど、くりかえし無の神を語った人は少ない。

以下、否定神学について簡単に紹介する。――神は、人間、存在、時間、言語とは非連続の他者である、という根本認識から出発する。したがって、神については知ることもいいあらわすこともできない。「神」というのも、人間のことばであり、対象であり、イメージであり、意味である。したがって、神はマイナス・存在、マイナス・一切であり、「無」でなければならない。だからといって、何も存在しない

<途中略>

私がいま机を見るように見るのではない。それは、「机」という学習された概念の目鏡をかけて見るのであって、反省的思考系のコントロールをうけない「見る」がべつのレベルにある。それを「ガイストにおいて見る」という。この「見る」のメカニズムをベーメ自身、説明している――

「神は、人間の内部の中心であり、中心の中心である。もともと、神は、自己自身のなかに住む。しかし、人間の精神が神とひとつの精神となるとき、神は人間性のうちに、その心情、感覚、欲望のうちに、みずからをあらわし、心情は、神を感ずる。さもなくば、神はあまりにも玄妙細微で、私たちは神を見ることができない。しかし、感覚は、ガイストにおいて神を見る。ガイストとは、意志のことである。なぜならば、意志は、感覚を神の中へ送りこむ。そして、神は、感覚にみずからをゆだね、感覚とひとつの本体になる。次に、感覚は、神の力を意志にもたらし、意志はそれをよろこんで受け入れるが、ふるえが止まらない。なぜなら、自分には、それを受け入れるだけの価値がないと考えるからだ。意志の生まれは、ぼろ屋で、がたがたの心情だから。それ故、意志は、神の前にぬかづいて、力を受けとる。こうして、その天にものぼるよろこびから、柔和なへりくだりが生ずる。それが、神の真の本体であり、それは、その本体をつかむ。このつかまれた本体が、意志の中における天のからだであり、真にして正しい信仰であって、この信仰を、意志が神の力のうちに受けとったのである。信仰は、心情の中に沈み、魂の火の中に宿る。」(『キリスト、人となる』U10−8)

このベーメの認識様式には、合理的思考系の言葉群――「弁別」「推理」「分析」「選択」「反省」「予見」「象徴化」などは見出されない。それとは別の言葉群が配列されている。そして、それはさらに二つの群――情動系と知覚系の言葉群とに分れる。前者には「心情」「意志」「欲」「魂」「ガイスト」が配列され、それはやがて後者の「嗅」「感」「味」「視」「聴」へと進み、この二つの群は、Sinn官能=感覚で連続し、前者が下位、後者が上位のグループとなっている。認識する「私」は、ひろがりも、あつみもない一つの点ではない。「私」は、対象的・観念的な仮説ではなく、不透明な、闇の「底無し」にすっぽりとつかっている。この深淵から上方へと、複数の層を成しながら、生のエネルギーが噴き出してきて、知覚像を結ぶ。永遠の闇の奥底から、形あるものが浮び上ってくるとき、漠然とした情動――たとえば、不安、恐怖――は、血と肉のある現実となって、「私」を圧倒する。この一次的な知覚像が残像となるときはじめて、意識としての私は、残像をなぞり、概念的意味を抽出し、この新しいレベルで、加工された知覚像を統合し、批判し、肯定し、否定する。たしかに、客観的思考系は、それ自体、完結したシステムをもった高等な精神活動ということができる。しかし、脳生理学上、大脳皮質が精神活動の高次のレベルとなっているということは、また、それが、人間全体の活動の末端の引き金となっていることを意味する。このため、大脳皮質が人間性の根元であるという誇らしげな知性主義が、人生、社会、政治などの重大な局面での判断において大きな誤りを犯すのも、当然なのである。