囲碁の歴史
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◆ 起源
囲碁の起源は中国で占星術の一法が変化・洗練されて今の形となったと言われている。『書経』には堯帝が不品行の人物の教育のために囲碁を作ったと言う話が載っているが、もちろんこれは伝説であり、実際の起源ははっきりとは判らない。

少なくとも春秋時代には成立していたようで、『論語』・『孟子』の中には囲碁の話題が出てくる。『史記』に春秋時代の宋の君主・閔公(びんこう)が部下の南宮万と対局していたときに、閔公が負けそうになったときに悔し紛れで南宮万を侮辱し、怒った南宮万により碁盤で殴られて殺されたと言う。しかし閔公と南宮万がしていた遊戯が囲碁だったかははっきりせず、別の博打・双六のようなものだったとも考えられている。

大幅に時代が下り、北宋代に編纂された『忘憂清楽集』と言う書物には三国時代の孫策が部下の呂範と打ったと言われる棋譜が残されている。しかしこれが本当に孫策の棋譜だったかどうかは分からない。この『忘憂清楽集』は現存する中で最古の棋書(囲碁に関する書物)である。


◆ 日本伝来
日本には遣唐使に加わった吉備真備が伝えたとされる。しかし大宝律令の中に囲碁に関する項目があることからもっと以前から伝わっていたと思われる。奈良時代には盛んに打たれていた様で、正倉院に碁盤が収められている。現在伝えられている日本最古の棋譜と呼ばれる物が1252年に日蓮とその弟子吉祥丸(後の日朗)と打ったという棋譜であるが、おそらくは後世の偽作である。

室町時代に入ると各地の有力者たちは「碁打ち」「上手」と呼ばれる囲碁のセミプロを抱えて、互いに競わせるようになる。戦国時代に入ると、戦のシミュレーションとして大いに好まれ、隆盛を迎える。

この時期に群を抜いた第一人者として登場したのが日海(後の本因坊算砂)である。算砂はそれまでは対局する両者が碁盤上にあらかじめいくつかの石を置いて対局していたものを現在のまっさらな状態から打ち始める形式に変更したとされる。またそれまでの碁では存在しなかった布石の概念を始めて導入したとも言われる。

算砂は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の囲碁の師であり、三人共に算砂に五子置いていたと言う。算砂を現在のトッププロとすれば、信長たちは現在のアマチュア4、5段と言うところだろうか。その腕を信長に認められた算砂は名人の称号を名乗ることを許され、更に秀吉にも重用されて扶持を貰うようになり、家康が将軍となった後は名人碁所(めいじんごどころ)として囲碁界を統括することを命ぜられた。(算砂は将棋所も受けている)

戦国から江戸にかけては日本の囲碁のレベルが飛躍した時代であり、来日していた朝鮮人の李?(?は示編に勺)と言うものに三子を置いて勝利したという記録が残っている。



Wikipedia より抜粋