目次:
1.はじめに
19世紀後半以降、世界の企業経営は一貫して利益や株主価値の追求に過度の重きを置いたものではなかったろうか。その結果としての企業の功罪のバランスが崩れ始めている。特に、“人”を単なる経営資源の一つと位置づけたことで“人”のための経営と言う基本スタンスを取らなかったが故に歪んだビジネス社会を招き、企業行動に対する厳しい目は企業の存在意義そのものに疑問を抱かせる状況まで生んでいる。
アメリカのハーバード主導による経営哲学に他の先進諸国の多くの経営者や経営学者たちが、あまりにも盲目的に追随してきたきらいがある。異なる宗教、伝統を基盤に特有の文化・風土・価値観を持ちながら、あたかも唯一絶対の哲学かの如く無防備に取り入れてきたことに問題がある。こうしたアメリカ式経営の模倣によって、アメリカのビジネス環境とは大きく異なる地域でも、現実には飛躍的な経済的成長を遂げた企業が多く生まれたことがその流れを助長したのであろう。その結果、経営者たちも自社が置かれた環境に適応し、人の真の豊かさを実現するための“ありたい姿”を冷静に描くことを忘れていたのかも知れない。
当のアメリカの経営学者の中には、企業利益偏重の経営に警鐘を鳴らし始めたグループもある。彼らは、企業統治(Corporate Governance)、企業の社会的責任(Corporate Social Responsibility)、社会的に責任ある投資活動(Socially Responsible Investments)、環境管理(Environment Management:環境保全コストと長期的企業利益のバランスを追求)等々の重要性を真摯に受け止め、企業の責任を自ら問い始めている。アメリカの優れた平衡感覚が垣間見える。
アメリカ主導を排除すべきなどと主張するつもりはない。むしろ、常に漸新で革新的発想を絶え間なく発信し、世界に問い、自問自答しているアメリカの経営者や経営学者にむしろ敬意を持つ。問題はそれを受け止める側にあることを指摘し、盲従することに警鐘を鳴らしたい。
本稿では、第3千年期に入った今、社会が期待する企業の存在意義は? 企業経営の永遠に変わらない姿はどうあるべきか?と言う課題に敢えて挑戦する。即ち、経営の中心に身を置き、経営の軸受けとなる”人“、さらには、直接・間接に企業を支え、見守り、影響を被る”人“の真の豊かさの創造のために、企業経営者はどう行動すべきかと言う視点で考察する。
2. 企業は何のために存在するのか?
3. 企業に課せられた責任とは?
ヨーロッパ主導の“企業の社会的責任(Corporate Social Responsibility::CSR)”のISO規格化に向けた作業が来年から日本でも始まる。企業が目指すべきいわゆる「あるべき経営の姿」とは何かを決める対象分野として、企業統治、消費者保護、危機管理、雇用機会の均等、人権擁護、環境保護等々50以上の項目が検討される予定だ。CSRの趣旨は、企業は経済活動だけでなく、様々な社会的な側面においてもバランスの取れた活動を行う責任を果たすことを基本理念とすべきとしている。そして、企業のCSR達成基準は、“社会的責任投資(Socially Responsible Investments:SRI)”、即ち、新規取引や機関投資家による投資選定の基準にもなりつつある。企業の利益追求とCSRの実践の両立こそ持続的発展のためには不可欠な要件である。また、Stakeholder(利害関係者:株主、社員、消費者、取引先、地域社会など)の企業行動に対する関心もますます高まって行くであろう。
その背景には、近年頻発している企業不祥事、例えば、利害関係者を欺いたアメリカのエンロン(Enron)、日本中を驚かせた雪印乳業や日本ハム事件などを契機に企業倫理への社会的関心が高まり、企業に対する信頼回復が焦眉の急を要する課題となったことがある。
企業の平均寿命はおよそ30年と言われる。現代のように不確実性が増大すればさらにそのライフサイクルは短くなるであろう。それは、企業間格差、即ち、元気な企業と病んでいる企業の両極化が進んでいることを意味し、企業経営の“舵取り”の重要性がますます高まっている。舵取り(経営のリーダーシップ)とは、短期的利益追求に明け暮れるのではなく、確固たる理念と目的を掲げ、将来を見据えた戦略を立て、それをひたすら信じて実行に移すことである。
内部告発によって不祥事として暴露されないまでも、企業経営者の中には、自らの将来を予測する能力の足らなさに気付かない人たちが多い。永年尽くしてくれた社員に責任を転嫁し、彼らをリストラしながらも自らの責任からは逃れようとし、ことの重大さに目を瞑りひたすら短期の利益を追い求める姿勢には大いなる疑問を感じる。
<経済的責任>
Tracy B. Weissらが主張するように、「経営者は自社の業績が僅かながらインフレ率を上回る成長、即ち、鼻を水面から突き出し辛うじて呼吸出来る程度では、株主も投資家からも顧客からも満足を得られない」。「顧客や投資家に対し価値を提供出来る能力を示す唯一の方法は、競合他社より群を抜いて大きな成長を成し遂げて見せること以外にない」。それは、市場において誰よりも素早く“誰もやっていないこと”を打ち出し、市場に衝撃を与える位の競争力を誇示することである。但し、社会的責任を常に意識することが前提である。
今日の企業社会では、経営者の肩に掛かる新たな財務的課題が重圧となっている。会計ビッグバンによって引き金が引かれたことにより、時価評価の時代の到来で、長年続いた安定株主構造が崩れ始め、旧来の経営指標では株主ニーズを満たしきれない状況になっている。そうした中、経済付加価値(EVA:Economic Value Added)経営が注目さている。つまり、税後利益から資本コストを差し引いたEVAの増減(単年度損益とバランスシートの総合的評価)と言う物差しによって年ごとの“企業価値”が測られ、経営者の手腕が一目瞭然となったからである。それは、“株主価値(Shareholder Value)”として株主への利益還元を確実にすることにも繋がる。企業の真の経済付加価値を左右するのは、“資本コスト”、即ち、リスクの小さい証券利子率に自社のリスク・プレミアムを加えたものであるが、この基準は株主にとっては極めて有難いが、本稿の趣旨からすると、一概に賛成出来ない。
理解出来るのは、経営陣を含む全社員をEVAにコミットさせることで意識改革を行う絶好のチャンスになることである。ただ、こうした考え方の先に見えるのは、投資家の期待するリターンが資本コストを下回るか或いは同等以下となれば投資に躊躇し、結果として企業に過激な選択を迫ることに繋がる。そして、企業経営者は「選択と集中」を遂行するためには不採算事業からの撤退を考えざるを得ない状況になり、多くの人的犠牲者を生んでいる。但し、撤退は必ずしも完全閉鎖を意味しない。つまり、撤退する事業を買収し、新たなリーダーシップと戦略の下で今迄以上に発展させ、社会還元出来る企業が必ず存在するからである。
しかし、このように新たな会計基準が誘発する事業再構築活動(本来のリストラ)の連鎖の結果として“株価”が押し上げられ企業価値は高まる。問題は、本質からはずれた活動に集中するあまり、思わぬ落とし穴を見過すことがある。つまり、単に企業価値(株主価値)のみではなく、企業の“真の価値”が見落とされることである。一時的な株価の引き上げで株主価値を高めたとしても、消滅した職場やそれに伴って去る社員たちによって齎される代償として残る莫大な潜在コストが深刻な問題となる。
少々過激な表現だが、リストラ(解雇の代名詞としての)を大量虐殺と言う人がいる。それは企業の危機的状況の中で止むを得ない選択肢であっても、経営者としての怠慢と不十分な予測能力の結果としてリストラと言う状況に追い込んだ責任は大きい。短期的利益を追求するあまり、安易にリストラを断行する経営者には慎重さと長期的リターンの優先を喚起したい。
アメリカ経営者協会(American Management Association)のリストラ効果に関する調査によると、1989年から1994年までの5年間に、企業のダウンサイジングに踏み切った大手企業の30%は労働生産性が向上したとしているものの、34%の企業が逆に生産性が低下したと言う。また、これらの企業の従業員の内、勤労意欲が高まったと言う人は僅か2%に対し、86%の従業員は勤労意欲を全く失ったと報告している。
企業目的を達成するために、苦楽を共にしてくれる社員の生活を保証しようとしたはずの経営者が、結果として目的とは裏腹に彼らの生活を悲劇的な結末に陥いれるのがリストラである。さらには、先述したように、幸い元の企業に残ることになった社員の動揺による揺り戻しが、悲劇に追い討ちをかける。即ち、予測能力に欠ける経営者を持った企業は、結局非人道的であるとの誹りを受け、長い年月をかけて勝ち取った評価さえ一瞬にして無にしてしまうことである。
<変革の責任>
経営者が自らの正確な“読み”なしに戦略的意思を示し、むやみに大きな変革を試みるのみでは失敗する。そして、企業の戦略的目的から外れた上に、多大のコストを背負うことになるからである。戦略的イニシアティブを成功させるための鍵となるのは、戦略、企業風土、人事制度などの横糸を完璧に通すことによって諸機能の相乗効果を最大化させることである。
エクセレント・カンパニーと言われる企業では、変革を起こすためにはこれら諸機能を互いに、それも意図的に介入・交錯させることが経営の基本であると考えている。即ち、目標を設定し、計画し、そして社員とのコミュニケーションを徹底すること、さらには、評価・報償までの機能を一貫させることこそ、それらを真に機能させる。
企業の変革に伴う様々な人の内面に関わる問題を、Jeanie Daniel Duckは“変革の怪物”と呼ぶ。怪物とは“人々の内面に潜む極めて人間的・感情的なもの”であって、変革に対し強い抵抗を示す。例えば、企業の戦略の大転換、例えば、M&A,Reengineering(リエンジニアリング:Business Process Reengineeringのこと)などを決行しようとする際にこの怪物が動く。怪物を眠らせておくためには、経営トップが、まず何のための変革か、なぜ今それが必要かを明確に説明し、自分たちの“ありたい姿”と戦略を明示し、全社員の理解と協力を得ることがやるべき第一歩である。その中で、経営者は社員の生活を守ることを最優先課題に位置づけ、組織としての貢献意欲を駆り立てる。つまり、宣言した変革が、社員の生活の脅威とはならないことを説くことが肝要であると主張している。
<社会的責任>
Jerry W. Anderson, Jr.によれば、「“社会的責任”と言う概念は、人類発祥と共に生 まれて以来、徐々に進化して今日に至っていると考えられ、それは、人それぞれに異 なった受け取り方をされる性格のものである。例えば、企業の利害関係者の多くは、企業は社会に渦巻く色々な問題を解決する道徳的責務を負っていると感じてはいても、現実には企業の多くがこうした問題に真剣に立ち向かっているかどうか疑念を抱いている」。
企業とは商業活動を通じて利益を指向する私的団体であるが、その規模にはかなりの幅があり、その企業を取り巻く形で“社会”が存在する。その社会は、ある共通の利害、生活スタイル、行動パターン、価値観、歴史、伝統、そして目標を持つ人たちの集合体である。社会はまた、個人或いは少人数が集まってつくるグループ(小企業、PTA、自治会など)と、大企業、自治体、政府機関等々のように多人数からなる巨大グループで構成される。こうした複雑な社会にあって、企業は課せられた諸々の責任をどう果たすべきかを模索していても、現実の企業社会は、人々の生活を犠牲にして成長すると言う自己矛盾を抱える。例えば、50万人とも言われるいわゆる“Jobless(不就労者)時代”と言う現象が、結果として企業コストを引き下げ、企業業績に貢献している事実がある。企業統治(Corporate Governance)と言うスローガンを掲げていながら、それが機能しなかった結果が暴露されている。
しかし他方では、企業内外に対する経営の透明性を積極的に高めたり、意思決定プロセスの改善を見事にやり遂げ、そしてそれを維持することで成功している企業も多い。外部の知恵を意思決定プロセスに直接・間接に取り入れたりするケースもある。
日本企業とアメリカ企業の経営上の最大の違いは、株主に対する考え方であろう。アメリカ企業は、ほぼ例外なく“株主”を名実共に最上位に据えているのに対し、日本企業は、株主を経営者・社員と良くて並列、場合によってはそれより低く見てきた歴史がある。最近になってそのバランスが変わってきた。即ち、アメリカ的考え方に移行しつつある。どちらが善か悪かを決め付けることは出来ないが、筆者は、基本的には全ての利害関係者を等しく重視することを支持するものである。株主を軽んじろと言うつもりは決してない。もっと他の利害関係者への配慮をすべきと主張するものである。
<環境に対する責任>
F. Capra(中丸寛信『地球環境と企業革新』から引用)が主張しているように、「環境問題とは、もはや数ある問題の中のひとつではなく、われわれの生活、企業活動、政治、その他あらゆる要素を結び合わせる『文脈』なのである」「現代が抱える重要な問題について知れば知るほど、それらを個別にとらえることができないことに気付かされる。それらは相互に関連し依存し合った体系的なテーマである。……実際、状況を調べれば調べるほど、これらの問題は、単一の危機が見せる多様な側面の一つにしか過ぎないことに気がつかされる。それは究極的には認識の危機である」。
現代のように、“人間中心主義”、即ち、人間が自然の価値を使用価値としか見ない認識を持ち続けるならば、人類は着実に破滅に向かって突き進むことになる。企業経営においても、自社の経済活動を拡大すればするほど社会の危機を助長していると言う側面を自覚することから始めなければなるまい。
また、Theo Colbornらはその著書『Our Stolen Future』の結語として、「生物は環境を変えずには生きていけない。これは生命あるものすべての性である」としている。彼はまた、微生物が地球大気の組成を変え始めた太古からこのことは少しも変わっていない。人類が地球に登場してからの数十億年は、自然現象としての環境変化や人為的な環境汚染(例えば、ホルモン作用撹乱物質、オゾン層破壊のフロン、地球温暖化の元凶CO2などなどの有害化学物質)、は個別の現象としか見られておらず、河川が汚染されることはあっても、地域単位の限られた範囲であって自然治癒力や人間の叡智に楽観と期待を持っていたと思われる。しかし、これらの汚染が自然の自己治癒能力を超えてしまった時には人間の修正努力など全く無力である。さらに、人間は、科学技術の進歩、人口増、企業活動のグロ−バル化などの相乗効果によって、環境変化のスケールを地域から地球全体のレベルにまで拡大させてしまったことも忘れてはならないと警告している。
地球のような巨大な複雑系の場合、影響が顕在化し、人間がそれを感知するまでにかなりの時間を要する。その間に今の人類とその子孫は、快適さや便利さの代償としてこのことを受け取る運命になったのではと危惧する。
しかし、ここに企業の“あるべき姿”が見える。即ち、企業が、人間の利便性、刹那的満足感を与える見返りとして利益を得ようとする活動を続ける限り、今日現在人間が手にする科学技術では上述の危機は避けられない。そこで、環境を保全する企業の責務や行動規範として、環境保全を企業戦略の中核に織り込み、経済活動とのギリギリの調和をどう取るかを真剣に考え、行動するしかない。さらに、世界の全ての国の政府や研究機関が総力を挙げて、人類が持続的に生存可能な環境汚染の限界を遠ざけることに成功することを願う。先のF. Capraの言葉「人間の認識の危機」の意味を今一度考えて見る必要がある。
環境省の「平成13年度環境にやさしい企業行動調査」では、“環境に関する取組みを企業の最も重要な戦略の一つと位置づけ、企業活動の中に取り込んでいる”と回答した企業は、平成10年度には1,051社中17.7%であったのが、平成13年度には29.3%に拡大している。また、“環境に関する取組みは今後の企業業績を左右する重要な要素の一つとして取組んでいる”と答えた企業は、平成10年度には1,291社中28.7%であったのが、平成13年度には33.3%と拡大している。さらに、その他の企業の内、環境保全に消極的な回答率は、平成10年度には9.7%あったものが、平成13年度には5.2%に減少している。しかし、この調査結果から明らかなように、未だ環境保護意識が希薄な現状、即ち、経済利益追求を第一優先課題と考える企業が多数を占めていることが伺われる。ISO(International Standard Organization)14004の定める「環境マネジメントシステム」を採用する企業も増えつつあるが、全ての企業による真剣な取組がなされ、そしてその実効が確実に上がることを期待する。
今こそ、拡大から保全、量から質、支配から協力へと言う価値へのパラダイムの転換が必要であるとするF. Capraらの提言を、全ての企業が真剣に受け止めて、実行する最後のチャンスかも知れない。
4. 未来の企業経営の“あるべき姿”とは?
P. Druckerの主張する。「経営のパラダイムの転換も、現実を認識した上で、ある“仮説”、即ち、経営には、唯一無二の“あるべき姿”が必ず存在する」を打ち立て、その上で現実的姿を追い求めると言う思考プロセスが重要である」。そして、その姿を知る“解“までの道程は遠くとも、血眼になって飽くまで探し求めることの重要性を説いていると思われる。
Druckerは、上述の考えを企業組織の“あるべき姿”に関して述べている。1900年代初頭に、大規模製造業の“中央集権的ピラミッド型組織(今で言う機能組織)”が史上初の試みとして、当時ヨーロッパ最大の石炭採掘企業のHenri FayolやアメリカのJohn J. Rockefeller或いはAndrew Carnegieらによって試みられたことを紹介し、そして、当時の経営者らは、現実を見てある仮説を立て、あるべき組織像として“機能型組織”が解であると信じたのであろうと考えている。ただ残念ながら、FayolやCarnegieの組織概念は我々の求める理想の姿ではなかったことは明らかであるとも言う。さらに、その後のPierre DuPontらによるピラミッド型とは対照的な“分散型組織(フラットな組織)”を解と考え、実行に移しているが、これも理想の姿とは言えないとする。また、Drucker自らも新たな試み“チーム主導の組織づくり”を行ったが、普遍性ある組織とは言い難いと自戒している。
“組織”に関する限り、特別な環境下では機能するものの、環境が少しでも変われば機能しなくなる。絶対的・理想的組織など存在しないと考える方がむしろ自然かも知れない。組織とは、複数の人々が協働し、生産性の高い仕事をするための単なる手段に過ぎないし、一定の条件下で、一定の時代においてある種の業務には適応するものと考える方が自然かも知れない。彼は、何事にも仮説を立て、その理想の姿と言う“解”に到達出来なくとも、試行錯誤することによって知恵の集積を得ることが重要であることを主張している。
企業は人の集合体である。そこに集まる個々の“人”はそれぞれ固有のベクトルを持つ。ベクトルは、個々の価値観に裏打ちされた力であり、方向性を持つが、それらは必ずしも同一の方向を向いていない。そこで、そのバラバラの力の集合体を一定の方向に指向させる“何か”が必要となる。その“何か”とは、企業としての存在目的の明示である。その目的を成就させるためには、統率・案内するリーダーシップが必要であるが、合意された存在目的・ありたい姿を知り、それに向かって進む企業は、社会から認知され、受け入れられる頼もしい運命共同体となるに違いない。
企業の”あるべき姿”とは、社会からの視点で見て、客観性を持ち、社会が受け入れることの出来る企業としての究極の、そして理想の姿を意味する。その実現のための基本条件として、 (1)社会貢献、(2)環境保全に対する貢献、(3)経済的貢献の3つの何れをも犠牲にすることなく追求し、満たさなければならない。いずれの条件も等価であり、どの1つが欠けても、或いはバランスを崩してもならない。
他方、企業の“ありたい姿”とは、個々の企業が描く固有の姿であり、それぞれの企業が意図する自社の競争の場(事業領域)及びその場において将来どう言うポジションを勝ち取るかと言う自ら掲げた具体的目標(=Vision)である。また、その自らの戦略的意図を内外に明示し、利害関係者が共有し、コミットし、それに向かって協働するために不可欠の指針となる。
5. おわりに
Richard E. Nisbett(村本由紀子訳『木を見る西洋人、森を見る東洋人』)が、東洋人と西洋人の“認知”の違いについて考え方・ものの見方の違いを分析している。 掻い摘んで挙げると次のようになる:
- 注意と知覚のパターンについて、東洋人は環境に多くの注意を払い、西洋人は対象とするモノに多くの注意を払う。東洋人は、出来事間の関係性を見出そうとする傾向が強い。
- 世界の成り立ちについての仮定について、東洋人は実体、西洋人は対象物から成り立っていると考える。
- 環境(社会)を思い通りに出来るか否かについての信念に関しては、西洋人は東洋人よりも強く、自分の思い通りにそれを変えられると信じている。
- 安定と変化に関する暗黙の仮定については、西洋人は安定を、東洋人は変化を仮定している。
- 世界を体系化する習慣について、西洋人はカテゴリーを好み、東洋人は関係性を強調する。
- 形式論理学の使用に関して、西洋人は東洋人よりも、論理規則を用いて出来事を理解しようとする。
- 弁証法的アプローチの適用について、明らかな矛盾に直面したとき、東洋人は“中庸”を求め、西洋人はいずれかの信念が正しいことを明確にすることに拘る。
概括すると、東洋人である日本人は”森を見る“に対して、西洋人は”木を見る“と言うことのようである。西洋人は左脳を多用し、分析的な考え方に長けており、一方、日本人は右脳を多用し、類似性を見る感性・直感に優れていると言われる。
筆者自身も実体験でそれを感じたことのある逸話がある。例えば、ビジネス・スクールのグループ・ワークなどで経験することであるが、指導教官からあるテーマを出され、一定時間内に結論を出す作業において、日本人だけのグループは雑談が多く、限られた時間内にとても間に合わないように思えても、一応のコンセンサスを得たグループとしての結論を何とかひねり出す。西洋人だけのグループを覗きに行って見ると、フリップ・チャートやパソコンなどを使い理路整然と議論を進めている。進行役も決まっているし、発表者も予め決めている。ただ、驚いたことに、全体会議での発表になると、“解”が一つの場合、西洋人と東洋人グループは同じものを出す。解のないテーマ、即ち、ある提言をそれぞれが行うと言った場合には、西洋人グループの方が説得力があると感じることが多い。
このような認知の仕方に違いがあるにも拘らずアメリカ式経営スタイルを日本人が取り入れ、成功したことに関して、先のNisbettの7項目に照らして考えて見ると極めて明快に説明出来る。本稿の「はじめに」でも触れたように、経営の“あるべき姿”とはあくまで“人”を中心に置いたスタンスを頑固なまでに守り、それを絶対に忘れてはならないと考える。ここで言う“人”とは、顧客であり、株主であり、経営者・社員であり、取引業者であり、その企業が業を営む地域すべての人々であり、さらには一般社会の人々全てを指す。社会への目配りをした“バランス経営”こそが目指すべき姿であると信ずる。
直接の利害関係者間にあって上でもなければ下でもない関係こそ、絶妙な緊張関係を生み、結果として企業をよりスピーディに、より効率的に、そして、社会に100%歓迎される真の成功に結びつくと考えるからである。
−以上−
引用・参考文献
- Peter F. Drucker『Management Challenges for the 21st Century』HarperBusiness
- Stephen P. Robbins『The Truth About Managing People』Prentice Hall.
- 津田誠上(日本の経営文化)ミネルヴァ書房.
- ハワード・スチーブンソン、ジェフリー・クルックシャンク『スチーブンソン教授
に経営を学ぶ(Do Lunch or Be Lunch)』日経BP社. - 中丸寛信『地球環境と企業革新』千倉書房.
- 新原浩朗『日本の優秀企業研究』日本経済新聞社.
- Howard H. Stevenson & Jeffrey L. Cruikshank『Do Lunch or Be Lunch: The Power of Predictability in Creating Your Future』Harvard Business School Press.
- Richard E. Nisbett(村本由紀子訳)『木を見る西洋人 森を見る東洋人(The Geography of Thought)』ダイヤモンド社.
- アーサーアンダーセン ビジネスコンサルティング『ミッションマネジメント』生産性出版.
- Tracey B. Weiss & Franklin Hartle『Performance Management』St. Lucie Press.
- Jerry W. Anderson, Jr.『Corporate Social Responsibility』Quorum Books.
- Theo Colborn, Dianne Dumanoski, John Peterson Myers(長尾力訳)
『奪われし未来(Our Stolen Future)』翔泳社. - Harvard Business Review編『コーポレート・ガバナンス(Corporate Governanダイヤモンド社.
- 久保利英明、鈴木忠雄、高梨智弘、酒井雷太『日本型コーポレートガバナンス』日刊工業新聞社
- Jeffrey K. Liker(稲垣公夫訳)『ザ・トヨタウェイ(上・下巻)』日経BP社
- Jeanie Daniel Duck(ボストン・コンサルティング・グループ訳)『チェンジモンスター』東洋経済新報社
- Joel M. Stern, Johen S. Shiely, Irwin Ross(伊藤邦雄訳)『EVA価値創造への企業変革(The EVA Challenge)』日本経済新聞社
- James C. Collins, Jerry I. Porras(山岡洋一訳)『ビジョナリー・カンパニー(Built To Last)』日経BP社
- 自由国民社編『現代用語の基礎知識2004』
<出典:羽衣国際大学 産業社会学会誌(産業・社会・人間)、No.5>