私達の教育改革通信 第147号

2010/11

教育通信ホームページ
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先事館制作室:
進士多佳子〒106−0032港区六本木7-3-8ヒルプラザ910
発行人:
西村秀美,先事館箕面 〒562-0023箕面市粟生間谷西3-15-12
お願い:
教育通信はオープンメデイアに移行しつつあります。A(購読)会員、運営に参画されるB(協力)会員及びC(編集)会員になって下さる方を歓迎します。B会員には自己負担でコピーと友人への配布、C会員にはそれに加えて編集を輪番でお願いします。私達の教育通信が今後どう発展するか、この皆で育てる新方式がよい日本文化に成長することが望まれます。
編集:
先事館吉祥寺 海野和三郎180-0003武蔵野吉祥寺南4-15-12;
先事館狭山、菅野礼司 〒589-0022 大阪狭山市西山台1−24−5;
先事館近大理工総研 湯浅学・川東龍夫〒577-8502東大阪市小若江
先事館京都教育大 岡本正志〒612-8582京都市伏見区深草藤森町1
先事館聖徳大学 茂木和行 165-0035 中野区白鷺2-13-3

みずきすずこの花と話す詩:

はな「桃」

水木鈴子

今日、噂の気難しいひとに出会いました。
あなたの美しさの前では、思わず知らず
やわらかな笑顔がひろがりました。
「桃の花が好き!」
たったひとつの共通点から
おしゃべりの輪もひろがりましたよ。
人に好かれる人って、
人を好きな人って……ことなんですね。
嬉しい発見です。

「なのはな」

水木鈴子

いつになくいい風が流れてきたから、
春を探しに出かけました。
風はふくらみ、
ゆかしさのあるあなたの香りを運んでくれます。
すうっと胸にとび込んできたやさしさで、
心はくつろげましたよ。
父さん、母さんに話さなかったけれども、
本当はね…落ち込んでいたのです。
でもまた、やる気が咲きました。
おかげさまで!

「すみれ」

水木鈴子

寒さに負けず冬を越し、
大地に根を張ったあなたの一途さよ。
手に取ってみたい愛しさ、
ただそれだけで、心にふっくらと膨らんできます。
むやみに言葉を浪費しない。あなたの無言の多弁さよ、美しい国の花がすきです。

<リレー随筆・ヒマラヤ、ネパール> 
ネパールに見た「日本から世界へ」の解

松波勝弘

ぼくがエアロビクスを始めたのは50才。今年で18年目。一時ヒップホップまで進んだ。今は歳に敬意を表し、ハイインパクトで我慢だ。華やかな女性たちに囲まれ、大いに愉快であるが、それが目的ではない。身体を鍛え、いつの日か富士山頂に立ち、北アルプス・穂高連峰を踏破し、ヒマラヤ・ トレッキングをしてみたいと思ったからだ。10年後、富士登山と北ア・穂高連峰踏破を達成!そして、  昨夏、ヒマラヤ・トレッキングに挑んだ!世界の屋根!紺碧の空、白一色の雄大なヒマラヤ山塊。 現地に踏み込み、古今幾多の日本人の活躍を知ることに・・・

▼ 禅僧、河口慧海(ェヵィ)。
サンスクリット(梵語)仏典を求め、鎖国中のチベットへ侵入しようと、カルカッタからネパールに足を踏み入れ、殺される危険があるチベット入国の意図を見破られないよう、わざとカトマンズ、ポカラを経由し、大ヒマラヤ山系の道なき道を類稀な性格と命がけの行脚は同僧著「チベット旅行記」(白水社)に詳しい。 彼は英語版(題名「Three Years in Tibet」を遺したため、「世界的チベット探検家」として日本より西洋諸国で有名だ。道中、布施を恵まれ愉快だった時、 雪野原に行き倒れ多時、強盗や殺人も厭わぬ巡礼団と一緒になり、死ぬ思いだった時でさえ、感嘆し仰ぎ見た峻険なヒマラヤの山々は、今もそのままだ。

▼山下泰子さん。男女共同参画運動で活躍中のジェンダー法学界(理事長)、法学博士、文京女子大名誉教授。
“安保反対!”に明け暮れた大学生時代、よく南アに単独登攀したほどの山好き。やがて「ヒマラヤへ足を伸ばす」ようになった。そこは今も男尊女卑の国。女性は牛馬同然、労働供給源としか看なされず、初等教育すら不要だと、
15、6歳で嫁に出され、嫁ぎ先で家事や重労働に一生を費やす。平均寿命は男より短いくらいだ。「(こんな運命を背負った)少女たちに、山地で  行き交い、親しくなるにつれ、初等教育の必要性に心が傾いていった」、と言う。
*義務教育制度がない最貧国の一つ、大都会と云われるポカラでさえ、街角に植樹栽培された菩提樹の下で老人達がひねもす居眠り。放れ牛や水牛が、道行くクルマを止める。日陰で所在無く佇む若者たち。目に見えないカースト制度が労働市場の流動化を妨げている。隣国インドの 影響大だ。一人当り国民所得は、日本の実に100分の1にも及ばない!
*着想から20年余りの2004年。当時大学院教授の夫、山下威士さんや支援者たちと「日本ネパール女性教育教会」を設立。念願の「おなご先生」養成プロジェクトの第一歩をポカラで踏み出した。“構想”を実現してしまったのだからすごい!その訳を聞いたら、「深みに嵌っただけよ」 と言って笑った。

※ 遠隔地の山村から優秀な少女たちを行政機関を通じて公募。ポカラに呼び寄せ、「さくら寮」に寄宿し、2年間カニヤキャンパス(女子大)で学び、郷里に戻り、次代を担う貧しい少女たちに初等教育を施す。無償の自立循環型プロジェクトだ。評判は頗るよい。目標は、壷井榮著「二十四の瞳」の大石先生のような「おなご先生」を10年で100人養成すること。夢は大きい。

▼学校建設に奉仕を続ける竹中工務店の設計部有志たちハード面で手を貸し、少女たちの寄宿舎「さくら寮」を建てた。現地の資材や工法をできるだけ活用し、現地の人たちの手で補修や維持管理ができるようにした。単なる造り放しのハコモノ援助ではない。政府・自衛隊が、莫大な血税を投じ、サマワ市民に残した浄水装置の能力が、早40% 弱に低下したのとはワケが違う。

▼ 両国教育界や指導層が、山下さんの熱意に動かされた。在ネパール日本大使館はODA  「草の根無償資金」を提供した。正に快挙だ。既に半生をネパールの障害児教育に捧げ、今なお、ポカラで活躍を続続けるイエズス会の大木神父。山下さんを支える一人だ。教会で参観者の一人が神父に、「自己犠牲(!)が永続きする秘訣は」と、遠慮なく質問した。「身の丈の範囲で頑張れば、なにごとも楽しく、自然と永続きしますよ」と、穏やかな含蓄ある言葉が返ってきた。  
*野口健さんをご記憶であろうか。1998年、25歳で七大陸最高峰の世界最年少登頂記録を樹立、その後、エヴェレスト清掃登山で一躍世界の注目を浴びた青年だ。
富士山から日本を変える運動、そして地球環境保全活動に今も静かな情熱を燃やす・・・等々の諸兄姉。
*堺屋太一の造語「団塊の世代」(戦後ベビーブーマ800万人)が、2007年から陸続と年金生活に入る。彼らの経済力や生き方に注目が集まる。
堺屋は言う、「(定年後も)仕事に就くのは大事だが、“有利”より“好き”を選べ」と。オランダのように同一労働・同一賃金ではない。再び働こうにも、時給千円に満たない日本。既に労働者の1/3が非正規就労といわれる雇用格差問題。壮・若年層には深刻だ。彼らは団塊世代の年金支給を担いつつ「ワーキングプアー」というアリ地獄に陥らんとしているのだ。「政府の怠慢」や「政治が悪い」のかも知れないが、それで済む筈があるまい。団塊の  諸君が若し“好き”を選べばこの「07年問題」、風向きは変わろう!(職縁偏重の)社会も変わろう。
先達の慧海、ネパール移住も視野に入れる山下夫妻、ポカラに留まるイエズス会の大木神父、 学校建設を無償で続ける竹中工務店設計部の有志たち、 地道に地球環境改善に取り組む野口青年・・・・・       それぞれがネパールが(ヒマラヤ)に見つけた“好き”な生き方に糸口が見出せると思うがどうか。
終りに、禅僧、河口慧海の心根を表す一首を掲げる:
空の屋根、土をしとねの草枕、雲と水との旅をするなり (同著「チベット旅行記」より)

「段々畑のぶどうと二人」

朝倉 勇

切り立つ断崖の段々畑
千年かけて二本の手が石垣を積み
さらに積み
さらに積み上げて作った細い段々畑
その石垣に
一見 頼りなげな
細いぶどうの木が連なって
若い緑の葉を五月の風にゆらし
等高線を描く段々畑の上から
地中海を眺めている

千年とは どういう時間であったのか
機械文明は役に立たず
手でつかみ 手で動かすわずかな道具だけで
石を積み 土を運び入れ 細い畑を開き
柵を巡らせ ぶどうを這わせ 
ワインを作ってきた
その 日々の繰り返しの千年
希少なワイン「ヴィノ チンクェテッレ」は
古文書にも記載されている
領主 王侯 そして
東方や世界の珍客に供されたという

ああ 手の仕事 手と自然の仕事 手と手と手と
天と地の恵みの仕事
夫婦の 村人たちの 支え合いの
陽光にきらめく金色のワインに
その労働の日々の成果が溶けている

リーゼ 
と妻の名を呼ぶ太い声がする
リーゼがふり向くとバルトロメオは招く
ごらん あの時植えた苗に初めて花がついたよ
まあ 歩きはじめた子どもみたいね
そうだ 厳しく育てるぞ
いいか 急ぐんじゃないぞ
太陽に聞き 土に学び
雨や海の風に鍛えられて
ゆっくり 一人前になるんだ
おまえは
現代のヴィノ チンエテッレになるんだからな

バルトロメオは
初めて花を付けた細い蔓を持ち上げながら
ぶどうの苗木に語りかける
夫婦の肌は地中海の光と風に彩られ
輝くようなブロンズだ
石垣を積んできた二人の手がすべてを知っている
その手に
チンクェテッレ千年がしみ込んでいるのだ
ジェノヴァ公国の歴史が刻み込まれているのだ

作者註:数年前NHKテレビでこの小村の日々を報じる番組を見ました。この詩はそのときの感想です。本当に良い物は、自然と語り合ってつくる仕事から生まれる、そして、その知恵の継承が貴重なのだと感じたのでした。

「流れを変えられない日本(曾野綾子)」考

(産経10/29小さな親切大きなお世話):  海野和三郎

“戦後の日本人をダメにしたのは日教組と、それに抵抗しなかった親たちである。「人間の権利とは要求することだ」と教え、「他人のために働くことは資本主義に奉仕することだ」と言った教員たちが日本を崩壊させた。他者のために働けるのは、動物とは違う人間の魂の偉大さを示す一つの指標だが、そんなことは全く教えなかったのだろう。”全く同感であるが、流れを変えるには、高次元の広い認識と未来志向の実行案と閉塞感を打破する政治的決断力の三者を必要とする。

昨今の新聞に「仕分け」の記事が出ていた。経済は複雑系であるから、政治家の意見は必要であるが、政治家が一方的に「仕分け」する制度は危なくて見ていられない。家庭向け太陽光活用設備への補助金が、環境省の太陽熱温水設備への補助と経済産業省の太陽光発電への補助とで重複しているとの指摘で、環境省案は見送り、経産省案は20%削減となったとある。あと10年か20年ほどで、石油ピークが来て、70億を超す人類生存のエネルギーの主力は太陽エネルギーである事を考えると、太陽エネルギー研究への投資は、例え現在はそれが幼稚な状態であっても、軍備以上に重要なことであるから、予算を減らす必要はない。もっと将来を見た研究の奨励をするのが政治の役目であろう。

“400年かからないと全部完成しない。今から12兆円かかる。現実的な話とお考えか?” 利根川、荒川、江戸川、多摩川、淀川、大和川へ造る「スーパー堤防」の話である。私見では、日本の土建業は良かれ悪しかれ外国にも通用する軍備の一部をなしている。それに、「スーパー堤防」が無駄かどうか、あと何10年かして地球環境変動が顕になり、豪雨や水害、逆に渇水、といった変動が日常化する可能性があるが、そうなってからでは手遅れになる。つまり、今の無駄は、保険の意味もある。

それにしても、もっと経済予測を量的に判断する政府機構を、経済学者、複雑系数理科学者・技術者、政治家、通産省官僚などを集めて構成する必要がある。今の経済学の主流は、主に金融経済・市場経済の二本立てで、あとは経験と勘で経済予測をしているように見える。然し、現実の経済は複雑系であり、超多次元のカオス系である。だから、いくら大型コンピューターでも“長期”の予報は原理的に不可能であるが、短期の予報であれば、毎日の経済データを基にして主成分解析により、経済予測とその誤差評価をすることは可能である。その解析の基データに何を選ぶか、知りたい量は何かなどの決定には、経済学者や政治家の知恵が必要である。経済予測システムは入力データとも始終改善する必要がある。“株式必勝法”なる文章を書いたこともある。経済必勝法を造る必要がある。開放系は内部状態と外部環境との相互作用(物質、エネルギー、エントロピーの出入)が絶えずあるので、系の発展方向は内部状態のみでは決まらない(146号、菅野)が、短期の予報であれば、2元論ではダメで、3元論なら誤差を超えた予報が可能である。

閉塞感が世界を覆い、日本経済も例外ではない。その原因は何処にあるか。色即是空と般若心経にあるように、宇宙森羅万象の物理と精神世界は表裏一体をなしている。化石燃料が窮乏に向かうエネルギーの先行き不安が景気や雇用の不況を呼び、それが精神世界の閉塞感につながり、自殺や意味のない他殺が増えたりする。

その裏には、エネルギー保存の物理法則がある。これを無視することは許されない。人類文明へのエネルギーの取り込みが、化石燃料方式では限界に来ている。化石燃料は千年万年先の子孫に残し、水が水である奇跡の地球環境で海と森が恵まれた太陽エネルギーを用いて「いのち」の地球を守っている知恵に学び、安価な非結像集光の人知を加えれば、10万年、100万年の地球生命を存続させることが出来る。21世紀後半のエネルギー大国は太陽エネルギーに恵まれたアフリカ諸国であり、日本では太陽と海と人の和に恵まれた沖縄諸島である。

昨今(11/10)の新聞に、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)の話が出ている。輸出入の関税を撤廃して貿易を自由化しようという協定らしいが、環太平洋の協定とすると他の二国間協定などとの不平等とか色々の問題があるらしい。日本の場合、特に問題になることの一つに、外国からの安い食料輸入のため、食料自給率が著しく低下する懸念があり、農業団体の強い反対があるとのことである。消費者の利益か食料自給率を維持するかの二律背反の問題ではない。経済という複雑系では、関係する別の問題も含めて両方を同時に解決する知恵が必要である。前にも書いたことがあるが、水稲、竹、大麻などは、そよ風でも葉がゆらいで自ら(矢吹効果で)CO2を供給して光合成を促進し、連作が効き成長が他の植物より10倍速い地球温暖化防止のチャンピョン植物であるという。CO225%削減は、日本の公約でもあるし、21世紀人類生存の危機に関係することなので、少し早めに対処すべき事です。従って、日本の稲作農業は国が補助金を出して奨励すれば、お米自体は安くなっても農業は成り立つし、TPPとやらにも抵触せず、外国から文句言われることもないでしょう。竹については、竹炭による土壌改良もあり、大麻についてはマリファナのことがあるが、食料・繊維・プラスチックなど石油製品の代替が可能であるという。恐らく、他にも地球環境に優しい農作物がいろいろあろうが、先ずは水稲栽培がその代表であろう。

跳躍する「色即是空」的日本文明の創造力

鎌田東二

「収奪」から「還流」へ、生態智の再活用が未来を開く(抜粋)

百年前の1010年5月19日、ハレー彗星が再接近した。水素大爆発とか有毒ガスとか流説で、パニックが起こった。一週間後5月25日、幸徳秋水の大逆事件。8月下旬、石川啄木「時代閉塞の現状」執筆。8月21日、神社合祀反対運動南方熊楠逮捕、その翌日韓国併合条約調印。今から丁度100年前の日本は、ハレー彗星や政治的事件の「ガス」に包まれて「閉塞」状態にあった。石川啄木はこのとき、“「明日の考察!」これ実に我々が今日に於いてなすべき唯一である、そうして全てである。一切の空想を峻拒して、そこに残る一つの真実:必要!これじつに我々が未来に向かって求むべき一切である。「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である”と書き付け、「明日の考察」と「明日の必要の発見」を通して「時代閉塞」を突破しようともくろんだ。

この1910年(明治43年)、「白樺」派の旗揚げ、柳田国男『遠野物語』出版、鈴木大拙訳スエーデンスエーデンボルグ『天国と地獄』翻訳、東京帝大心理学助教授福来友吉の透視・念力の超能力実験など、「閉塞」情況の内面突破とでも言うべき動きが起こっていた。百年前の“スピリチュアル・ブーム”であった。同年8月31日学習院教授から京大助教授に転任した西田幾多郎は、翌年1月31日、我が国最初の独創的哲学書と評価された『善の研究』を出版した。それは「純粋意識」の考察を通して「時代閉塞」の内面突破を図った試みであったと言える。地球史的危機感が世界全体に広がったこの1910年の世界史的変化の総体を、わたしは「ハレー彗星インパクト」と呼んでいる。地球も生物も人間の心も「閉塞」していると感じていた人々が、そこからの突破口を切り拓こうと悪戦苦闘していた時代。その時代が百年後のいまと重なり合う。

2009年11月、立教大で比較文明学会があり、テーマとして、「収奪文明から還流文明」が掲げられた。地球環境と資源を食い尽くす「収奪文明」から、互恵性と平等性に基づく循環型の「還流文明」へとパラダイムシフトすることを希求する、「明日の考察」と「明日の必要の発見」の試みであった。その学会の一つのパネルとして、わたしはドキュメンタリー映画『久高オデッセイ』(大重潤一郎監督作品)のパネルデイスカッション「収奪文明から還流文明へ―久高島から世界を見る」を企画し、パネリストとして、島薗進、鶴岡真弓、佐藤壮広の三氏の参加を得、「還流文明」のモデルを沖縄の久高島に採った。

21世紀の最大の問題は地球環境問題である。政治も経済も文化もすべてこの「地球環境」という基盤の上に立脚しているからだ。その土台の上にどの様な持続可能な文明を築くことが出来るかが問われている。

比較文明学会の元会長の伊東俊太郎氏は、『文明の誕生』(講談社)の中で、人類史の展開を人間革命、農業革命、都市革命、精神革命、科学革命の5段階とし、現代はその科学革命のあとの転換期であると位置づけた。その科学革命の文明の「明日の必要」とは何か。冒頭で、百年前の「ハレー彗星インパクト」を取り上げたのは、「地球環境問題」と、1998年以来、年間自殺者が3万人を超え続けている「精神環境問題」がこの百年の間に、いわば非常事態宣言を発するまでに深刻化している現状を確認するためでもあった。環境、資源、エネルギー、人口、食料、それらは現代の産業や消費生活の形態と密接に関係しつつ、21世紀の「時代閉塞の現状」を生み出している。その閉塞からの脱却は「収奪文明」から「還流文明」への転換である。

その「還流文明」はどのように構築できるか、具体的実践を久高島に見ることにしよう。

“久高島は一周遅れのトップランナーである”

これは、『久高オデッセイ』の監督大重潤一郎の口癖である。人口二百人ほどの極小の島が現代の「地球環境問題」や「精神環境問題の時代の中で、最も集約的に時代の課題を先行感受してきているという大重の視座がある。

グローバリズムに代表される資源収奪・人為的な社会主義共産主義の行き着くところは、競争の果ての混乱と戦乱でしかない。そのような時代の渦中にあって、「神の島」と呼ばれる沖縄本島東南の小さな離れ島が、今地球が直面している問題群の縮図をすり抜けて生きてきた。(中略)この島の東海岸の伊敷浜に五穀の入った壺が流れ着いたという伝承があり、五穀発祥の地とされる。島ではいまも琉球王朝時代の地割制度が残り、村有地などを除いてすべて土地は共有地とされ、現在は「久高島土地憲章」に基づいて分配管理されている。男たちは海人(うみんちゅ)として外洋に出、女たちは神女(かみんちゅ)として祭祀を行い、男たちを護った。この島には法者(はつしゃ)と呼ばれる男たちが有毒の海蛇イラブーを捕獲、薫製にする独自の技術が伝わっている。

「還流文明」という「明日の必要」から問われるのは、地球史的に見た地域の力とワザの再発見と再編成であろう。久高島ではいま島の振興と生き残りを懸けて、地域特性の再編と再布置化のただなかにある。

「祭りのある村には未来がある」というが、それは祭りが生態学的循環の結節点として伝承されてきたことによる。久高島は、沖縄の島立で神話をもつ島である始祖神である「あまみきよ(女神)」「しねりきよ(男神)」が天から降りてきて木や草を植え、島づくり・国づくりを始めたと伝えられる。沖縄では、天と海とは一体である。とかく、攻撃性と人間中心主義に陥りがちな陸上文明に対して、いつも海の波の状態を見つめ、それに即応しながら生きる、深い受動性を内に秘める海上文明の知恵と力であった。日本語の「モノ」には、1.物質的次元、2.人間的次元、3.霊的次元の3層が含意されている。その全体的で三層一体的な非二元論的思考と、感性が持つ創造力と想像力が、21世紀の今日に必要とされる。久高島には、それに加えて、豊かな太陽光と海と祭りがある。その還流文明の未来を象徴するように、大重監督は、『久高オデッセイ』で、巨大な海亀が産卵を終えて、大海原へ回帰する姿を見守っている。

『儒教の教えと企業経営』

蔡明哲

一、はじめに

二十一世紀の多文化共生社会において、儒教文化は、東洋思想・文化遺産の一端として、その現代的価値はわれわれに有益な啓発と示唆を与えている。戦後世界経済のなかで、なぜ東アジアの日本とNIEs(新興工業国・地域)、そしてアセアン、中国などの国と地域だけが高い経済的パフォーマンスを見せてきたのか。これについて、かつて多くの研究が行われていたが、その要因を儒教文化の影響に求めてきた説が説得力に富んでいるといえる。

中国と日本はいずれも儒教文化圏の国で、中国においては「儒教は中国史のすべてに関わっている。日本においても、すくなくとも〈国としての政体〉が形づくられていた時代から今日に至るまで、儒教がずっと関わっている」。儒教文化には自然観、人生観、価値観、社会規範、倫理道徳、処世哲学など現代社会と企業経営に参考すべきものが少なくない。そのわけか、現在中国では企業経営の理念を「儒教文化」に求め、儒教を経営方針の柱にすえ、その価値や意義を再評価、再認識し、独自の企業文化を育もうとする気運が注目を浴びている。現在盛んに論じられている「人本管理(仁愛)」、「徳を重視する人材観」、「義利合一」、「和為貴」(和を大事にする)、「和気生財」(和が財を生む)、「誠実信用」など、いわゆる儒教の倫理道徳を企業の理念とする「儒商」の存在が大きくクローズアップされている。

二 儒教の教え

儒教とは、紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上に渡って強い影響力を持つ思考・信仰の体系である。孔子を祖とする儒教は、「四書・五経」(「論語」「大学」「中庸」「孟子」と「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」)を経典とし、諸子百家に属した学問という側面から、中国では儒家、儒学といわれている。儒教はその内容が広く、深く、豊富で、国家、社会、企業、家庭、自然および人間に対する基本的な見方や要求をカバーしているが、ここではあえて「徳治主義」、「治国原理」、「家族主義」という三点に絞って要約する。

  1. 儒教の徳治主義―「仁、義、礼、智、信」(省略)
  2. 儒教の治国原理―修身・斉家・治国・平天下 (省略)
  3. 儒教の家族主義―「集団的社会秩序」(省略)

三 企業経営に生きている儒家文化

1、『論語』と日本の企業家

周知のように、日本では儒教の影響力が企業家に深い。少なくない企業家の愛読書は『論語』や『孫子の兵法』である。一生涯五百社以上の企業を立ち上げ、“日本工業の父”とも呼ばれる渋沢栄一は『論語』を企業管理に取入れ、「私の経営には苦労と苦心が満ち溢れているが、常に孔子の教え『論語』の旨に従い、成功を収めた」と語っている(『光明日報』、2004.11.10)。彼は「論語講習所」を設置し、「論語主義」、「道徳経済合一説」、「義利両全説」、「論語と算盤説」を提唱した。渋沢栄一は幼い頃に親しんだ『論語』を拠り所に、道徳と経済の一致をいつも心がけていた。彼は「仁義道徳と生産殖利とは、元来ともに進むべきものである・・・」ということで、企業を発展させ、国全体を豊かにするために、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説き、『道徳経済合一説』の理念を打ち出した。彼は『論語と算盤』のなかで、自分の経営成功の道を一つ手では算盤をはじき、もう一つの手では『論語』を捧げたものであると語った。渋沢栄一は『論語』を通じて日本人のかつての「耻言富貴」の伝統観念を打ち破り、人々が豊かになり、国が豊かになろうとすれば「工商興国」の道を歩かなければならないことを指摘した。彼は『論語と算盤』の中で「士魂商才」、「義利合一」の経営理念を語ったが、これは、渋沢栄一から綿々と続く日本の起業精神である。彼の著書と成功の経験は日本近代工商業者の広範な支持を集め、現在でも相変わらず日本企業界に大きな影響を及んでいる。トヨタの創始者である豊田佐吉と豊田喜一郎は『論語』を愛読し、豊田佐吉は『孟子』の「天時不如地利,地利不如人和」(天の時は地の利に及ばず、地の利は人の和に及ばない)から啓発を受けて「天、地、人」を自分の座右銘としていた。第二代の創始者豊田喜一郎は「天、地、人」に「智、仁」を加えて、それを座右銘とし、トヨタ自動車名誉会長豊田章一郎は「天、地、人、智、仁」に、さらに「勇」を加えて、これを自分の座右銘としていた。

実際「智、仁、勇」は孔子の名句「好学近乎智,力行近乎仁,知耻近乎勇」(『礼記・中庸』)に本源する言葉であるが、その意味はよく勉強すると智(善良)に近づき、それを努力して行動に移すと仁愛(慈しみ)に近づき、廉恥を分かると勇(道徳)に近づく。この三つを分れば、修身の方法を知ることとなり;修身方法を知ることは、人を管理する方法を知ることとなり、人を管理する方法を知ることは、天下国家を治める方法を知ることになる。トヨタの創始者と後継者達はまさに儒教の人生智慧を経営の魂として生かし、大切な伝統文化の精神財富を巨大な物的財富に変えたと言っても過言ではない。他にも、日立製作所の創業者である小平浪平は儒教の「和」と「誠」を会社の教え諭しとして上げており、元日立化成工業株式会社社長の横山亮次は「日本人の終身雇用制と年功序列制は「礼」の思想の体現であり、企業内労働組合は「和為貴」(和を以って貴しとなす)思想の体現である」と言っている。

更に、三菱総合研究所社長の中島正樹は「中庸之道」を道徳基準としてみている。日本の企業界には少なからずの企業経営者が儒教思想、例えば「集団主義」、「秩序原理」、「忠孝意識」、「人本位主義」、「貴在人和」(和を大事にする)、「敬天愛人」(天をうやまい、人を愛する)などを企業経営の信条としている。

2、「忠、誠」と「孝、仁愛」に基づく“情感”的管理

企業経営において、西洋では規則制度、管理組織、契約、個人奮闘、競争など「理性」的管理が重んじられる。これに比べ、東洋では人間関係、資暦、団体意識、仁義、忠誠、調和など「情感」的管理が重んじられる。これらの背景には異なる文化の存在がある。

日本は、儒教、仏教および日本民族の神道などの精神を広範に受けついている。日本の儒教は、最初のうちは五経中心の教えであったが、中世以後になって『四書』中心の儒教に転換した。その後、『四書』のなかから『大学』と『中庸』を排して『論語』『孟子』を中心にした新しい儒教が組織され、その根本に忠と信が置かれていた。

日本では江戸時代後期に“誠”を中心とした倫理説が主流となり、次第に日本の儒教の主流地位を固めていた。日本独自の儒教において忠信主義や誠主義が強く表れたのは、おそらく、儒教のうちから日本固有の道徳に一致する部分が強調されたものと考えられる。東南アジアの儒教文化圏の中心をなす中国、韓国、日本のなかで、忠信主義や誠主義の儒教は、日本にのみ発生し、日本的存在である。

現代日本人の「忠」の意識は、既に伝統的な「天皇に忠誠を尽くし、国家に忠誠を尽くす」という民族的価値観から具体的に個人の生存に係わる企業に対する忠誠へと姿を変えている。日本企業文化の「忠」「誠」「和」の精神は、企業内での相互協力や調和関係を支え、他人中心意識を育ててきた。そして企業の求心力を高め、内部消耗を減らし、従業員の一致団結を保ち、強力な団体精神を支える主役と絆の役割を果たした。日本の企業では「忠」「誠」「和」の管理方式によって調和、協調、妥協しながら企業内の様々な利害関係のバランスを保っている。

一方、「孝」は儒教文化のなかで最も重要かつ基本的な内容の一つである。ヘーゲルは中国文化について次のように指摘したことがある。「中国は純粋に道徳の結合に建てられている。つまり国家の特性は客観的な‘家庭孝道’である」。中国人のあらゆる人間関係は「孝」を原則としている。実際何千年の中国歴史のなかで、孝は中国の伝統文化の核心的な存在であり、魂でもある。現代社会文明は孝道を必要としているし、企業文化の建設にも恐らく孝道を離れることはできない。これは孝道さえ知らない、あるいはよくできない人間がどうやってほかのことができるかという発想からほかならない。従って孝道は人類が必ず備えければならない最も大切なものである。儒教は仁愛を特に強調している。「以仁愛之心待人」(仁愛の心をもって人に接する)を呼びかけ、社会全体から言えば儒教は「仁、孝、忠、和」を主張し、「仁愛、礼儀、忠恕待人」(真心という思いやりの心をもって人に接する)(『論語・衛霊公』)を尊ぶ。

儒教のこのような仁、忠、孝、和の家長的な仁愛と家庭を中心とした「和為貴」の管理思想は、企業経営において、調和が取れた友好な人間関係を築き、従業員との相互関係の扱いや経営者と雇用者との協調関係に有益であり、現実的な意味を持っている。中国企業では「和為貴」(和を大事にする)と「和気生財」(和が財を生む)を重要な企業文化としているが、これは従業員に対する関心、尊重、労わりと人情的管理を重んじることで、これこそが儒教文化に根ざした東洋的管理の特徴であろう。

3、儒教の「恩報い」と企業の社会還元

儒教文化のなかで「孝」というものが人間の必ず備えなければならない最大なことであれば、「報恩」(恩返し)はその次にくる大きなことである。「君子施恩不図報、知恩不報是小人」(君子は恩を施して報いを望まない、恩を知って恩返ししない人は小人である)、「受人滴水之恩、他日当湧泉相報」(他人から一滴の恩を受けたら、後日は湧泉で返すべし)。これらは儒教文化の基本理念である。恩を知り、恩を感じる人は、いつも恩人に恩返しを考え、恩人に損なうことは絶対しない。逆に、恩を知らず人は、恩を感じも恩返しもしないばかりか、自分の利益と恩人の利害が衝突する場合、恩人の利益を厭わなく損して自分の利益を守る。このような人間は信頼することは絶対できない。従って、恩を報いることは最も基本的な「人徳」である。

こうした「恩知り」、「恩返し」の精神は、企業経営において従業員の献上精神を向上させる。単に物質的な生活のために仕事をするのではなく、恩恵を受けた企業に対してひいては社会に対して恩を還元するという精神的な充実感と満足感を実感させる。

日本企業ではこうした管理精神が提唱されている。例えば、豊田会社の教え諭しの第一条は「全員が一致協力し、誠実を持って仕事に取り組み、産業の成果で国家に報いる」であり、日本TDK会社の精神は「創造:世界の文化産業に貢献しろう」であり、松下電器会社のスローガンは「産業立国」を第一とするものである。トヨタは「尊崇神仏(神の仏陀を尊びあがめ)、心存感謝(心に感謝を蓄え)、恩返して感謝するために生活する」を明確に提唱している。

4、集団倫理文化を土台にする家族的管理

儒教文化は奥深い倫理思想を持っている。それは主に倫理道徳と家族制度を中心とした伝統的価値観によく見られる。その特徴的なものは個人の集団に対する忠誠、家長的権威、家庭的集団制、年輩者尊敬、長幼秩序及び社会秩序の規定である。儒教の倫理は、家族や国家における「集団としての倫理」であり、自己修養を通じて徳を積むという「内部規制」の倫理である。これはキリスト教の倫理は「個人としての倫理」として、神の意志に従うという「外部規制」の倫理とは対照的である。

欧米の個人主義の文化では、ある個人が持っている個性、創意性と独立性を尊重し高く評価する価値観がある。

しかし、集団主義文化では、家族、民族あるいは国民の同質性や共生性を重視する。したがって、集団構成員の同苦同楽、共存共栄のため、個人が集団に対する忠誠、調和、協調が重視され、高く評価される。また、個人主義文化では、心理的傾向が「個人本位」であり、自立の欲求と支配の欲求が強いが、集団主義文化では、「集団本位」が心理的な傾向であり、従属欲求と調和の欲求が強い。

儒教の家族、企業、国家に対する管理は、本質的には家族的管理方式とあまり変わりはない。従って家族的経営方式が企業や国家の管理にも同じく適用できるとみている。これが儒教の倫理型経営思想である。このような倫理文化を基盤に形成された家族的経営思想を欧米の制度化された経営理論に比べてみると、その違いは明らかである。

欧米的経営は理性的基準を強調し、関係の親疎、遠近を問わず、すべて統一的組織制度と規則で公平に対処する。しかし、中国の企業は違う。近年著しく成長した中国本土の私営企業であれ、香港、マカオ、台湾企業であれ、あるいは東南アジアの華人企業であれ、それが「中華企業」である以上いずれも家族的色彩の強い企業で、その管理理念と企業文化の根底には儒教文化を基盤にした家族的管理思想(家族、親族、同郷が助け合う精神)が潜んでいる。例えば、華人企業の場合、海外で華人がおかれている起業、経営の環境はかなり厳しいものである。彼らが成功するためには、まず家族の力、同族、同郷の協力が不可欠であり、それに頼って自己努力をしなければ成功は不可能である。そこで家族、同族、同郷の間では自然に信頼、親情が生まれ、企業管理でも寛容、仁愛、平均を基準とする倫理的企業文化、つまり家族的経営文化が形成されるわけである。

四、儒教文化にみる日中企業文化の異質

日本の企業文化は集団主義精神、人間関係重視「献身の精神」、および西洋の「理性主義」(民主的、法律的、論理的)的な側面を持っている。特に集団主義の団体協力精神は日本の企業文化の精髄とも言える。

中国の企業文化は中国の伝統文化の影響を根源から受けている。それは家族本位である。元台湾大学心理学教授の楊国枢らは、中国人の行動様式をつぎのようにまとめている。@家族指向、A関係指向(コネ)、B権威指向、C他人指向である。その中で特に二つの特徴に注目すべきである。それは「家族的集団主義」と「権力の格差」である。

1)「家族指向」的集団主義と「村意識」的集団主義

欧米から見れば日本と中国はいずれも“集団主義国家”とみなされる。しかし、よく考えて見ると日本の集団主義と中国的集団主義は本質的に違う。日本の集団主義は 「村意識」の傾向が強く、その根源には農耕民族の稲作文化という特質がある。水田稲作農業では、集団作業と共同秩序が必要とされる。一定時間に集中的に行われる田植や稲刈などは、家族の力だけではなく、村全体の集中的労働と、協力、信頼、一致団結が欠かせない存在である。また、田にひく水の割当なども近隣同士の配分の秩序が必要である。このことから農民は、農村という地域社会への帰属意識を持たざるを得なくなる。

また、日本は昔から地震や台風、津波などの自然災害に見舞われ、自然との戦いが何より重要なことになる。そのため個人や家族の力より、村を中心とした集団力がどうしても必要となる。共に田植えの苦労をし、共に厳しい自然と闘い、共に収穫の喜びを味わう村人の間には、知らず知らずに共通の感情と意識が生まれ、村同士の間の連帯意識が強まっていく。

更に、中国から伝わった儒教の道徳が広がるにつれ、家に対する帰属意識が強まり、当時支配階級である武士は、自分の属する藩に対する帰属意識も強く持っている。

このような村意識集団主義が日本企業文化に見られる「和」を特に大事にし、協調、協力、調和、妥協、団結といった日本企業の団体精神につながったと思われる。現在サラリーマンの企業への帰属意識も、このような歴史的基盤の上に、更に日本的企業経営の終身雇用制や年功序列、企業内福祉などにより強められたと思われる。日本企業の高い求心力の源泉はまさにここにある。

日本に比べ中国の“家族指向”的集団主義は個人主義傾向が強い。中国は紀元907年の唐の滅亡までは農耕社会であったが、その後、北方の遊牧民族の侵入によって、騎馬民族による統治が長く続いた。そのため従来の伝統的儒教文化と騎馬民族文化が混在していた。騎馬民族文化の特徴は、毎日獲物を求めて移動を繰り返し、競争心が強く、集団より個々の力を必要としていたため、団体行動や集団主義より、自己実現欲の高い個人主義傾向が強い。

また、数千年に渡る中国の儒教社会では、社会的基本構造と機能単位は家族で、家族が小農経済社会の中心的な存在であった。これは現在中国の農村社会においても変わりはない。実のところ、現在中国の非国有企業の九十%以上は家族的企業である。家族主義指向のもとでは、家族の力が個人の力より重んじられ、家族の意思が個人の意思を上まわる。こうした家族指向の集団主義の社会システムでは個人が集団に対する「忠誠心」は家族に対する「孝心」に表れる。それが家庭内では家長の権威、年長者に対する尊敬、長幼秩序など家庭的集団性につながる。そして、社会的には家庭を中心とする小集団主義として表れる。これは日本の「村意識」集団主義と違って、家族がもっとも強調され、あらゆる所に貫くことになる。ここからも中国ではなぜ日本のように「社群(群的)集団主義」が発達しなかったかの理由が分る。このような村より家庭を基本とする中国の「家族指向」的集団主義は、西洋からみれば日本と同じような集団主義といわれても、実は中国人は日本人より西洋に近い個人主義的、自己中心的であることが分る。

2)企業競争力に於ける「集団主義指向と個人主義指向」

もし日本企業の競争力の原点を企業の経営資源に求めるのではなく、企業文化に求めるのであれば、恐らく集団主義に基づく「組織的知識創造」にあるだろう。日本企業の組織的知識創造の実態を明らかにする研究で欧米でも高い評価を受けている野中郁次郎は、日本企業の競争力の原点はやはり集団主義にあると指摘している。なぜなら組織的知識創造の前提は組織である。組織があるからこそ、知識創造の活動を組織的に展開することができる。これは、個人より集団の意識が強く集団の利益を優先する日本人にとってはごく自然なことである。

1989年、ノーベル賞受賞者を含む17名の教授から結成されたアメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT)産業生産性調査委員会が、二年間にわたる調査を終えて出した調査報告書『Made in America』にも、日本企業の強さの真の源泉が企業間協調、政府と産業界との総合支援体制、政府による調達の慣行、メーカー・供給業・流通業者間の緊密なネットワークなど、やはり企業間協調や産学官連携の仕組み、そして業種間の緊密なネットワークなどいずれも“集団主義”に関わるものであり、やはり日本企業の競争力の源泉を「外部的な集団主義」に求めたものと思われる。ここから現在の日本企業の競争力がなぜ世界ランキングにおいて後退しているかを、現在の日本企業の集団主義精神とそれに基づく忠誠心の低下に求めるべきではないかと思われる。

こうした日本企業の強い集団意識に比べ中国企業の集団主義意識はそれほど強くない。前にも述べたように中国の家族的集団主義は家庭内では家長を、企業では社長を中心とした個人主義傾向の強い自己中心主義である。したがって、日本企業では組織力といえば集団主義に反映されるが、中国の場合はリーダーシップのカリスマ性に反映される。また、日本の場合は集団意識が企業に対する忠誠心や和に代表される協調、協力、求心力に現れ、組織形態としては安定的な終身雇用、年功序列に現れ、行動様式としては社員が会社で「守る人生」を送ることに現れる。これに対して中国の場合は、強調、協力や年功序列、安定的雇用より能力主義、実力主義、成果主義による昇進昇格制度と組織構造に表れる。個人の能力の最大発揮を求めて転職を繰り返し、そして行動様式としてはキャリア・アップしたい、組織内でトップになりたい、自己価値を実現したいという「攻める人生」を送ることに現れる。

3)意思決定における 「U型」決定と「T型」決定

日本企業の意思決定の特徴は集団的協議による「社群的」決定である。その主な形式は「U型」のボトムアップである。まず企業の最高意思決定機関が企業の発展戦略を企画し、抽象的な戦略目標を提出する。それから下部の労働者や管理職の議論と意見を経て再び最高経営陣に報告され決定される。日本は稟議制を原則として実務者の意思を決定機構(経営陣)へ報告(上申)し、審議、協議、意思確認、採択などのプロセスを踏まえてから意思決定が行われる。このような意思決定システムは現代ビジネス社会において、情報やビジネス環境が瞬時万変するなかで即断即決が困難なため、ビジネスチャンスを逃してしまう恐れがあり、決断をする経営者の責任逃れにも繋がる恐れがある。しかし、その一方で企業の社員全員が意思決定に参与するため、実行中に皆が状況をうまく把握し、責任感を持って積極的に取り組み、トラブルが起こった場合も協議がスムーズに行われる可能性もある。

それに比べ中国の意識決定は「家長式」個人主義決定である。その主な形式は「T型」のトップダウンである。上部にある集団トップ、あるいは経営陣が意思決定を行い、そのまま下部の実務者が実行に移す「家長式」決定である。そのため通常は即断即決する。集団企業などの場合、案件の規模により上部組織への諮問が必要なこともあるが、この場合でも集団トップの裁断で決定される。これは欧米の意識決定方式とよく似ている。しかし、欧米と決定的な違いがある。それは欧米よりミドルの権力が小さく、権力が集団トップへ高度に集中していて、ほとんどの場合最上部のトップが決定権を持っている点である。これがいわゆる「権力の格差」である。つまり、儒教の伝統的な階層制度の影響が強い中国企業では、高級経営者は欧米の高級経営者よりもっと大きくて広範な権力を持っているが、中下部の管理者の権限は欧米の同じ級の管理者よりかなり小さい。そのため中国では中低層の管理者は意識決定にあまり携わってない。

六 終わりに

現代社会において儒教文化は表面的には薄がれ、消えたにも見えても、実際には制度慣行や行動様式、価値観や信条など多面的にその影響は根強く、中国の場合は社会生活の中に浸透されている。それは儒教文化に含まれている現代社会に見合う多くの精華、精髄、例えば、「和為貴」、「徳治人尊」、「人本位」、「修己治人」、「知人善用」、「秩序原理」などは今なお生きているからである。一方、儒教文化には封建的、逆時代的な負の遺産(糟)も含まれている。「官本位」、「人治社会」、狭隘な「家族主義」などは社会の発展を妨げるものである。伝統文化・文明に学ぶという意義はその文化遺産を簡単に継承するものではなく、正の遺産と負の遺産を分け、優秀な部分を継承して、アウフヘーベンすることにある。如何に古きものから精華を取出し、糟を取除き、それを現代社会に生かして、そこから「自己発現への道を」を追求し、新しい価値を創造していく、儒教文化の現代的意義はまさにここにあるだろう。参考文献:(省略)。

満州建国大学生の戦後(序)

(朝日新聞2010/8.17;10.12;より抜粋)

昭和生まれの人には、これらの新聞記事の裏にある真相や告白もできないような当事者の情感を推測することは困難かもしれない。しかし、これらのドキュメントは他者では語れない大東亜戦争敗戦前後の歴史の一端として、永く人類史に記録保存すべきものと考える。(文責:編集者)

“「友よなぜ」今も問う”、

終戦翌日三重の浜辺で割腹自殺した森崎湊海軍少尉候補生の死(享年21才)に対し、満州建国大学同期生であった桑原亮人さん(86)は、「彼が今の日本を見たら、どう思うでしょうか」とつぶやいた。「満州国」のエリート養成を目的として首都・新京(長春)に建設された建大に4期生として、1942年、森崎さんも桑原さんも入学した。建大では、日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの5族協和による満州国建設を、表向きは、理想として掲げていた。戦況が厳しくなるにつれ、森崎さんは軍人になって国のため戦う道を選んだ。入学2年後建大を退学、44年、三重海軍航空隊に入隊した。桑原さんも、陸軍特別操縦見習士官に合格、本土の陸軍飛行学校を経て、再び満州に配置された。「当時は物資が不足し、訓練用の飛行機にはガソリンを使えなかった。飛びたくても飛べず、森崎も悔しい思いしていたのではないか」

終戦後、桑原さんは満州でソ連軍の捕虜となり、約3年間、ウクライナの収容所で森林の伐採作業などを強いられた。森崎さんの自決を知ったのは45年の帰国後だった。「彼は許せなかったんだと思う。日本が米国に屈するということが。愛する故郷を異邦人にふみにじられるということが。」遺書には両親への感謝と謝罪の言葉がつづられている。「先立つ不幸をお許し下さい。私は生きて降伏することは出来ません。日本はこれからどんなつらい目に遭うことでしょう。それを思うと覚悟も鈍りますが、私が生きていたら、きっと和平を破り、国策に反して累を一族に及ぼしてしまうことを恐れます」

桑原さんは言う。「森崎は真っ直ぐ過ぎたのかもしれない。しかし、かつての日本には、彼のように国や家族を命をかけて守ろうとした若者がいたことを、国や家族に無関心になりがちな現代の若者にも知って欲しいと思うのです。」 森崎さんの当時の心情は、「遺書」(図書出版社)として刊行されている。

満州建国大生の戦後(1)

(朝日新聞10/12より抜粋)

ロシアの友「日本誇りに」

「ミヤノ、ミヤノ!」9月10日、中央アジア・カザフスタンのアルマトイ国際空港、車椅子で到着した宮野泰さん(84)に、ゲオルギー・スミルノフさん(85)が大声を出しながら駆け寄った。「ミヤノ!」、「スミルノフ!」かつて満州建国大の6期生だった2人は、65年ぶりの再会に抱き合って泣き崩れた。宮野さんが「お疲れさん。苦労しただろう」と言い、スミルノフさんは「ダイジョウブ」と日本語で返す。2人は建国大の「塾歌」を歌い始めた。<猛れ、嵐よ若き血よ!協和の旌旗振りかざし−> スミルノフさんは、ロシアの社会主義革命に反対してソ連から逃れ、「満州国」へ移住した「白系ロシア人」。ハイラル第三国民高校で日本語を学び、政治を志して建国大に進んだ。「『民族協和』の理念がまぶしく見えた」1945年、日本の敗戦で大学は8年で消滅。スミルノフさんはソ連政府に「要注意人物」と見なされ、ロシア西部の極寒地に強制移住させられた。雨漏りのする小屋で約10年間、軍の監視下に置かれ、「いつか殺されるという不安に絶えずおびえていた」。親類を頼ってカザフスタンに脱出し、アルマトイで教会に職を得た後も、建国大で学んだ「過去」だけは長い間、公にできなかった。建国大同期のロシア人学生は終戦直後に銃殺された。シベリアに送られて十数年、強制労働をさせられた先輩もいる。『日本のスパイ』と呼ばれることが恐ろしかった」。宮野さんは戦後、ソ連軍捕虜として中央アジアのキルギスに送られ、約2年半の抑留生活を強いられた。帰国後も建国大代出身者は公職に就けず、故郷の新潟県で農業で生計を立てた。

2003年駐カザフスタン日本大使がアルマトイの教会を訪れた際、スミルノフさんが「過去」を打ち明け、日本に「生存」が伝わった。同窓生は大喜びで手紙を送り、ロシア語専攻だった宮野さんが代表として現地を訪れた。

到着翌日、自宅で歓迎会を開き、スミルノフさんは、「日本は私の中の誇りであり続けた」と語った。廃墟から復興し、欧米と肩を並べた経済大国。息子も孫も日本車に乗り日本製カメラを使う。そんな「ヤポーニャ(日本)」を見聞きするたび、建国大の同期生を思い出した。「友よ、君たちは見事にやりぬいたな」と。「日本語で大好きだった言葉があります。『頑張れ』。65年間、つらいこともあったけど、私は『頑張れ』『頑張れ』と自分に言い聞かせながら、生きてきました」。

満州建国大生の戦後(2)

(朝日新聞10/13より抜粋)

抗日胸張り裂ける思い

「中国人学生にとって、満州建国大で学ぶことは、身を引き裂かれるような痛みを伴うものでした」1938年設立の建国大1期生で、現在は中国・大連市で暮らす揚増志さん(91)は、『大連ヤマトホテル(現大連賓館)』で、かつての苦悩を日本語で語り始めた。「入学当初(当時は、1年たつと時代が変わる点に注意!)は、大学が掲げる民族協和の理想を信じていました。でも、学べば学ぶほど、その理想が矛盾だらけと気づく、大学の内と外があまりにも違いすぎていた」学内は「言論の自由」が保障され、言いたいことは何でも言えることになっていた。ところが大学の一歩外は日本人の横暴がまかり通る「日本の植民地」そのものだった。「31年に満州事変が起き、37年には中日戦争が始まりました。よく38年に入学した1期生の中国人学生にとって、日本人の教授や学生は同じ屋根の下で暮らす『祖国の敵』だったのです」

学内の中国人学生を集めて『反満抗日』の地下組織を作り、建国大があった新京(長春)市内の各大学に広げた。建国大は地下活動に好都合だった。学内は学生自治で守られ、日本軍の『関東軍』も入って来ない。日本では禁書だった共産主義や独立運動の書籍も読めた。

戦局が中国に有利に傾けば、蜂起して戦いに加わろう、仲間とそう誓い合った矢先の41年12月、関東軍は一斉摘発に乗り出す。楊さんはリーダーとして逮捕された。拷問は陰惨を極めた。「しゃべれば用無しになって殺される。どんなに苦しかろうと、生きる方を選んだ」

冬のある日、監房に山のような差し入れが届いた。建国大の日本人教官や同期生からだった。大学は関東軍に逮捕学生の即時釈放を求めたが受け入れられず、副総長が抗議の辞職までしていた。「胸が裂けそうで、大声で泣いた。中国を占領する日本が死ぬほど憎かった。一方で、同じ寮でともに学んだ日本人学生たちが、なぜか死ぬほど恋しかった」内乱罪で起訴され、「無期徒刑」の判決を受けた。日本が降伏し、建国大が消滅する45年8月15日に開放されるまで印刷所や縫製工場で働かされた。苦しみは戦後も続いた。建国大で学んだ中国人たちは、「日本帝国主義のスパイ」とにらまれ、文化大革命などの運動が起きるたびに解雇されたり、自殺に追い込まれたりした人もいる。「建国大で学んだというだけで、多くの中国人卒業生は今も苦悩の中にいる。戦後の65年間は、語り尽くせぬ自問と苦悩の連続だった」

満州建国大生の戦後(3)

(朝日新聞10/14より抜粋)

モンゴル人の国父との夢

「『日本が負けた』と聞き、目の前が真っ白になりました。日中戦争の終結は、私にとっても『敗戦』でした」嘗て、満州建国大の学生だったウルジン・ダシニャムさん(88)はモンゴルの首都ウランバートルの繁華街で、1945年夏のことを日本語で振り返った。「満州国や建国大は、当時の父や私には何事にも代えがたい存在でした。夢であり、支えでもありました」

父親は「満州国」軍の著名な将軍ウルジン・ガルマーエフ氏。当時を描いた安彦良和氏の人気漫画「虹色のトロツキー」に登場する「ウルジン将軍」のモデルでもある。モンゴル系ブリヤート族出身で、ロシア・シベリア地方のチタ市で小学校教師から帝政ロシアの職業軍人となったが、17年のロシア革命で国を追われる。逃走中の草原でダシニャムさんが生まれた。

20世紀初頭、極東の国境腺は激しく動いた。24年、ソ連の衛星国としてモンゴル人民共和国が成立。32年には中国北東部に日本がつくった国家「満州国」が出現する。「選択肢は限られていた。ソ連か、日本か。軍事力の弱いモンゴル民族はどちらかにつくしかなかった。一家は「日本」を選んだ。父はモンゴル人部隊を率いて満州国軍の中将になり、ダシニャムさんは満州国政府の官僚になろうと建国大に通学した。「満州国が掲げた『五族協和』を心から信じたわけではありません。モンゴル人がモンゴル人らしく暮らせる国を作りたいとの一心でした」勤労動員で駆り出された飛行機工場で、終戦の報を聞いた。建国大のあった新京(長春)に戻ると、満州国政府のモンゴル局長と父が戦後処理の協議をしていた。「誰かが責任を取らなければならない」。父はそう言い残し、息子に声もかけず、局長宅を出て行った。「それが、父の最期の姿でした」。

父の行方はずっと分らないままだった。新京でソ連軍に投降し、軍事裁判の末、47年春に銃殺されていたことが判明したのは、モンゴルが民主化され、「モンゴル国」と改称した直後の92年。ロシア連邦検察庁から家族の下に届いた1枚の証書に<新憲法とロシア連邦の法律により、政治的鎮圧によって処刑されたガルマーエフ氏の名誉を回復する>とあったからだ。

戦後、ダシニャムさんは中国政府に家や財産を没収され、就職も制限され、数人のモンゴル人仲間と野原でタルバガン(リス科の小動物)を取って暮らした。妻の親類からの出国要請で、54年中国からモンゴルへ、その後ウランバートルで、図書館や造形美術館の解説員として働いた。「モンゴル民族は今も、中国やロシアなど、バラバラになって暮らしています。国家や国土、民族をずっと考えさせられ続け、生きている限り逃れられなかった。父も私も、常に強く生きなければならなかったのは、不幸なことだったのかもしれません」

満州建国大生の戦後(4)

(朝日新聞10/15より抜粋)

南北分断裂かれた友情

満州建国大の卒業生は、それが仇となり、多くが戦後自国政府に弾圧されたが、韓国に戻った朝鮮人学生は例外だった。「皮肉な話です。建国大で学んだことが、私たちを社会のなかで押し上げたのですから」ともと韓国首相、姜英勳さん(88)はソウルで静かに語った。

終戦直後、自国軍を急いで整備する必要に迫られた韓国政府は建国大出身者を即戦力として重用した。語学に優れ軍事知識を習得していたためだという。1980年代には、郡の幹部や政府高官、銀行頭取などのポストを次々と占めた。軍幹部だった姜さんは首相になり、80年には南北初の首相会談を実現させた。「私にとっては失われた祖国との握手でもありました。」と振り返る。朝鮮半島北部の昌城出身、建国大を選んだのは、日本の韓国併合後の1919年に抗日運動で独立宣言文を起草した崔南善氏が教授陣にいたからだ。入学すると、崔教授に「朝鮮人であることを忘れるな」と諭された。日本の戦局が悪化し、朝鮮人も学徒出陣を迫られると、こう助言された「独立すれば必ず軍事力が必要になる。今は耐え忍び、日本の軍隊を学ぶんだ。」姜さんは出征し、45年に秋田で終戦を迎えた。朝鮮北部に戻ったが、建国大生だったため「反動分子」と見なされ、小船でソウルへ脱出、韓国陸軍へ入った後の50年朝鮮戦争が始まった。同じ民族同士で戦う戦、親類や旧友に銃を向けると同じだった。休戦後、朝鮮半島は分断され、今も「北」の同窓生と連絡がとれない。

ただ1人だけ、60年代後半北朝鮮から侵入した工作員の中に建国大の卒業生がいた。「南」の出身で、日本敗戦後は、「北」に残り、大学教員の職についていたが、建国大同期の姜さんら「南」の重要人物を懐柔する任務の工作員となっていた。彼は、その後数十年、獄中生活を送り、釈放後も軍乃監視下に置かれた。姜さんは最後まで面会を許されなかった。「戦争とは(民族の)分断とは、つまりそういうことなのです。」姜さんは遠い目になった。「建国大で学んだ『民族協和』の実現の難しさを、私は身をもって学びました。ただ今でも心のどこかに理想の実現を信じている。複数の民族が対等の立場で互いに助け合う関係を築けば、必ずこの世から戦争はなくなる。理論上は不可能ではないのです」

工作員が韓国内で釈放されると、日本と韓国の建国大の同期生たちは数百万円かけて住居を確保し、生活資金を送り続けた。2003年に亡くなった時には花を贈り、陰ながら『旧友』の死を悼んだという。

(編集 海野)