11/19 更新 |
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◆ 元禄、文化文政の文化と碁の隆盛
碁の隆盛は、歴史的にみて時代の転換期に名手、天才が出現し、産業の進展による経済的な安定、文化的な繁栄と軌を一にしていると思われる。
江戸幕府は、さきに述べたように碁の保護育成政策をとった。この時点で碁は、技芸から国技となる。保護政策の根幹は「碁所」の制度である。碁所は名人の地位に在るものでないと就任できない。碁所に就けば将軍指南として、公式試合の御城碁は打たず、すべての碁の行事の取り仕切りを行なう。
例えば、すべての棋士の段位認定、免状発行権、御城碁の対局組み合わせ、外国人棋士との対局、展覧碁の組織などである。
碁院四家(本因坊算砂没後、本因坊、井上、安井、林家の家元制度となる)が、名人碁所の地位をめぐって碁を争う。これを「争碁」といい幕命によって行われた。碁に関する制度が整備された中、17世紀の後半、元禄文化が興隆する。この時期、第4世本因坊道策が出現する。
これまでの「算知流」とと称される力づくの古流に対し合理的な「手割り」を基調とし、全局的な布石の観点にたった布石体系を完成させた。
延宝5年(1677)幕命により「碁所」に任ぜられ、図11本因坊四世道策肖像、没後、碁聖と称せられる。
第二の繁栄期は文化文政から嘉永にかけての幕末の時代である。本因坊元丈
本因坊丈知、井上幻庵因碩、本因坊秀和、本因坊跡目秀策などの名手が輩出した。なかでも丈和は、力強い気風によって道策に次ぐ名人碁所であった。秀策は、布石を体系化し後年、棋聖の名で呼ばれている。現在でも、先番であれば秀策流を用いるプロ、アマの棋士もいる。
江戸後期は豪商、冨農が台頭し彼らの間に碁が楽しまれた。歌舞伎、演歌、狂歌、川柳などおびただしく碁が登場する。
碁が武士、僧侶以外に、町人の間日常化した。
これらは、碁が一般大衆の生活に根づいたことを物語っている。 |
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