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関連項目: 中国の格言集 - 孫子と四書五経 -

<研究ノート>
“囲碁”から兵法そして経営戦略への進化過程に関する考察(その2)
(A study on the evolutional process from “the Game of Go” to war strategies, and further to business strategies)

羽衣国際大学・産業社会学部教授 足立敏夫

目次:

  1. はじめに
  2. 囲碁に見る兵法
  3. 囲碁に見る競争戦略
  4. 囲碁理論に見る現代の経営理論
  5. おわりに

1.はじめに

古代中国で始まった囲碁の歴史を見ると、中国では、現代の囲碁の隆盛までにはかなり長い沈黙の時代を経たとされる。その間に、囲碁は日本に伝来し(そのルートに関しては諸説あるが)、数百年をかけて革命的な発展を遂げた。昭和30年代になってようやく、先輩格である中国囲碁界に対する日本の懸命な働きかけを契機に、再び繁栄の道に復帰するに至ったとされる。まさに紆余曲折の道程であったと想像できる。ただ、中国起源説に関し、正確な創生時期など、未だに確たる立証に至っていないことは残念である。

Joseph Needham(1900−1995)をはじめとする現代の中国学者たちは、“囲碁は、  中国・唐の時代の占星術師たちが夜の星座を表す格子状の盤上に白・黒の石を投げ、  予言を行っていたことに由来する“とする。また、古代中国の神話が伝えるには、紀元前2100−1100年頃、商王朝或いは夏王朝によって創始されたであろうことを暗示する新たな証拠が見つかっているとの報告もある(筆者自身はその文献を確認していないが)。しかし、一方では、囲碁に関する最も初期の文献には、紀元前750年以前に、今で言う囲碁が存在した証は見当たらず、さらに紀元前200−100年の間に囲碁が打たれた証拠は不十分とされている。その理由として、碁盤や碁石が漢の時代(紀元前205−紀元220年)の初期に見つかったものが唯一であるからとしている。

さらには、インド起源説や中近東起源説も消えた訳ではない。しかし、発祥が何処 であれ、歴史上の多くの権力者やリーダーたちの関心を引きつけてきたことは事実であり、囲碁は単なるゲームとして語るにはあまりにも奥深く、東洋はもとより、西洋社会の宗教哲学、芸術、文学などにも多大な影響を与え続けてきたことには異論はなかろう。今日においても、現代の戦争戦略はもとより、ビジネス戦略、認知心理学、数学、コンピューター、さらには、人口知能などの分野にも、脈々と直接或いは間接的に計り知れない影響を及ぼし続けている。

さて、本稿は、前号の筆者の研究ノート“その1”で概括した同テーマを補完する  目的で記した。しかしながら、囲碁の起源が、今から3〜5千年前(諸説があるので、2千年の幅を取った)と言う歴史の重みに加え、その間に純度を高めた結晶(真髄)として成った“囲碁哲学”を、孫子の兵法との絡み、さらに、現代の経営戦略の礎となるに至った経緯を、短い文章{本稿“その1”及び“その2“でおよそ2万6〜7千字程度}で伝えることは至難の業である。従って、今回は、本誌前号の“その1”の中で、筆者が特に主張したい部分、即ち、囲碁を中心に置いた“兵法”と“経営戦略”を強調して論じて見たい。(別図参照)

2.囲碁に見る兵法

最も古く、最も優れた兵書が「孫子の兵法」と言われ、孔子と同じ春秋時代に中国の斎の国(今の山東省)に生まれた天才兵法家・孫武によって成った。孫子をわが国に初めて伝えたのは、吉備真備(きびのまきび:692−775)と言われている。24歳で遣唐使の留学生として中国に渡り、18年間の滞留後帰国する折に日本にもたらしたとされる。

さて、「孫子の兵法」の英語訳は“The Art of War“が一般的である。おそらく、当時の欧米人にとって、孫子の説く内容の普遍性からして、”哲学“として受け止め、”Art”と訳したと思われる。欧米人の中には、孫子の教える教訓を伝える言葉としては、“戦略(英語ではstrategy)”の方が正確ではと主張する人もいるが、いずれにせよ、それは、戦(いくさ)或いは競争を、自軍にとって優位に進めるための基本的考え方乃至は哲学・理念を示したものであり、企業経営者にとっては、意思決定を行う上で良き案内役となっている。“戦略”と言う概念は、古代ギリシャ時代の将軍のリーダーシップのあり方として考えられたものとされる。現代のあらゆる分野のリーダー達が、色々な場面で意思決定を行う際に、ユニークで冷静な判断が出来るように導くためのあるべき“像”を示している。しかし、この概念と孫子の決定的と言っても良い違いは、古代ギリシャ時代の“戦略”が、物理的衝突を前提とした“戦”をどう優位にするかの戦略を定義しているのに対し、孫子は、“無血の戦”をどう勝つかを説いている点であろう。囲碁においても、この無血の戦い(相互の大石の取り合いのような直接衝突によってではなく、最終的に自陣の地合を一目〜半目多く獲得することを目指す戦法)によって勝つ方が、より高度な戦略と深い読みを必要とする。直接衝突の局面でも、地で勝負を図る場合でも、正確な読みは当然不可欠であるが、前者の場合、”読み“より“感情“が先行しがちであり、”腕力“に頼る傾向は否めない。その結果、大勝か大敗かの何れかになる確率が高い。孫子の哲学とは大きく異なる。モンゴルに昔から、“力では1人しか討てないが、頭では100人を討てる”と言った意味の諺があるそうだ。孫子の言う、“戦わずして勝つ“も、まさに相通ずる原思想であろう。囲碁は、棋力に加えて、心理面・精神面での強さ、そして”読みの力“を総合した能力で勝負すると言われる所以である。

武岡淳彦氏によれば、孫子が世界で高い評価を受けるのは、複雑に見える自然界から、戦争と言う事象を通して世の中の仕組みや人間の本質を抽出し、生きて行くための原理原則を教えているからと言うことになる。

孫子は、“戦略”の 真の意味を、出来る限り結晶化し、判り易い原則を示すことで、後世の人々に伝えたかったのであろうと思えば、“戦略“と訳すことも間違いではなかろう。例えば、孫子は、

孫子「十三篇」の内、筆者が独断で選んだ6篇の概説によって、囲碁哲学と兵法の主な共通点の抽出を試みたが、さらに、中国の棋士・馬暁春氏がその著書『囲碁、孫子の兵法』の中で解説する、孫子の“三十六計”に対比した囲碁戦略をも紹介する。馬氏は、囲碁実戦譜を引用しつつ分かり易く解説しており、労作である。ここでは、馬氏の解説する三十六形の内、筆者の価値観で幾つかを選び、そのエッセンスのみを紹介する:

☆ 天を欺いて海を過(わた)る
ある状況下で、普通の手段で対応していると映るよう競争相手に見せ掛け、裏では、当方の本当の狙い達成を容易にする戦法。囲碁では、狙いを持つ一手を、普通の手段に見せかけ、巧妙な作戦を秘めて、相手が気付かないように実行する。
☆ 魏を囲んで趙を救う
目的を達成するために、正面から向かわず、間接的に行動を起こす。実を避け、虚を撃つ策を以って臨む。戦国時代、魏国が趙国を攻める際、隣国の斉国は、趙を助けるために、兵力の出払っている魏を攻めた際、魏兵が慌てて自国に戻ったことで、趙国自身の危険が去ったことの教訓。囲碁では、弱い石が攻められた時、直接守らず、逆に相手の弱い石を攻撃する。これにより、自分の弱い石の危険を無理なく解消できる。
☆ 刀を借りて人を殺す
“借”とは、他者の混乱を誘ってその内部の矛盾を利用して、自分以外の力で敵を倒すこと。囲碁では、相手の作戦の矛盾を利用し、罠にはめることで利得を得ることとなる。そして、相手が自軍の石を取らざるを得ないように仕向けて、“フリカワリ(囲碁用語)”によって他の場所で大利を得る。
☆ 逸を以って労を待つ
相手を無理に攻めず、守勢に回り、相手の疲労・根負けを待って攻め入る。囲碁では、自分の石(白)を補強し、黒地の発展を牽制し、その他の黒集団の弱みをも睨みつつ攻める。
☆ 火に趁(つけこ)んで劫(おしこみ)を打(はたら)く
相手の不利な状況に付け込んで、かさにかかって攻める。囲碁では、相手の一つの大石(たいせき:多くの石の集団)が危ない時、その相手の不安を利用して間接的に利益を得ること。
☆ 東に声して西を撃つ
ある方面で陽動作戦を行い、手薄になった他方を攻めること。この作戦は、囲碁の実戦で比較的多用されている(囲碁用語で、ツケ、オシ、打ち込み)ので、相手に読まれ易いので注意を要する。
☆ 暗(ひそか)に陳倉(ちんそう)に渡る
相手が見過ごし難い問題点に注目させ、自分の問題点を見過ごさせること。囲碁では、相手にとって見逃せない突破の手段を見せて、実は別の処から行動を起こす。換言すれば、「仕掛け」の狙いを相手に明確に見せることによって困惑させ、自軍の本意から相手の注意を逸らすこと。
☆ 李(すもも)が桃に代わって僵(たお)れる
損害が避けられない場面で、局所的には犠牲を出しても、全局的な利益を優先すること。欧米のビジネス社会でも、“Never seek a short-term profit at the sacrifice of a long-term profit”などと言う。囲碁では、思い切りよく“捨石(すていし)作戦”で、全局を優勢に導くこと。
☆ 屍を借りて魂を還す
不要なものでも存在する限り活用すること。囲碁では、一度力を失った石を利用して利益を得ること(代償なしの利益追求)。
☆ 虎を調(あざむ)き山を離れさす
戦において有利な場所にいる相手を、不利な場所におびき寄せること。囲碁では、相手が厚みなどで有利な状況になっている地域で、正面から行っても得を得られない場合、相手を自分の有利な場所に導いて戦う。
☆ 碩(かわら)を抛(な)げて玉を引く
相手に隙を見せて油断させ、食い付いてくるよう仕向けること。囲碁では、仕掛けとしては普通に見える手を打ち、相手の態度を確かめてから最強の手を打つ。
☆ 釜の底から薪(たきぎ)を抽(ぬ)く
敵の補給路を断ち、相手の勢いを奪うこと。囲碁では、相手の攻撃が強い時には、正面からの抵抗は避け、相手の石を徐々に弱め、攻撃力を削ぐ。
☆ 門を閉ざして賊を捉える
弱い敵は逃げ道を閉ざし、全体を包囲して全滅させる。囲碁では、まず敵を大きく包囲し、徐々に包囲を狭めて攻める。或いは、自軍の強い地域に深く進入している敵石の逃げ道を封鎖する。
☆ 道を仮(か)りて虢(かく)を伐(う)つ
遠くの弱国を攻める時、その隣国を説得し、攻撃の口実をつくる。囲碁では、1つの戦場を安定させ(根拠をつくり)、しかる後に新たな戦場で戦いを起こせば、2ヶ所で利を得ることができる。
☆ 桑を指して槐(えんじゅ)を罵る
直接相手を批判せず、別のことを批判することで、間接的に相手を批判すること。囲碁では、相手の不安定な石を直接攻めないで、別の石を攻めることにより間接的に危機感を与える。
☆ 空城の計
城に兵隊のいない時に、意図的に兵隊のいないことをアピールすること。囲碁では、戦局の不利な場合、ポーカーフェースを装い、騙しに賭けることもある。
☆ 苦肉の計
わざと自分を痛めつけ、相手の思い込みを誘うこと。囲碁では、尋常な手段では治まらない局面では、わざと犠牲を払って(意図的に、相手に石を取らせたり、相手に地を囲わせたり)、局面の打開を図る。

ただ、現実の囲碁の世界は、上手(うわて)であっても必ずしも合理的に進行すると  は言い切れない。常識も、考え方も、棋力差からくるものは別としても、お国柄や時代背景などで大きく異なる。時に古い考え方が現代に通用したり、新しい発想であっても、淘汰されて行くように。日本で流行る考え方も、海外(アジア、西欧)で受けるとは限らない。但し、囲碁における布石で、四隅を重視し、辺を中心に打ち進めると言う基本は古今東西、いつの時代も同じのようだ。微妙な違いはあっても、“地“を囲い易く、安全を確保し、力を溜めて、次の攻勢の機を窺う。現代のプロ棋士の中には、四隅を確保した後いきなり天元(碁盤上の中心点)に打つ人もいる。四方を睨んだ崇高な一手だが、相手の意表を衝く心理作戦であろう。

注)囲碁には“段位”がある。驚いたことに、その段位免状の内容は、初段から七段までは、プロもアマも同じである。例えば、“初段”免状には、“貴殿棋道執心修行、無懈怠手段漸進依、之初段令免許畢、猶以勉励上達之心掛、可為肝要者也仍而、免状如件“{貴殿棋道に執心し、修行懈怠(けたい)無く手段漸く進む、之に依り初段を免許せしめ畢(おわ)んぬ、猶以って勉励上達の、心掛け肝要たるべき者也、仍而(よって)免状件(くだん)の如し}。因みに、“九段(プロのみに許されている)免状には、”貴殿夙(つと)に棋道の蘊奥(うんのう)を究め、手段超凡技霊妙にして、将に神域に達す、之に依り九段を、允許(いんきょ)せしめ畢(おわ)んぬ、仍而(よって)免状件(くだん)の如し“。

3. 囲碁に見る競争戦略

アメリカの経営学者・マイケル・E・ポーターによれば、企業の競争戦略を策定することの真髄は、企業とそれを取り巻く環境を如何に関係付けるかにある。ここで言う環境とは、企業が社会的・経済的圧力を受ける場であり、そして、企業間で競争を展開する場でもある。即ち、“産業“を意味する。そして、その産業内・外の状況は、企業戦略を策定したり、競争のルールを決める際に強い影響を与える。競争の熾烈さは、偶然に左右されたり、運・不運によって決まるものでは決してない。ある特定の産業における競争とは、その経済構造に根ざすものであって、競争相手の行動のみが競争を支配する力になっているのではない。即ち、企業競争は、産業内の同業者間の競争圧力に加えて、4つの外部圧力によって影響を受けながら行われる。これら4つの外部圧力とは、ポーターによれば、潜在的新規参入の圧力、代替技術・商品による圧力、原材料サプライヤーとの力関係からの圧力、さらに、バイヤーからの圧力である。

これらの圧力を、囲碁界に当てはめて見ると、まず、プロ棋士たちは、囲碁産業にあっては、“商品・サービス”であることを前提とする。産業内での同業者との競争圧力とは、プロの囲碁界における日本の2つの棋院に加え、海外棋院(中国、韓国)の間に生じる相互の圧力を指し、潜在的新規参入の圧力(脅威)とは、日本棋院、関西棋院に加えて新たに設立されるであろう棋院・団体、或いは海外からの参入プロ組織などを意味する。代替技術・商品による圧力とは、将棋、チェス、あらゆるコンピュータ・ゲームはもとより、ゲームとは全く異なる趣味など、人が熱中するもの全てとなるかも知れない。また、サプライヤーによる圧力とは、潜在的プロ棋士を育くむ大学・高校囲碁部、東京・緑星会(代表:アマチュア・トップ棋士・菊池康郎氏)に代表される私的な棋士育成団体などがそれであろう。そして、バイヤーによる圧力とは、例えば、“商品・サービス”としてのプロ棋士を囲碁指導者として迎える企業・団体、或いはプロ棋士の存在なくして企画が困難な各種囲碁関連イベント等々となる。

一方、視点を個々のプロ棋士達において考えてみると、こうした競争社会における彼らにとっての競争戦略の目標とは、上述の5つの圧力に彼らが立ち向かって、防衛可能な地位を見出すことである。これら5つの圧力は、全ての棋士に同様に試練を与える。そこで、棋士として戦いに勝つ(例えば、棋戦でタイトルを取る)ためには、戦略立案が極めて重要になる。そして、その戦略立案の鍵となるのは、棋士にとってそれらの圧力が根源的に意味するものをどこまで掘り下げ、分析する能力があるか否か、そして、より重要なことは、棋士自らの総合的棋力(発想力、独創力、判断力、読みの力、決断力、体力等々)をどこまで引き上げることが出来るかであろう。換言すれば、競争者(棋士)は、囲碁界における地位取りのために、諸々の圧力の根源的意味を理解し、総合棋力を磨き上げることによって、自らの強み・弱みを明確にし、最大の報酬が得られる“場”を知ることである。また、国内・外を問わず、囲碁界全体の動きを知り、常にその情況を把握することで、棋士自身にとって、何が“機会”となり、何が“脅威”となるのかも分かる筈である。

さらに、視点を碁盤上に向けて考えて見る。5つの力(圧力)に対応し、碁盤上において、他者より優位な戦いをするためには、次の3つの戦略的アプローチが有効である。即ち;

  1. 競争相手に比べ、如何に無駄を排除できるか
  2. 競争相手に比べ、如何に差別化できるか
  3. 盤上の何処に照準を当てるか

これらのアプローチは、現実には常に3つすべてが機能するとは限らないし、必要もないかも知れない。例えば、過去の戦績から判断して、互角の戦い相手と打つ場合には、3つのアプローチすべてを同時に熟慮・実行して行かなければ、勝つ確立は低くなる。

アマチュア戦の場合には、棋力の差を最初から認め合って打つ。即ち、その差を埋めるべく、ハンディ・キャップ(黒番が、幾つかの石を先に置くこと;例えば、5つの石を置く場合、“5子局”と言う)を与えて戦うので、それを乗り越えて戦うためには、白石を持った方{上手(うわて)}が3つのアプローチを駆使する必要がある。一般のアマチュア棋士たちのゲームでは日常茶飯事であるが、先の理論とは無縁の戦をしているのが現実である。例えば、初心者乃至は棋力が発展途上にあるグループが陥り易い罠に完全にはまっていても気付かず、ゲームに勝つことよりも、相手を殲滅さることに喜びを感じたり、石を取ることに興奮したり、或いは、勝っているのに、一目しか勝てなかったと悔やんだりする。企業競争の世界でも、似たような現実があると思う。世界のExcellent Companiesは、プロ棋士九段(“技霊将に神域に達した人達”)の中でもさらに、タイトルを獲得した棋士達の類に入るのであろう。

囲碁界に、経済で言う“完全競争の条件(但し、フォン・ノイマンの言う完全競争は望むべくもないが)”を持ち込めないだろうか。即ち、次の4つの条件を限りなく満たすべく挑戦することができれば、囲碁界の中興は保証される。例えば、イ)市場で取引する売り手(日本棋院・関西棋院+潜在的参入者)と買い手(世界の囲碁ファン)がともに多数いて、単独では市場価格(プロ棋士による指導料、段級位取得料金などなど)を動かせない競争状況をつくり、ロ)どんな個人や企業でも、第3、第4の棋院設立のために必要な資本をいつでも容易に調達でき、ハ)囲碁界の中へ新しい事業家が自由に参入でき、ニ)既存棋院や潜在的参入者と世界の囲碁ファンが最大の経済的成果を上げようとする行動を妨げるような人為的・制度的・技術的制限がなく、それら利害関係者がその市場について完全な知識を持っており、そして、世界の囲碁ファンが市場で供給される商品(囲碁のプロによる対面指導・ネット上の指導・関連イベント等々)について、偏向的な好みを全く持っていないこと、などである。このような、完全競争環境(或いは、それに近い状況)が整い、21世紀型の囲碁界(個々のプレイヤーに関しても、プロ・アマを問わず、全てのプレイヤーが今より格段のレベルアップに繋がる世界)が誕生することを夢見る筆者である(但し、当然の帰結として、現・プロ制度は全く意味を成さなくなるので、プロ棋士からのご批判は甘んじて受けたい)。

注)日本には、プロ棋士を擁する団体が2つある。日本棋院と関西棋院で、これら2団体に所属する現役棋士の初段から9段までの総数は425名(内、日本棋院332、関西棋院93)である。

4. 囲碁理論に見る現代の経営理論

経営(競争)理論をゲーム理論と言う視点で考えて見ると、ゲーム理論が、“利害を異にする複数の意思決定主体が、合理的と考える基準に従って行動したとき、如何な  る結果が導かれるかを明らかにする方法を提供するもの”とするならば、囲碁では、2  人のプレーヤーが、ルール・定石・経験則・碁盤上の状況に従いつつも、自由にそして自主的に行動(着手)することである。また、囲碁ゲームを構成する要素は、対局者、囲碁に関わる諸々の情報の仕組み(最近では、インターネット上の情報がかなり普及している)、戦略(ゲーム構想・計画)、対局結果、そして、その結果に対する評価などとなる。ゲームとしての囲碁にとって最も本質的なことは、対局者の受け取る利得(“碁盤上の地合”或いは“ゲーム上の勝ち“)は、自分のとる戦略のみならず、対局相手のとる戦略にも依存することである。

経営理論においては、企業競争の場における環境変化、即ち、外的には、@)企業を取り巻くビジネス環境全般の大きな変化(政治的、経済的、社会的、技術的)、A)自企業が属する産業内での変化、B)自社と直接競合する企業の活動、そして、C)その他の特別な状況変化、また、内的には、先の外的環境変化に対応するための、@)自社の経営資源(ヒト・モノ・カネ・情報)、A)自社のコンピテンス(競争能力)、などを、適確に分析・評価・検証(自社の属する業界内のベストと比較)し、自社の目指すビジョンに向かって競争を展開することである。但し、ここには、大前提があることを忘れてはならない。市場における地位、利潤、株価の増大など企業として経済的責任を果たすのは当然であるが、健全で、社会的に意義のある生き残りのためには、公正・自由・成熟した心と精神を以って経営に携わることが何より大切なことではなかろうか。囲碁に始まり孫子に至り、さらに今日までのこれらの相互影響の教える本質とは、“戦争”は人の業(ごう)であり、仮に避け得べからざることにせよ、人の集まりである社会の真の価値(心の豊かさ)を求めることである。残念ながら、戦うことそのことのみに意義を感じているリーダーの多いことを嘆くものである(但し、筆者は単に平和主義を過剰に唱える者ではない)。

企業間競争のプレイヤーは、いずれもその産業におけるリーダーを目指すのは当然であり悪ではないが、共存共栄を優先しつつもフェアプレイによって、囲碁で言う“半目勝負”での勝ちを狙うのが経営の真髄かも知れない。

5. おわりに

囲碁・兵法・経営戦略の進化と相互依存に関する考察と言う、難しい命題にチャレンジしては見たものの、まだまだ研究不足で、言葉足らずや誤解・偏見・錯覚が散見されるが、ご容赦願いたい。

ところで、囲碁のルールに“劫(こう)”と言うのがある。面倒くさいことを「億劫(おっくう)」と使ったり、「未来永劫(みらいえいごう)」と使ったりする。仏教では、最も短い時間(とき)の単位を「刹那(せつな)」と言い、「一刹那」は75分(ぶん)の1秒と定めているそうだ。逆に最も長い時間(とき)の単位を「劫(ごう)」と言い、宇宙が生まれてから消滅するまでの時間を「一劫(ごう)」と言う。

「日本国語大辞典(小学館)」によれば、天人が40里四方の大石を薄衣で百年に一度払い、石が消滅しても終らないほど長い時間と言い、或いは、40里四方の城にケシの実を満たして、100年に一度、それを一粒ずつ取り去り、ケシが無くなっても終らない時間のことを意味するらしい。

囲碁で言う“劫“とは、一目(いちもく)を双方で交互に取りうる形のとき、先方に取られた後、すぐに取り返せない約束のため、他の急所に打って、相手がそれに応じた隙に、一目を取り返すかたちで一目を争うことである。これを”劫争い“と言う。但し、囲碁で言う”劫“は、所謂”劫材(上述の他の急所)”が尽きた時に終るので、仏教で言う意味とは異なり、比喩的に使われているに過ぎないが、面白いルールであり、命名も洒落ている。

また、日本の“能”の世界では、囲碁は、芸術の1つの形であり、沈思黙考の形でもあると言う。囲碁に熱中していると、碁仇に対する敵意とか恨みの観念は消え失せ、夜に月の昇る様を見て思索に耽る、心穏やかな心境になる。また、碁盤上の白・黒の石は、昼と夜の明暗を暗示し、盤上の9つの星{碁盤上の4隅・4辺の第4線上と盤中央(天元と言う)の交点に9つの黒い点を配しているが、それを星と言う}は天国の明かりを表すとされる。

このように、“時間の概念”と“人の心理”を考えることは、企業経営者にとって、とても大切な側面である。経営者の資質を問う側面でもある。アメリカに始まった“合理的経営”、即ち、株主価値を最大化することが経営者に課せられた最重要課題とする考え方は、今や世界の経営者の常識となっている。その株主価値が毎年四半期ごとにチェックされ、その度に一喜一憂する経営者は多い。一方、経営者一人一人に聞いてみると、必ずしも納得していないのではなかろうか。仏教で言う時間単位で測ってみると、一四半期は、僅か“60万刹那”である。“一劫”から見れば、ほんの一瞬に過ぎない。この刹那の時の中で、経営者の本音は、株主価値の増大のために翻弄され、限られた人生(刹那のレベルでは、一瞬)の虚しさを悔いているに違いない。さらには、その間に、リストラの名の下に数多の社員の人生をも変えていることへの罪悪感さえ持っているに違いない。そうした経営者の心理状態が想像できる。今や、世の経営者は、企業の構成員である“人”の尊厳を真剣に思うときではなかろうか。何のための経営か、何のための企業かを、孫子の説く本質に立ち返るときではなかろうか。終身雇用が否定され、年功序列が否定され、企業統治が蔑(ないがし)ろにされ、社会に対する責任や環境に対する責任を疎(おろそ)かにする世に真の幸せはあるだろうか。経営者に限らず、世のあらゆる分野のリーダー達は、囲碁や孫子の真髄を学び、沈思し、物事の本質を捉えて、平和で豊かな世界を作り上げて欲しいと願って止まない。


<参考文献・資料>

  1. Michael E. Porter『Competitive Strategy』THE FREE PRESS(1998年)
  2. Peter Shotwell『Go! More Than a Game』Tuttle Publishing(2003年)
  3. 馬暁春『囲碁・孫子の兵法』誠文堂新光社(2003年)
  4. 武岡淳彦『孫子を読む』プレジデント社(1998年)
  5. 守屋淳『最強の孫子』日本実業出版社(2003年)
  6. Gary Gagliardi『Sun Tzu’s The Art of War plus The Art of Management』Clearbridge Publishing(2003年)
  7. Peter Koestenbaum『Leadership』Jossey-Bass Publishers(1991年)

<出典:羽衣国際大学 産業社会学会誌(産業・社会・人間)、No.4>