マサと囲碁との出会いをさかのぼると、、幼稚園入園以前のことになる。マサが生まれたのは、大阪市の北西部で、以前は福島区亀甲町と呼ばれていた場所である。マサは、昭和27年の8月に、母よねと父繁治の五男として生まれた。現在、亀甲町という町名は、吉野町と改名されている。吉野いえば、桜で有名な奈良の吉野が挙げられるが、福島の吉野には桜の木は一本もない。ここ大阪は、昭和20年の大空襲でそのほとんどが、B29からの爆弾で焼け野原になってしまったが、この亀甲町の一角だけは、野田阪神にあった放射砲、(敵の飛行機へ逆襲を与える機関銃)があったためか、運良く焼け残ったと聞いている。実際のところはいくら放射砲で撃っても、B29には命中しなかったらしのであるが…
マサの家は、亀甲町で小さな煙草屋を営んでいた。囲碁との関わりのきっかけは、煙草の得意先に碁会所があり、そこにマサの父(繁治)が出入りしていたことに始まる。父の繁治は囲碁2段の腕前で、この小さな囲碁クラブでは強い方であった。幼児のマサが命じられた最初の仕事は、夜8時過ぎになっても、なかなか帰ってこない繁治を、よねの指令で連れ戻すことであった。マサは、囲碁クラブにつくとすぐに
「おとうちゃん、おかあちゃんが、怒っているよ、帰ろう」
「あ〜そうか、わかった」
「わかったなら、帰ろうよ」
「ちょっと待て。この勝負が終わったらな」
こういいながら、繁治は相変わらず碁を打ち続ける。
マサは、父の言葉を聞くとちょっと安堵し、近くの空いている席に座って、碁盤に黒白の碁石を並べて遊びだす。囲碁の打ち方を全く知らないマサは、、碁石をおはじきのようにして飛ばして遊ぶが好きだった。しばらくすると碁が終わったらしく、
「え〜、1目負けか。おかしいな、どこかに石が落ちてるのとちゃうか」
と繁治の声が聞こえて来る。繁治は一遍席の回りを探す振りをするが、落ちた石など見つかるはずがない。
「ないなあ、やっぱり負けか。お前インチキしたやろ」
自分の負けを認めたがらないのは、碁打ちの本性。
「なに言うとんねん。懲りん奴やの、おまえの棋力じゃ百回やっても俺には勝たれへん」
「なにいうとんか、この前、俺にぼろぼろに負けたくせに」
「あれはな、お前がかわいそうやったから負けてやったんや」
「そうか、それが本当やったらもう1局、最後の真剣勝負や、マサ、すまんな、もう1局で帰るから、ちょっと待ってや」
よ言いながら、また碁を打ち始めようとする。
「あかんでおとうちゃん」
「ちょっと待っとれ、すぐこいついわしたるさかい」
これが、いつも繰り返される碁打ちの口癖である。マサも迎えに来始めた当初は、いやいやながら許した、でも日を重ねるごとに、さすがに堪忍袋の緒が切れる。反撃は布石が終わり、これからというまさに中盤の戦いさしかかった時に起こす。
「空襲警報、空襲警報、B29到来、爆弾投下」と叫びながら碁盤の石をひっくり返しすのであった。これにはさすがの繁治も困り果てて、
「え〜とこやったのにな。お前、命拾いしたな」と捨てゼリフを放って、ようやく席を立つのであった。
マサは、当時自分がどのようにして碁を覚えたのかは覚えていない。小学生の頃には、碁盤と碁石で遊んでいたが、それは五目並べである。勿論それも正式ルールの五目並べ(連珠)ではなく、盤上に三三や四三を作れば勝てるといった程度の遊びである。そしてマサの家には、碁盤だけでなく将棋盤もあった。子供の頃は、囲碁より将棋盤でほとんど遊んでいた記憶がある。また将棋盤で遊びも、本将棋を指して遊ぶのではなく、「はさみ将棋」に「ひょこ回り」「ウサギとび」という程度であった。
本格的な碁の本も、大学生を卒業するまでに読んだことはない。不思議なことに、誰からも教わったことがないのに、「シチョウ」という言葉だけは知っていた。また相手の石を囲めば、その石は取れるというルールぐらいは知っていた。本格的な囲碁をした経験は高校時代には全くなく、大学時代でも、10数回程度である。