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<研究ノート>
“囲碁”から兵法そして経営戦略への進化過程に関する考察(その1)
(A study on the evolutional process from “the Game of Go” to war strategies, and further to business strategies)

羽衣国際大学・産業社会学部教授 足立敏夫

目次:

  1. はじめに
  2. 囲碁とは?
  3. 囲碁哲学と中国兵法の相互依存の関係
  4. 兵法から経営戦略への展開
  5. おわりに

1.はじめに

マイケル・ポーターは、競争(経営)戦略とは、競争の発生する場所において、有利な競争的地位を探すことであり、そのためには、競合相手との差別化を確立することと言う。それも今やグローバル・レベルで考えなければ、企業や組織は生き残りすら困難な時代となったと云われ続けて久しい。ITの驚異的進化によって、4つ目の経営資源とされる“情報”が、瞬時にして地球上はおろか宇宙のかなりの距離でもアクセス・伝達が可能となり、さらには、情報の“質”も今までの常識では考えられない広範な領域とレベルに変態しており、どこまで進化するのか不安さえ覚える。こうした情報洪水に翻弄されることなく、今こそ歴史に学び、将来を見据えつつ、物事(経営を含む)の本質に立ち返り、我が行く道、そして他者との差別化をじっくり考察する能力と余裕を必要とする。まさに囲碁の異称である“座隠”(後述) の精神が求められる時代とも言える。

本稿では、筆者の終生の趣味であり、魅せられて来た囲碁の持つ底知れぬ深さ、そして時空を超えた哲学・世界観が、企業或いはあらゆる組織経営の戦略を描く上で大いに参考になるとの思いから、その相関の考察を試みた。囲碁は、後述するように紀元前4000〜3000年が起源(伝説)とされるが、自然に依存した牧農社会に不可欠の年々の吉凶や天候の良し悪しを占う陰陽術に碁盤を使ったことがその由来とされる。その後数百年を経て、博奕 (ばくち) から、将棋、囲碁などのゲームの原型へと進化し、紀元前500年(中国・春秋時代)頃には、かなりレベルの高い戦略的ゲームに発達して行ったと考えられる。孫氏・呉氏の兵法書が成ったのもこの時代である。少々余談であるが、この頃の中国、インド、西欧、中近東において、情報の相互交流の全く無い時代に、それぞれ独立して(同時並行的に)多くの天才思想家や宗教原典が生まれていることに気が付く。例えば、孔子(紀元前551〜479年)、仏陀(紀元前563年没)、ソクラテス(紀元前470〜399年)、クセノポン(紀元前430〜354年)、プラトン(紀元前427〜347年)、さらには紀元前5世紀末から漸次結集され、600年後の1世紀末に最終確定したとする旧約聖書、などなどである。所謂“strategy(戦略)”と言う言葉・概念が生まれたのもギリシャのこの時代である。そして、それらがいずれも現代まで思想・哲学・宗教の原理として、発達の方向こそ異なれ、脈々と生き続けているのは偶然であろうか? 興味深い。

さて、林道義氏は著書『囲碁心理の謎を解く』のまえがき で、“囲碁は、創造力を養い、発想を柔軟にし、集中力を高め、感情をコントロールし、人格を磨くことを助ける、高度な精神的営みである”と、囲碁の効用と“碁打ち”心理を旨く表現している。その高度な精神的営みの結果として、左脳(論理)と右脳(感性)のいずれをもフルに使って物事の本質を追求する思考プロセスが如何に大切かを、囲碁は教えてくれる。

囲碁の異称・別称に、手談(しゅだん)、座隠(ざいん)、爛柯(らんか)、忘憂(ぼうゆう)、烏鷺(うろ)などがある。それぞれ個々の別称の由って来る理由についての説明は省くが、筆者は、本稿の趣旨から、特に“座隠”の雅称に関心を持った。即ち“座隠とは、心穏やかに、居ながらにして隠遁すること。即ち、精神的に世俗から離れ、沈思黙考し、本質を見極めようとする姿勢”であり、これこそが現代のリーダーに求められる姿であると考えるからである。組織のトップは常に孤独なものであり、あらゆる情報(内・外競争環境の変化分析・予測などなど)を基に自組織の向かうべき方向性(ビジョン)の最終決断を自らの責任において下さなければならない。そして、囲碁の真髄を座隠することで、自から下した決断に確信を持てると思うからである。

2.囲碁とは?

2.1 囲碁のルール

極めてシンプルで、40cm四方の碁盤上に引かれた縦横それぞれ19路(現代も19路であるが、6世紀前半頃の中国では17路であったと言う記録がある)の交点に、二人のプレイヤーが黒と白の円い石を交互にそして任意に置き(囲碁用語では、打つとも言う)、彼我の“地(じ)(取られない石で囲み、空いている交点の数)の多少で勝敗を決定する。その碁盤上の19路×19路=361の交点をフルに使って争う。単なる陣取りと言ってしまえばそれまでであるが、3,000〜4,000年以上の長きに亘り、世界中のあらゆる民族そしてあらゆる分野の人々を魅了し、熱中させ、悩ませてきたゲームである。
一見狭いようで無限(後述)のこの世界を天文地象になぞらえて、白・黒(陰・陽を表す)の碁石を以って陰と陽の気を働かせることによって、森羅万象の転変を現わそうとする易学の起点であると言われる。この原点からおよそ1,700〜2,700年を経た中国元代に成書となったとされる『玄玄碁経(げんげんごきょう)』(橋本宇太郎解説)によれば;

“…そもそも碁と言うものは、その形象からして天の円く地の角に似せて作られており、黒白の争いには自ずから天地陰陽動静の道理が働いている。打ち進められた盤面には天上の星の如く秩序整然たるものがあり、局面の推移は風雲の如く変化の機運に富んでいる。活きていた石が死ぬと言うこともあり、全局を通じて変化し流れ行く様は恰も山河が表裡をなして種々な容相を呈するが如くである。…”

とある。

その361の交点の世界は、一見決して大きく見えない。しかし、北栄の沈括(しんかつ:1030〜1094年)は、その著書『夢渓筆談(第18巻)』(梅原郁・訳注)の中で、

“…(碁盤)の二筋で作った方形(四目)で四子を使えば八十一手の変化ができる。三筋で作った方形(九目)で九子を使えば一万九千六百八十三手ができ、四筋の方形で十六子を使うと四千三百四万六千七百二十一手、五筋で二十五子では八千四百七十二億八千八百六十万九千四百四十三手(約8,473億)手の変化ができる…6筋の方形で三十六子を使えば十五兆九十四万六千三百五十二億九千六百九十九万九千一百二十一手(約15兆)手…七筋以上は数値が大きくて書き表しようがない。三百六十一の碁盤の目全部では、ざっと万の数を四十三重ねなければならない。つまり、これが着手の全数である…{昔の計算の専門家は万万を億、万万億を兆、万万兆を垓(がい)とする…}

と信じられない計算をしている。

また、現代の松原仁氏(はこだて未来大学教授)によれば、数学上の碁の理論上の場合の総数は約10360(1ゲーム平均150手数とした場合)で、殆ど無限である(*)。ちなみに、全宇宙の陽子の数が1030と言われていることからすれば、その多さは想像をはるかに超える。新・旧いずれの計算も、数学上の話で、ゲームとして無意味な“着手”も多いので、それを差し引いても無限に近い可能性であることに変わりは無い。そうであるが故に、この碁盤上の世界を小宇宙になぞらえ、陰陽道などの易学に利用された一方で、現実の“地の世界”における人と人の生臭い“戦”の原理を模索し、深淵な戦略構築の世界と看做されたことも理解できる。

情報社会の基礎を築いた一人、マイクロソフト社の創業者、ビル・ゲイツも囲碁の愛好家であることは知られているが、彼もまた、孫氏の兵法を愛読していたそうである。彼の囲碁との出会いとその実力、そして孫氏の兵法に惹かれていった経緯は分からないが、彼の卓越した戦略思考は多分に両者の影響を受けたと思われる。しかし、囲碁の宇宙観と孫氏の戦略思考から、今日のWeb世界をビジョンとして想い描いていたかどうかについては定かではない。ただ、『最強の孫氏』の著者・守屋淳氏が、ビル・ゲイツは、ある時期まで一貫してコンピュータ言語やソフトウェアの開発を行っていたが、IBM社との出会いそしてIBMとの連携を決断することによってMS−DOSを一挙に世界のde facto standard(事実上の標準)化することをビジョンとしていたようだと推察しているように、深い“読み”を感じる。

注:*)その後、松原先生からメールでご返事を頂き、Victor Allis(Univ. of Limburg, Netherlands)の博士論文「Searching for solutions in games and artificial intelligence」(1994年)からの引用であるとのことである。

2.2  囲碁の起源と日本への伝来

囲碁の源流に関しては、「世界大百科事典」(平凡社)に、

“碁はインドから中国を経て日本に伝わったと言う説と、約3,000年以前に中国に発源し発達したとの2説がある。…唐時代(1,200年前)になって現在行われている19道361路になったようである。多分に易学から影響を受けているらしく、碁石の円は天にかたどり、盤面は周天の日数により、4分した90路は四季に、外周の72路は月齢に、中央の星を天元、黒白は陰陽と見ることもできる。日本に渡来したのは、735年(天平7年)、安倍仲麻呂と一緒に唐に行った吉備真備が持ち帰ったのが初めてと言われ、平安時代既に流行していたことは紫式部の<源氏物語>にもあらわれているとおりである。…“

とある。

インド起源説では、インドに起こった盤上のゲームが、ペルシャ(イラン)を経由して西欧に伝わりチェスに進化し、古代中国では天文学などの影響を受けて囲碁になったとされている。中国説を支持する人々は、漢代に既に存在していたとし、それが四川からチベット、ネパール経由でインドに達する道を通じて伝わったと見る。いずれにせよ、決め手がある訳ではない。

また、“堯舜起源説”(紀元前145〜86年の司馬遷の『史記』を著す際に参考にしたとされる戦国時代の古書『世本・作篇』)では、碁は4,000年を超える昔に中国にて発生としているが伝説の域を出ない。

日本への伝来ルートについては、先の「世界大百科事典」の内容も含めて諸説があるが、いずれも確証を欠き明確ではない。例えば、1)中国、朝鮮半島を経て日本へ、或いは、2)インド・チベット、東南アジアの海岸線を経由して日本へ、などの説があるが不明なことが多い。いずれにせよ、紀元前1世紀頃から8世紀頃にかけて何らかの方法・ルートで外国から伝来したことは間違いなさそうである。その後の日本における囲碁の普及・発展は現代まで連綿と続き、進化し続けたことは言うまでもない。

3.囲碁哲学と中国兵法の相互依存の関係

3.1 戦(いくさ)の原則

兵法の原点は、明らかに囲碁の哲学・宇宙観に見られることから、漢代以降、囲碁の原則{即ち、イ)上なる者は遠くまばらに石を布置しつつ、自ずと敵を封じ込め、地を得て勝ちを収める、ロ)中なる者はつとめて相手を遮りて、便を争い、利を求める。それ故、勝負もはっきりしないまま、計数を用いて定まる、ハ)下なる者は辺隅を守り、ひたすら目をつくって小地に生きようとする、ニ)数子を捨てても、1つの先手を失ってはならない、ホ)右を攻めようと思えば、左を打て、後ろを攻めるときは前を見よ、ヘ)両方生きている敵の石は切るな。味方の石は繫がるな、ト)広くとも粗くなり過ぎるな。狭くとも凝りすぎるな、チ)石に恋々として生きを計るよりは、それを棄てて外勢を取るにしくはなく、必然性もなく強行するよりは、それを含みにして自らを補うにしくはない、リ)凡そ必然性もないのに自らを補うのは、次に侵したり絶ったりする狙いがあるのであり、小を棄てて顧みないのは、大を図る心があるのである、ヌ)手の行くままに石を下すのは、無謀の人であり、考えもなく敵の手に応じるのは、敗を招く道である、ル)雌雄がまだ決していない内は僅かの緩みもあってはならず、局勢が有利となれば専心生きを求め、局勢が不利となれば鋭意侵略を図る、オ)焦って勝ちを求める者は、たいてい敗れる、ワ)争いを避け、自らを保つ者は得るところが多く、軽率で貪る者は失うところが多い、カ)敗れて反省する者は勢が進み、勝って驕 (おご)る者は勢が退く、ヨ)自らの過ちに期待しない者は益を得る、タ)敵を攻めていて、敵が自分を攻めることに思いが及ばない者は損を被る、レ)目を一局に凝らす者は考えが周到になるが、心を他事にかまける者は慮(おもんばか)りが散漫になる、などなど}が戦争のルールに取り入れられてきたことは多くの文献からも明らかである。囲碁の歴史が3,000〜4,000年とすれば、孫子の兵法書が書かれた時期が2,500年前であることからも、兵法が囲碁の基本原理を起点にしていることを裏付けている。そして、その後の歴史の過程において、それらが相互に影響しつつ発達したと考える方が自然であろう。例えば、中国・明代(1368〜1644年)に謝肇淛(しゃちょうせい)の著した『五雑俎』の一節(渡部義通氏解説)に、“囲碁の駆け引きを見ると、その進退・取捨は正手・奇手を互いに放ち、虚実交々(こもごも)施し、或いは与えると見せて奪取し、或いは破れるかにして功を収め、或いは先手を求めて却って後手にまわり、或いは守勢をとって勝機をつかむなど、すべて変幻にして機会が卒然と転変する。まことに兵法の集大成であり、・・・幽玄の道である”とある。

また、ほぼ同時代に成った『玄玄碁経』(現代のプロ棋士も原典として研究)には;

  • 名人上手と言われる人は、守る場合には分をわきまえ、争いに際しては堂々と義をもって立ち向かい、礼を失するような打ち方はせず、形勢判断にあっては智をもって的確に処置している。
  • まさに碁に言う布石や戦略、どう攻めどう守るかと云う様なことは、国が政令を施行する時機のつかみ方や軍事行動を取る作戦と似ており、碁を習うと言うことは、取りも直さず平安な世にあっても乱世に処する志を常に忘れぬ戒めともなるものだ。
  • 碁は充分な計画の基に正しく布陣することによって優勢を占める様心掛け、権謀策略を存分に用いて相手を制することが肝心である。心の内で充分計画を練ってこそ、良い成果を収めるものである。戦いが始まる前に大勢を制するものは正しい計算に長けているからで、充分に計画したにも拘らず勝ちを得られなかったのは、考えが足りなかったからである。戦い合っているのに、どちらが勝っているのかも分からないのは、初めから計画も何も無かったからである。兵法に曰く、計略多きものは勝ち、少なきものは勝たず、と。…無謀無策では勝負に勝つことなど覚束ない。
  • 何事にも物事には骨格とか規範と言うものがある。碁ではそれが初めに置かれる置石の配置であり、定まりとして守らなければいけない。
  • しっかりと基本の形を身につけていないことには結局良い結果は生まれないものである。
  • 概して、よく敵に勝つ者はむやみな戦いをせず、布石が良ければ戦うまでもない。充分な計算の基に戦う者は敗れることがなく、例え敗れても乱れてしまうことはないものである。
  • 碁は初めに正しく布陣することが肝要であることは云うまでもないが、勝ち切るためには種々と奇策、術策を用いなければ到底勝ちに至ることはできない。
  • 碁はあまりあちらこちらに石を配しては勢力が分散されて良くない。勢力が散らされると攻められた時にどちらも助けると云う訳には行かなくなってしまう。
  • 知恵者と言われる者は、事が起きない内に察知するが、愚者は事が起きてからでないと分からないものである。
  • 敵を良く知る者は強く、相手を軽く見る者は敗けてしまう。全局的に思慮深き者は高貴であるが、部分ばかりに執着して他を顧みないものは卑しい。
  • 兵士という者は本来、策略をもって相手に向かうことを尊しとしないものである。計略を用いて陥れるというのは凡そ戦国時代の謀略に過ぎない。
  • 古人も言う通り、正しくあれば相手を騙すこともない。
  • 近くの戦いが遠い石に関連して行くこともあれば、小さな戦いであったものが、大戦争に発展することもある。外側を強くしたい時は内側から攻めなくてはいけない。東を攻めたり地にしたい時は先ず西から戦いを起こせ。
  • 自分の地をしっかりとしてから後に敵地を侵すべきであるし、安全を確保してから兵を進める。
  • 布石は碁の骨子であり、敵を迎え撃つための布陣である。従っていい加減に考えて打つのも良くないが、考え過ぎるのも悪く、中庸を得た手であれば形勢が悪くなるということは先ずない。
  • 戦いは碁の本道ではない。已むをえず行われるものである。余り貪らずに自陣を確保し、しっかりと形を作り、地をよく守ることが出来ればむやみと戦うこともなく、実を得るというものである。、

などなどがある(本稿で紹介したのは筆者の独断と偏見で選んだほんの一部である)が、本書が紀元後1349年に書かれたとされている(即ち、孫氏から1,800年有余経過している)ことからして、明らかにこの時期には、逆に孫氏の兵法が囲碁の考え方にも多大な影響を与えてきたこと、そして兵法自身も囲碁から学び、さらなる発展を遂げたと見るべきであろう。相互影響が明白に伺える。

3.2 孫子の兵法

話は遡るが、『孫子』は、古代中国の夏(か)、殷(いん)、周(しゅう)の三代王朝の内、周王朝(今から約3,000年前に建国)の後半(紀元前500年ごろ)に、その著者の孫武が君主・闔廬(こうりょ)に献上 した戦略書として書かれたものであるとされている。この書が、その後現代までの2,500年の長きに亘り普遍的戦略書として、世界の歴史上の多くの著名な政治家、軍師、学者そして企業経営実践者たちに広く読まれ、研究されてきたことは驚異である。筆者のみならず、どこにその秘密があるのかを知りたいと思うのは自然であろう。以下に、その13篇から成る兵書のエッセンスを抽出して見たい(筆者の単なる推測であるが、囲碁の発祥が兵法を生んだことから推察するに、孫武は並外れた囲碁の達人であったであろうことが伺える)。また、抽出するにあたって、武岡淳彦氏の訳文(『孫氏を読む』)から多くを引用させて頂いた;

(始)計篇:

戦争は国民の生死、国家の存亡に関わる大事(確たる哲学・理念・ビジョンを持つこと)であるから、現実を慎重に見極めよ。そのためには、1)国民は為政者と一心同体であれ。即ち、生死を共にすることを躊躇するな(“道”)、2)気象条件(外的環境変化)に応じて作戦は臨機応変であれ(“天”)、3)予想戦場に至る道程、地形、地質を徹底して調べよ(外的環境評価)(“地”)、4)将師(リーダー)たる者は、軍事能力、信頼性、仁愛、気力、威厳を持て(“将”)、5)組織、統制力、管理、人事、兵站を完璧にせよ(“法”)。

作戦篇:

軍事費は最初から充分用意してかかれ(国の保全こそ“戦”の目的)。特に、長期戦になった場合、兵士は疲弊し、鋭気を失う。国家財政も破綻を来たす(特に、兵站から)。食糧以外の軍需品は自国から追送し、糧秣は敵地で奪え。

謀攻篇:

戦争は、敵国に大きな損害を与えず勝て。平和的手段を駆使し、相手の策謀を見破り謀略により勝て。外交工作で敵国を孤立させよ。大局的に勝利できる将軍(リーダー)の条件:1)戦うか戦争回避かを判断できる、2)戦略は彼我の力関係で決まることを理解している、3)将兵の心を一丸にし、軍目的に集中させること、4)優れた戦略を立案し、用意周到であること、5)君主から絶大な信頼を得ていること。

形篇:

名将は、まず負けない形を取ってから、勝てるチャンスを待つ。不敗の態勢は防御により得られ、勝利は攻撃によって得られる。戦力投入実行手順:1)戦地の空間(遠・近・険・易・広・狭・死・生)を熟考、2)物力量(戦車など)を見積もる、3)物力量から兵力を見積もる、4)先述の3つの量の適否を徹底分析する、5)勝利の可能性を判断する。

勢篇:

多数の将兵、大・小部隊を旨く編成し、組織化せよ。そして、奇・正の機能を発揮させよ。敵軍にわが軍勢の「乱・怯・弱」の偽態を示し、或いは利を与える振りをし、敵をその陣から誘(おび)き出し、敵の敗形を誘い、わが軍の精鋭部隊で叩けるよう準備せよ。

虚実篇:

戦いにあたって、敵より先に戦場に着け。常に敵を己のペースに引き込め(虚実の理)。虚実の理を使う弱者の戦法の要諦は、敵の状況を正確に捉え(実)、自軍の状況を秘匿して(虚)、敵を盲(めしい)にせよ。わが軍がどこを戦場にしようとしているかを敵に悟られるな。常に主導権を握れ。

軍争篇:

用兵の大原則は、謀略を用いて敵の判断を誤らせ、好機を看破して行動を起こし、兵力の分散・集中によって戦機を作れ。変幻自在に、風の如く速く進み、林の如く整然と、火の如く激しく、山の如くどっしりと構えよ(風林火山)。

九変篇:

作戦行動に不適な土地に軍隊を宿営させるな。交通の要衝は外交交渉で確保せよ。不毛の地に軍を留めるな。包囲されやすい地形では、事前に脱出策を確認せよ。危険な将軍(リーダー)の性癖:1)向こう見ずで退くことを知らない、2)決断力に欠ける、3)敵の挑発に乗り易い、4)名誉心が強い、5)情に脆い。

行軍篇:

代表的地形に処する軍隊の行動原則:1)山地では谷地を進み、敵に接近したら高地を占領せよ、2)河川を渡河したら、直ちに河岸から離れよ、3)沼沢地は速く通過せよ(ここで戦う際には、木立を背にせよ)、4)平坦地は行動容易な場所を選び、後方の安全を確保せよ。

地形篇:

交戦する地形の活用法:1)機動が自由な場合、視界の良い制高地形に布陣せよ、2)障害の多い地形では、出撃せずに待ち伏せせよ、3)凹凸などで兵力が分散し易い地形では、自ら出撃するな、4)細長い隘路の場合、敵より先行し、敵の来着を待て、5)双方が険しい地形で対峙する場合、制高地形を占領せよ、6)平坦地では、敵・味方の兵力に大差が無い場合、戦うな。戦いでの敗北は、指揮官の情報力、判断力、指導力の欠如に起因する。敵を知り己を知って戦うならば、勝利する。

九地篇:

戦略的戦域:1)兵の心が逃げる戦場、2)兵の心が落ち着かない戦場、3)彼我争奪の場となる戦場、4)機動容易な戦場、5)交通の要となる政治上の要域、6)敵の国都後方の要域、7)機動が制限される地域、8)山川に囲まれた地域、9)危険な地域。
相手の手の内を読み、自らの手の内を悟らせない動きをし、好機に畳み掛ける。

火攻篇:

攻撃目標には、1)敵国後方の住民居住地(政治・経済の中枢があり、生産工場もある)、2)敵後方の軍需品集積所、3)軍需品輸送中の輜重(しちょう)隊、4)軍需品貯蔵庫、5)前線部隊、などがあるが、仮に目標を奪取しても作戦目的が達成出来なければ意味が無い。

目標攻撃のためには、1)味方の放火作戦が成功した際、組織的・迅速に攻撃せよ、2)敵陣内に火の手が上がっていても敵兵が静かな場合には自重せよ、3)その火勢の状況を見て判断せよ、4)敵陣外からの攻撃が可能となった場合、内部呼応者の動きを待つな、5)風下から攻撃するな。

君主、将軍は、次の3つの条件を整えて戦争を行え(戦争哲学):1)国益を獲得できる、2)確実に勝利の見通しを得る、3)国家が危急存亡の時。

用間篇:

勝敗の鍵は情報にある。英邁(えいまい)な君主、明敏な将軍は、事前に敵情に通じている(スパイを活用して)。スパイ(大事の要)には5種類ある:1)土着スパイ、2)敵方の内通者、3)後で消されるスパイ、4)2重スパイ、5)敵・味方の間を自由に往来するスパイ。これらを組織的に使い、敵・味方に絶対に知られない使い方の出来る人を“神の使い手”と言う。

4.兵法から経営戦略への展開

「孫子」及び「玄玄碁経」から学んだ囲碁と兵法からの教訓を、筆者の実務体験からの実感に基づき、拙速独断によりそのエッセンスの抽出を試みたが、より精密な研究を継続して行って見たい。原著の実戦的で、詳細な記述(特に具体的戦術に関わる部分)は、650年から2,500年前の社会的状況にあって書かれた特殊性などを考慮するに、現代社会に必ずしも適応しないことも多いので割愛した。

<理念・ビジョン>

<戦略>

<リーダーシップ>

5.おわりに

3,000年とも4,000年とも云われる囲碁の歴史は、古代中国の天才兵法家・孫氏或いは呉氏らの兵法を生み、さらに現代の企業経営戦略にまで変容・進化を遂げつつ脈々と連なって来た様は、人類の思想上の成長・進化の歴史を映しているとも云える。

その気の遠くなるような囲碁の歴史が、現代まで脈々と、それも今や大河となって流れていること。そして、世界のあらゆる国の企業・団体経営者はもとより、政治家、学者、或いは、軍事戦略家に至る多くの分野のリーダー達に絶大な影響を今も及ぼし続けていることを知り、驚きと凄さを感じずにはいられない。原理原則と云うものの重要性とその無限の可能性に、今更ながら感銘を受けた次第である。

時間に追われて、関連文献調査も表面的で徹底出来ず、次の機会にもう少し継続精査して見たいと願う意味で「研究ノート」とした。

<参考> 戦略家・徳川家康と囲碁

天正10年6月2日、本能寺の変当日の朝、家康は堺の妙国寺の和尚と対局中に織田信長討ち死にの報を聞いたとする『爛柯堂棋話』の伝承は、水口藤雄氏によれば、天正15年(1587)の当代記にあるが、裏付けの無い単なる伝説と言うことになる。しかし、筆者は、その伝承にあるように、当日茶屋四郎次郎から報告を受けた本多忠勝を通して信長の死を知った家康は、元の座に戻り囲碁を打ち続け、その日の内には堺を立ち、大和路、伊勢路を経由して居城浜松に帰り、次の情勢展開に待機したとする説に家康の人生観・哲学・戦略を思わざるを得ない。(筆者は、昨年、上述の妙国寺を訪ね、何か関連する資料が残されていないかを管理人の方に聞いたが、戦時中の焼夷弾による空襲によって当寺はほぼ全焼し、存在したであろう資料はすべて焼失したとのことであった。)

参考文献:

  1. 原著者不明(橋本宇太郎解説)『玄玄碁経』山海堂
  2. 渡辺義通『古代囲碁の世界』三一書房
  3. 中野謙二『囲碁・中国四千年の知恵』創土社
  4. 林道義『囲碁心理の謎を解く』文芸春秋
  5. 水口藤雄『囲碁の文化誌』日本棋院
  6. 平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社
  7. 大竹英雄『大竹兵法の極意』日本棋院
  8. 中谷孝雄『孫子』教育社
  9. 武岡淳彦『孫子を読む』プレジデント社
  10. 守屋洋(編著)『六韜・三略』プレジデント社
  11. 守屋淳『最強の孫子』日本実業出版社
  12. 和田博(編著)『囲碁と脳の働き』出版文化社
  13. Michael E. Porter『Competitive Strategy』 THE FREE PRESS
  14. Hugh Macmillan & Mahen Tampoe 『strategic management』 OXFORD University Press
  15. 足立敏夫『産業・社会・人間』 (p125〜133:戦略的経営) 羽衣国際大学

出典:”羽衣国際大学・産業社会学会誌(産業・社会・人間)、p85−93.”