半田道玄の囲碁哲学と科学的自然観 

                                  菅野礼司

 

目次

[1]はじめに 

   まず疑うことから始めた、半田道玄とデカルト

[2]科学的自然観と半田哲学

 近代科学から現代科学への自然観の変遷、西欧的(キリスト教的)自然観と東洋的自然観、

 囲碁を極めるとは、半田の運命論:絶対的法則に従順、 近代科学の運命論、人間も自然 の一部

[3]科学とは、囲碁とは

 科学とは、自然科学は自然自体の自己反映活動、 囲碁理論は自己言及型ではない、  完全な囲碁理論は存在しうる

[4]成るべくして成る

 「形相(フォーム)」、自然科学も囲碁も形相の一つ

 「自然論(じねんろん)」:「成るべくして成る」 大宇宙と小宇宙、 「地球ガイア」、

[5]宇宙の自己実現

 宇宙の自己発展・進化、 宇宙は一つとは限らない:多宇宙論、 自然自体の創発により自 己実現に向かう、 創発現象は予測できない、 囲碁における創発、

[6]相互規定の原理 :存在の理法

 宇宙も囲碁も相互規定的体系、  自己実現:形相(フォーム)の発現、           「神の意を認知した」、 「囲わず、守らず、攻めず」の三法、 三法とは、苑田流「攻めず  守らず」、 囲碁理論の二面性 (弁証法的性格)、 囲碁理論のファジー性

[7]カオス現象と囲碁:予想不可能

 自然現象の場合、 囲碁におけるカオス、 クオリア(質感)

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[1]はじめに 

 関西棋院の巨星の一人である半田道玄(十段、王座などのタイトル獲得)は自らの思うところを日々書き留め、五百冊に余るノートを残した。半田さんの唯一の弟子である斎藤謙明氏が、そのエッセンスを囲碁哲学断想として編纂したのが『半田道玄の覚え書きから−天地の理にかなう』斎藤謙明編著である。そこに紹介されている半田道玄の人生観と囲碁哲学を読んで興味を覚えた。その考え方の中に、科学的自然観、特に現代科学の自然観と照応するものがあるように思えたからである。

  一流棋士は皆それぞれ独自の囲碁哲学と人生観を持っているだろう。特に、タイトル戦などの大勝負を戦い抜いた棋士は強く立派な人生観を築いているはずである。半田の囲碁観や人生観も非常に強烈であるが、彼の囲碁哲学は自然観と深くかかわっている点で、他に類を見ないユニークなものであると思う。

 そこで、半田の囲碁哲学を、科学的自然観と対応させて、その立場から解釈してみようと思い立った。そうすることで、半田の囲碁観について、また囲碁について、こんな見方も可能であるというわけである。そして、それによって囲碁界の人たちがこれまでに気付かなかった一面が見えてくるかも知れないとの期待もあった。

 (以下で、半田道玄に関する引用はすべて半田道玄の覚え書きから−天地の理にかなうからである。)

 

まず疑うことから始めた 

 『半田道玄の覚え書きから−天地の理にかなう』の序文「半田さんの道」(斎藤謙明)からの抜粋:

 半田さんは疑うことから取りかかった。常識を疑い、習慣を疑い、一筋に“勝つこと”を追求したとき、振り向いた碁はエトランゼだった。一般概念とは共通するなにものもない。

 その大系のもとに、40才を越えてから天下を争う域に達する。大勝負の体験を加え、なお見つめ続ける半田さんの前から碁盤が消える。そこには人生そのものがあった。宇宙があった。

 彼(半田)の哲学は知ることではない。心身の動きを天地の理と一致させる試みである。意志するところが宇宙の運行と寸分の齟齬もなければ、すなわち宇宙の支配者である。  

                                                        

半田道玄とデカルト

 半田は、囲碁について既存の考え方、常識、習慣(「形」など)を疑い、否定するところから始めた。その方法はデカルトを思い浮かばせるだろう。また、西田幾多郎とも照応したくなるであろう。

 デカルトの方法:一旦は一切を疑い、最も確実なものから世界を再構築することを試みた。デカルトにとって確実なものは「コギト(考える我)」の存在、宇宙創生の全知全能の神であり、次なるものは数学の論理であった。これら確実と思われるものと、明晰判明な事柄を基礎にして、論理的に積み上げ自らの哲学大系と世界を構成した。

 デカルトの物心二元論:物質と精神は独立、物質は機械的に運動する。精神と肉体は独立であり、肉体は自動機械である、心と身体の合一態が人間であり、心が優位にある。

 半田の哲学確かなものは心身の動きと天地の理(自然の原理・法則)である。

 両者の一致する世界、いわゆるインドの「梵我一如」(ブラーフマンとアートマンの一致)を志向したといえる。その方法は論理的に構成するのではなく、感性的・直感的に世界観を構成した。ただし、論理的に体系化された世界観(哲学体系)ではない。

 彼の心は「意志するところが宇宙の運行と寸分の齟齬もない」ことであった。そして、宇宙の現象も人間の運命も、すべて絶対的自然の法則に支配され運命づけられていると信じている。その「絶対」には逆らえないし、それに従えば迷いはないという。

 

 この発想は「自由とは必然性の洞察である」(ヘーゲル)を裏からの表現したものだろう。 (自由とは必然的自然法則に逆らわず従うことであり、そうすれば宇宙の「意志」と共に不自由なく自然に行動できるということか?)

 

 半田の心身一体観

  心身は強く相互依存する。「心身ともに強くなれば、考えることも健全」である。

 「明日までの命」:僕のような体の弱い者(片肺を切除)が今日まで、いや今日これぐ らいの元気で若者相手に対局出来るのは、つまり自分が思っているほど悪くないのであ ろう。事実さまざまの病のため対局を休んでいる人がいる。病を恐れず、意としないこ とである。心身は一体である。心強ければ、それにともなって体も強くなる。一体であ るという自覚を持つべきである。[]

 

  デカルトの物心二元論は西欧的自然観、半田の心身一体観は東洋的自然観である。

半田のそれは、人間の心身、心と肉体は相互に依存しつつ成長し、活動力を生み出すシステムであるというわけである。 デカルトの思索の方法は西洋的な論理思考によっており、それに対して半田の方法は彼の経験と思索に基づき、東洋的な直感的思考によって築かれたといえるだろう。したがって、「疑い」に対する両者の思考法も対象も質的に異なる

 

  こうしてみると、半田の哲学はデカルトよりも西田哲学に近いといえるであろう。西田幾多郎はデカルトの懐疑的思索法と分析的思考法を評価しながらも、明晰判明な事柄の根拠を形而上学的神に求めざるをえなかったところを批判した。西田も既存の概念を捨てて、主客未分化の「純粋経験」を唯一の実在とした。そして、この純粋経験を基本に据え、それを基点として西田哲学を築いた。彼は、科学的知識の成立根拠を「行為的直感」に求め、この世界の存在とその自己発展を「絶対矛盾的自己同一」いう概念で捉えた。西田の思索の方法は感性的・直感的であり、デカルトほど論理的一貫性はないだろう。

 

 いずれにせよ以上のように半田の個性と彼の哲学は強烈であり、かつ棋士としてユニークである。

 「心身の動きと天地の理」を基柱とする半田哲学を、私の画いている科学的自然観と囲碁観に基づいて解釈してみよう。

 ただし、近代科学は西欧的自然観を基礎にして、西欧的論理思考(分析的・合理的)によって組み立てられている。現代科学も基本的にはそれを受け継いでいる。それに対して、東洋的自然観は自然との一体感に基づき感性的なものであり、思考法は直感的・現象的(分析的でなく全体的)である。したがって、科学的自然観と半田哲学を照応させる場合、この差異を考慮すべきであって、形の上だけで判断してはならないと思う。デカルトと半田の対比もその例である。

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[] 半田の肉体を支えた強靱な意志

 生涯結婚しなかった半田さんの面倒を看たのは妹の登美子さんだったそうである。医者嫌いの彼は「また意識を失ったら病院に運んでくれ」というだけでなんとしても医者にかからなかったそうである。

 「好きだった達磨のように」から抜粋: 晩年の半田さんは全身にむくみが出て、散歩も家の横の坂道をゆっくり昇るのが精一杯だった。対局の朝は、玄関まで這って出て、タクシーで北浜へ。関西棋院の前で降りると電柱に抱きつく。息をととのえて次の電柱へ。「まるで蝉みたいで」と言って笑っていた。それでも盤の前に座れば十時間余を碁に集中した。昭和49年4月13日、好きだった達磨のようにすわったまま、半田さんは返事をしなくなった。今度は意識が戻ることはなかった。

 半田さんの病躯は横臥すると呼吸ができなくなるので、何日も机に向かい座ったままだったそうである。彼は強靱な意志で「心身一体観」を身をもって示したのである。

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[2]科学的自然観と半田哲学

 

近代科学から現代科学への自然観の変遷  []

 近代科学の論理の基礎には、宇宙の全ての物質は不可分の原子からなるという原子論的自然観、その物質は必然的自然法則に従って機械仕掛けのように整然と運行するとする機械論的自然観、その自然の仕組みを記述した自然という「書物」は数学の言葉によって書かれているとみる数学的自然観、これら3つの自然観がある。この自然観には西欧思想、特にキリスト教の自然観が反映されている。

 それに対して現代科学は、これら3つの近代科学の自然観を超えそれに替わって、宇宙における物質の分布は階層構造(クォーク−素粒子−原子−マクロ物質−恒星系−銀河−・・)をなすという階層的自然観、全てのもの(物質、生物、宇宙自体)は一定不変でなく進化するという進化的自然観、そして数学的自然観がその基礎にある。

 その中で、特に注目すべきは進化的自然観である。

 

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[注]ここに言う「近代科学」は17世紀に、ニュートン力学の成立を皮切りに、19世紀までに西欧で築かれた自然科学を指す。「現代科学」が20世紀初頭の物理革命(相対性理論と量子力学の誕生)以後、近代科学を超えて築かれた物質科学生物学、宇宙論、情報科学など広範囲な自然科学を指す。

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西欧的(キリスト教的)自然観と東洋的自然観

西欧的自然観

 神の創造した宇宙は、神の意志に基づいて整然と運行する。最初の神の一撃で宇宙は始まり、その後は神の定めた自然法則に従って機械仕掛けのように運行している(デカルトの機械論的自然観)。

 キリスト教の自然観、「神−人間−自然」の階層構造に基づいて、人間と自然の間に一線を画し、人間は自然の外に立って観照的に自然を認識するという立場である。

 神の造った自然の仕組みは、人間に理解しうる。しかも、自然法則を知ることは、神の意志を知り、神に近づくことである、と信じた。そして何時かは、自然の究極理論に到達しうると考えていた。

 たとえば、19世紀末、イギリス物理学界の大御所ケルビン卿はロンドン王立協会での講演で物理学者の自負を宣言した;物理学は自然の真理を掴んだ、今後はその理論を適応して世界を説明するだけだと。しかし、その自負と夢は20世紀初頭の物理革命、相対性理論と量子論の誕生によって潰えた。その後もまた、現代科学では(20世紀終わりの頃)素粒子物理学における「相互作用の統一理論」は究極理論となるだろうといったのは西欧の物理学者である。

 

東洋的自然観

 自然と人間は一体であり(梵我一如、)、人間も自然の一部とみる(輪廻転生)。自然を外から客観的に認識するというのでなく、内部から共感し理解する立場である。それゆえ、自然との一体感をもって、感性によって全体的に自然を捉える傾向にある。

 自然認識に関しては、究極理論は存在したとしても、自然は豊富で奥深いから、そこに到達できないだろうと考える。

 

半田の自然観「天地の理」は「自然の摂理−神そのもの」を指しているように思える。しかし、キリスト教の超自然的神ではなく、「自然の原理−自然そのもの」そして「必然的自然法則」であろう。

 天地の理は真理であり、それは存在する。天地の理に従えばすべてうまくいくと信じ、彼は囲碁を通して真剣にそれを掴もうとした。しかし、当然ながら人間半田にはそれを完全には把握できない。だから死ぬまで苦闘し続けた。

 「(何をもって囲碁を争うか)その真実のほどは計り知れない。しかし、生命を賭すは大げさだとしても、なにものも打ち忘れて頑張れるだけの要素がある。それを人間が求める。そこに人間の本質が潜んでいるのであろうか。」

 

 半田の自然観の基本は東洋的ではあるが、「天地の理(自然法則)」の存在を信じて、それに従えば自ずと道が拓けるというように、そしてさらに、石の形や布石に囚われずに現象ではなく本質的真理を求めよというように、一部西洋的な発想もあると言えよう。

 

囲碁を極めるとは

 囲碁は人間の考案したルールに従って行うゲームである。そのルールに基づいて囲碁理論を組み立てることはできる。碁盤目は有限の361であるから有限の手順で一局の碁は終局となる。それゆえ、すべての着手の手順と石の配置パターンは想像を絶するほど莫大な数にはなるがともかく有限である。だから、すべてのパターンを並べ尽くすことは論理的に可能である。原理的にせよすべての手順を尽くすことができるならば、究極の囲碁理論は存在するはずであり、必勝法もあるはずである。[]

 しかし、可能な手順の数があまりにも莫大で、人間には実質上無限大であるから、その完全な囲碁理論と必勝法を解明することは人間には不可能である。それは神のみぞ知るものである。人間はそれを掴もうと努力するが、人間の力には限界があって、それに近づくことは出来ても到達し掴み切ることはできない。

 囲碁をゲームとして見れば、その理論は取りあえずこのようになる。だが、「囲碁とは何か」を追求するもう一つの方法は、「囲碁道」としてその精神を極めようとするものである。勝敗は大事だが、それよりも石の形や手順の美しさ、品格を重んずるというものである。

 日本人の囲碁に対する姿勢は、勝敗を競うゲームとして囲碁の論理を追求することばかりでなく、その内に品格のある美しさを求める「囲碁道」として囲碁を究めようとする面が強い。愚形(空き三角、団子石など)を嫌い石の形の美しさの追求は碁盤上に芸術を求める心であろう。序盤・中盤では最後まで決めずに余韻を残しておく、あるいは直接的でなく次を狙う「含みを持った手」を好しとする。「含みのある手」とは「本手」、「味のある手」などを意味するが、これは日本独特の感性からくる発想で、外国人には理解しにくいらしい。中国には「本手」に当たる言葉(概念)がないそうである。愚形は効率の悪い打ち方であり、また最後まで決めてしまうのは後の着手の選択肢を狭めるので拙い打ち方であるから、囲碁理論としては当然であろうが日本ではその傾向が強いといえるだろう。

 また勝負については、勝てないと判ったら投げ場をつくる(形作りという)というのも品格を重んずる精神である。勝負にこだわって勝てない碁を綿々と打ち続けるのは相手に失礼であるといって投了する。だが、外国人、特に欧米人は負けがはっきりしていても投了せずに最後まで打つ人が多いといわれている。

 近年、中国や韓国の棋士は、囲碁道よりもゲームとして、勝負に勝つための実質的な理論、新手や新定石を開発して世界を制覇した。日本でもそれに刺激されてか、伝統的思考を脱し発想の転換によって、そのような研究も一部で盛んになったようである。

 日本の伝統的形式や考え方を疑い、勝つために自らの道を歩んだ半田は、その中道を歩もうとしたように思えるがどうだろう。たとえば、「理法を持ってゆだねる」「勝負を離れて名棋譜を残す、そこに棋士の使命がある」、また「囲わず、守らず、攻めず」というように。彼は「勝ちたい、勝ってまた次を打ちたいと、執念を燃やしながらも」、他方では、勝敗を越えた心で囲碁に対したといえよう。

 

 「道に死す心」昭和40年 7.12.(第13期王座戦準決勝 対坂田栄男)

  どうしてこのような好局が打てたのか。僕が坂田に対し、いや局に際して邪念さらに なく、心清らかに、あせるところなく、得をしようとかどうしようという野心なく、正 しく打とう、大法にかなうべくと心がけた結果か。いかに坂田とて大法にはどうにもな るまい。まるで道案内されるように、前途が明るく、次から次と妙手が浮かんだ。それ は始めからの考えよりも、事態の変化にともなって浮かんでくる。

  自分にことだけを考えてはいないだろうか。物欲につかれて貪ってはいないか。欲望 はないか。邪念はないか。心は清く正しくあるか。偉大なる愛の心であるか。悪い心は 出てないか。禅法呼吸臍下丹田に腹考し、大儀心に徹して、道に死す心である。たとえ 一歩たりとも前進、進歩の心である。第一、碁をうまく打とうなどと思ってはならない。 ひたすらに道、大法である。僕は神の心にこそ添うべきで、人人の言葉に耳を貸すこと はないのである。

 

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 [注]囲碁ゲームで、石の配置と手順の違いによる着手可能数(可能な対局パターン数)は、原理的には361!(階乗)通りある。コウもあり、取り跡にも置けるので、それ以上である。  361!は 10750  以上になる。

 石をどこに置いてもよいとして全ての可能性を尽くせば、場合の数はこうなるが、実際上は、初手から盤端や隅に置くことはないし、最後まで盤面を埋め尽くすこともない。だから、コウや取り跡に打ったとしても、長くても350手ほどで終局となる。それゆえ、大目に見積もっても300!程度であろう。それでも10600以上になる。この数がいかに多いかは、宇宙の中の全原子核(素粒子でもほぼ同じ)の数がわずか1080であることと比較すれば一目瞭然である。超天文学的数などという生やさしいものではない。したがって、囲碁の着手変化を尽くすコンピューターメモリーも、必勝の囲碁ソフトも作りえない。それゆえ、この数は有限確定であるが、人間にとっては事実上無限大である。

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半田の運命論:絶対的法則に従順

  半田は運命論者である。宇宙の現象、人間の運命も、すべて絶対的自然の法則に支配され運命づけられていると信じていた。その「絶対」には逆らえないし、それに従えば迷いはないという。だから、通俗的な運命論ではない。

 

 「生物であるものの覚悟のほど」  昭和37.10.23.

  絶対ということをふと感じて目がさめた。我々は避け得ない絶対を存外考えていない。 この絶対ということを常日頃より認識して、この避けられない運命に従順であるべき覚 悟である。避け得ない絶対(的なもの):それは天地の理(必然的自然法則)−−運命 に従順であるべき覚悟あれば迷いなし、考えに曇りなし。生物であるものの覚悟のほど である。 いっさいは実に無空。宇宙の歴史から見れば、ただ一介のものであるだけ、 あとになにも残らない。

 

 避けることのできない運命に従順であるが、それでもなお勝負師の心意気か? そう悟った後は“心に迷いなし考えに曇りなし”、この心は碁盤に向かうときの勝負師の覚悟であろう。

 

近代科学の運命論(決定論)

 ニュートン力学に継いで、近代力学が完成した時期、宇宙は必然的自然法則に従って運行していると見る機械論的自然観が確立した。それによると、人間の運命を含めて、すべての自然現象は宇宙創生と共に定まっていることになる。最初の神の一撃以後は、宇宙は神の定めた自然法則にしたがって機械的に運動するというわけである(ニュートンは、神は一撃以後も宇宙を操縦していると考えた)。

 では人間の自由意志はあるのか、個人の努力は無駄なのかという、運命論が深刻に議論された。このような運命論は現代では受け容れられていないが、自由意志とは何か、それは如何にして持ちうるのかという問題は今でも哲学の課題である。

   半田の哲学は、天地の理に従う運命論であるが、また人間にはその定めは分からないから懸命に頑張るのだ、それが人間の定めであり本質であるというものだろう。(だが、後に述べるように、この人間の本質もまた自然の理、形相とみることができる。)

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[] 現代物理学の量子力学は確率的法則であり、決定論的必然法則を否定する。それゆえ、自然法則は完全な意味での決定論ではないので、現代科学は絶対的運命論を否定する。

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人間も自然の一部:人類の誕生も物質進化の結果

 現代の自然科学によれば、この宇宙は、宇宙創生期のビッグバン直後の混沌とした高温・高圧の極く小さなガス状態から膨張する過程で、自己発展し現在の状態まで進化してきた。そうした進化の中で、太陽系が生まれ、地球上では生物が発生し、ついに人類が誕生した。 

 宇宙の進化により、現在のような秩序系が生まれたのは、超自然的な外部からの作用(神の手)によるものではなく、物質自身に具わった能動的性質により自ら創生されたものである。この物質の能動性の起源(動力因)は、物質間の種々の相互作用(力)と自然法則である。[]

 物質には相互作用による自己発展、自己組織化の能力が具っていて、それによってこの地球に生物が発生した。人類の誕生は、その生物進化の結果である。したがって、人間は自然の一部であり、人間の営みはすべて自然現象に包摂される。人間の記憶も思考も高度に組織化された物質系の活動の様態、自然現象の一形態である。

 

 すると、自然科学も囲碁も人間の営みであるから、自然現象の一形式である。このことを半田は感性的にとらえていたように思える。この自然観のもとでは、半田の境地のように、梵我一如、そして人間は半自然(小自然)であるから大自然に従うべし、ということが肯ける。

 

 「自然の法則と社会の法則」より(第2期十段戦挑戦手合第1局)昭和38年11月

  僕は心、自然の法則で(対する)のである。先生(橋本宇太郎)は社会の法則をもっ て対するのである。僕は自然の神にいっさいをおまかせする態度、先生は自分の力でい っさいやりぬくと決めておられる。ためにその気魂はすさまじいものであり、また策は 激しいものである。それに徹しておられる。

  もちろん人の世で造られた囲碁なれば、当然人の世の争いではある。しかし、なにご ともそこに内在する本質には自然の法則があるのである。自然を無視しての事はないの である。人、それを運という。運は自然を体するものにほほえむのである。

 

 すべてを自然法則によって定められる「運」として甘んじて受け容れるという、半田独特の運命論がここに見られる。

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[]その膨張過程で、核子(陽子、中性子)から核反応により軽い原子核が造られると同時に、重力作用によってガス体が分裂して銀河や星が誕生した。その後、星の内部で核反応が進み中程度の元素が合成された。このように、空間の膨張と共に物質も進化し、宇宙は発展・進化してきた。

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[3]科学とは、囲碁とは

 

科学とは

 自然科学は人間の社会的営為の中で、物質の存在様式とその運動・発展の原理・法則を認識する活動である。その知識体系は歴史的・社会的に蓄積可能であり、個人の主観によるものではなく、言語によって他人に伝達可能な客観的知識である。そして、その知識体系によって、合理的かつ整合的に自然を理解(説明)することを目指す。さらに、その理論は未知のことについて予言能力を有し、直接あるいは間接的に検証可能である。

 特に科学の方法として、諸現象の背後にある本質、原理・法則を追求すること、実験・観察により実証可能であること、従って社会的・歴史的に蓄積できる客観性のある知識体系であることが肝要であり、芸術や宗教と異なるところである。

 

 科学は社会的・歴史的に蓄積可能な知識体系であるという点は、囲碁のそれも同じである。しかし、囲碁の場合は、完全には客観的知識体系ではなく、まだ個人により着手について価値判断が多少異なり、主観的判断の余地が残っている。

 

 半田は一切のもと(根源)を見よという。我等はあまりにも現世界において目に見えるもののみを欲する。それらのもとをみようとしない、いや考えようとしない。すべての物事のもと(源)を見よう、それが真実なのだという。

 「我等のもとは現地球であるのか。水も土も海も皆自分の一部分であるのか。無限なる 生き物である大自然の法則を、我等は日々一歩一歩体得して、真なる世界を確立すべき である。

 (大事なものは)夢でなく、現実である。真実である。偉大なる自然心、神の心、自分 という心を持たず、いっさい神の子たるゆえんを身をもって知る。大自然(の一部)た る我はただ一塊の土である。大いなる生命の一端である。いっさいは無なのである。有 はすべて現象(うつろうもの)である。」(かっこ内は筆者の補足)

 

 ここの「神の子」とはキリスト教の意味の神ではなく、「大自然の一部」という意味だろう。梵我一如の境地か。目前に在ると思われるもの、五感により知りうるものはすべて現象のみである。現象は一時的・表層的な「移ろうもの」である(無常)。その現象を通して、その背後にある「もと(真実)」を見抜くことの大切さを強調する半田の思想は、自然科学の精神、目的、方法に通ずる。

 

  「見えない世界」 昭和41.8.6:

  目に見えるのは現象である。それは本当の姿ではない。それをとらえて、(本当のも のと)思ってはならぬのである。その現象を見てもとを知るのでなければならない。現 象に心をわずらわし、労することのおろかしさ、それは短い現世だけで生きることであ る。

  未来永劫観において、確たる自覚、開眼、目覚めを持つ、それが超越した構えである。 現世を越えた未来永劫の世界、それは輪廻であるか。それは無色の世界か。

  碁の本質は調和である。流れる水にしたがう態度である。彼我の事態の現実に処して いく心である。

 

 現象ではなくその背後にある本質を捉えよという発想は西欧的思想である。ここにも西洋と東洋の折衷がみられる。

 

自然科学は自然自体の自己反映活動

 人類は自然の一部であるから、自然科学も自然の活動の中に含まれる。したがって、  「自然科学は自然自体が人類を通して自らを解明する自己反映(認識)活動」ということになる。それは自然自体が自らの姿を、自らの鏡に映し出しているようなものである。すると、自然科学の理論は、自然が自分自身のことについて述べる自己言及型の論理となる。

 自然科学の不完全性:ゲーデルの不完全性定理

 このような自己言及型の論理は、ゲーデルの不完全性定理により、必然的に不完全な体系にならざるをえない。この定理によれば、無矛盾な自己言及型の理論体系には、有限回の論理操作(アルゴリズム)で真偽を決定できない命題や証明不能な命題が存在する。

 そこで、その決定不能命題の真偽が決定できるように、新たな命題(仮説)を付け加えても、その論理体系が無矛盾である限りまた次ぎに決定不能命題が現れるので、永久に不完全性は付きまとうことになる。[]

 また、この定理の系として、「無矛盾な論理体系の無矛盾性をその体系内で証明することはできない」という結論や、「自らの完全性をその体系内で証明できない」といったことが導かれる。すなわち、無矛盾な論理体系は、自らの無矛盾性や自らの完全性を自力で示すことができないという意味で、自己完結的な体系ではないということである。

 それゆえ、自然科学の理論体系が完全であることを、その科学の理論体系の中で証明することはできない。だから、理論の真偽を決定するには実験観察により自然に問いかけねばならない。科学理論は不完全で、自己完結的な完全理論を築くことは永久に不可能である。したがって、自然科学は永遠に回答不可能な問題を内包し、その解決のために進歩し続けるが、完結することはない。自然自体は完全かつ自己完結的な系であり、究極理論が存在したとしてもである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[注]ゲーデルの不完全性定理とは:

 この定理は、無矛盾な論理体系は真偽を決定できない命題や証明不可能な命題(自己言及型の命題)がそのなかに存在する、というものである。したがって、無矛盾な論理体系(厳密には一階の述語論理の体系)は原理的に不完全であると言うわけである。 

 この自己言及型の論理の矛盾に気付かせる元になったのは、昔から知られている「嘘つきパラドックス」である。その簡単な例は「私は嘘つきである」というものである。この人は正直者か嘘つきか?この人が嘘つきと仮定すればこの言明そのものが嘘となるから矛盾するし、正直者としてもこの言明と矛盾する。このように、自分自身に対する否定的言明にはどちらとも決定不可能なものがある。

 ゲーデルの不完全性定理によると、このように無矛盾な自己言及型の理論体系には、有限回の論理操作では真偽を決定できない命題や証明不能な命題が存在する。

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囲碁理論は自己言及型ではない

 囲碁理論の追求も、数学や自然科学などと同様に人類の営みの一つであり、その論理や規則は人類発生以前にこの宇宙に仕込まれた形相(フォーム)の一つである(形相については後述)。しかし、自然科学と違い自己言及型の論理ではない。なぜならば、自然科学は自然自体を探究の対象としているが、囲碁理論は、人間が定めた囲碁のルールと勝敗を問題としているからである。したがって、人間が外から囲碁を対象化して考察する立場にある。(それは近代科学が自然対象化して外部から自然を認識した立場と同じである。)もう一つ重要なことは、自然現象(事象)とその解釈法は無限に存在しうるのに対して、囲碁ゲームでは石の配置と手順の可能な数(可能な全対局数)はそれがいかに多くとも有限であるということである。この数は有限だから、すべての対局パターンを並べ尽くすことは原理的には可能である。自然科学とのこの差異は囲碁理論の性格を考察する上で重要である。

 すでに述べたように、人類にはその対局数は事実上無限であるから、並べ尽くすことは不可能であるが論理的にはこういうことになる。

 

完全な囲碁理論は存在しうる

 すると、有限回の操作で、すべてのパターンを尽くすことができるのだから、勝敗は必ず見極めることが出来る。また、もし囲碁規約に不備があって勝敗を決することができない場合は(たとえば、3コウが生じた場合)、規約の不備を修正して勝敗を決する(真偽を決定する)ようにすることもできる。そのようなすべての規約の不備を洗い出すこともできるし、その理論的解析と規約の改良は有限回の操作で済む。[]

 それゆえ、必勝法も存在するであろう(先手必勝とは限らないが)、そして同時に、妥当なコミ数も決定されるはずである。そうなら、論理的には、初手から勝敗は決まっているはずである(ただし、初手も一通りとは限らないだろう)。かくして、囲碁理論は、原理的ではあるが、完全なものが存在するはずである。

 囲碁理論の完全性とは、囲碁に関するすべての問題(最善手や詰め碁など)と疑問に答えたり説明したりできること、不備のない完全な規約を造りうること、そして必勝法を示しうることであろう。

 だが何遍も繰り返すが、人類の能力では完全な囲碁理論(規約と必勝法)を作ることはできないだろう。

 

 ちなみに、西欧人は、神が創造した自然はすべて理解できると思うように、まして人間の考案した囲碁(神の創造した自然に類似)は有限ステップで終わるから、囲碁理論は原理的に解明可能であると考えているであろう。だから、囲碁理論を完成させようと真剣に取り組み、新たな論理を追求している。近年欧米で熱心に行われるようになった囲碁ソフトの開発研究もその一環であると思われる。

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[]必勝法や完全な規約が存在し得るはずだということについて付言する。現在の日本棋院の規約では、たとえば、「隅の曲がり4目は死」と決められているが、これについて問題があることは指摘されている。他の所にセキがある場合など、単純に隅の曲がり4目は死と決めるには無理がある。盤全体を見ずに、局所だけでルールを決める局所主義には限界がある。その不備を補う方法もいくつか提案されている。 また、対局者が互いに譲らなければ3コウ無勝負と決められている。すると、3コウに持ち込めば引き分けになるから、必勝法は無いだろうとの疑問も出るだろう。しかし、3コウ無勝負を避けて、決着をつける規約を強いて作ることは可能である。さらに、規約を変えなくても、必勝法が存在するならば、3コウを意識的に避ける打ち方が必ず存在するはずである。これら囲碁ルールの不備や疑問点について、深く研究したものに関口晴利著『囲碁ルールの研究』がある。

 ゲームの必勝法の存在について、昔から次のような論理矛盾があるとの指摘がある。必勝法の理論を持った人に、その必勝法で別の人が挑戦すればどちらも勝てないから、必勝法は存在し得ないと。しかし、この論法には条件が抜けている。ここで言う囲碁の必勝法は、先手必勝か後手必勝か決まっていて、その手順も判っている。したがって、その必勝法をもって2人が勝負すれば、先手が勝つか後手が勝つかを両者は知っているから、勝敗は最初から決まっていることに納得する。それゆえ、この必勝法の存在には論理的矛盾はない。

 これ以外にもまだ問題はあるかも知れないが、それは人間の能力に限界があるせいであって、万能の神から見れば解決されているだろう。

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[4]成るべくして成る

 

「形相」(フォーム)

 この自然界の在りようを定めているもの、自然をそのものたらしめている本質をアリストテレスは、「形相」(フォーム)(eidos, form)であるとした。[]

 現代の自然科学的自然観からすれば、「形相」(フォーム)は人類が誕生してもしなくても、また人類が認識するしないにかかわらず、この自然界に存在するはずである(Penrose)。

  たとえば、数学の自然数や無理数、複素数、幾何学の公理、ピタゴラスの定理などは、人間が認識する以前に形相として自然界に内在していたという自然観がそれである。

 すると、数学の定理や自然法則は「人間の発明ではなく発見」であるということになる。そして、数学や自然科学は、意識的か偶然的か人類によって選択された一つの形相である。

 この立場では、地球以外の文明人(エイリアン)と交信するとき、最初に理解し通じる言語は数学的言語であろうと思われている。地球外文明が数学を作ったとすると、表現形式(たとえば10進法か12進法かの違い、幾何学の公理の選択など)は異なるとしても同じ論理構造のものを作るだろう。自然科学も、同じこの宇宙では論理構造の本質は同一となろう。

 ただし、すべて前もって決まっているわけではなく、人為的要素が入る余地が無いわけではない。数学や科学のどの課題を選択(発見)するか、そしてその順序や理論の構成法(表現形式)の違いはありうる。同じものを見ても、それを見る角度や見る者の状態により受け取り方は違うように、人間の進化の仕方に依存して表現形式が異なりうる。しかし、形相として存在しないものは発見できないし、発見したものの本質は人類でもエイリアンでも変わらないというわけである。

 この選択の自由度について、法橋登は「人類の脳に偶然あるいは意識的に選択されたフォームが現象である。現実の生命も、その進化の産物である脳も理論物理学も、選択された形相フォームの一つであるとすれば、理論物理学は脳の発明(必然)でも発見(偶然)でもなく、フォームとフォームの出会いと呼んだ方が自然である。」といった。(「日本物理学会誌」Vol.53.No1,1998 談話室)

 人類も宇宙の進化の結果生じた形相の一つであるから、「自然科学は人間という形相とこの宇宙という形相の出会いによって創発されたものである」というわけである。

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[注]形相(フォーム)は、もともと目に見える「形」を意味するギリシャ語eidosの訳語。それは一つの種類 の物事を他のものから区別する本質的な特徴のことである。アリストテレス以来、形相と質料(hyle, matter)とは相関的に用いられる。形相と質料の対立は、現実性・現実態(enerugeia)と可能性・可能態(dynamis)との対立である。形相は本質、種差などの言葉と同義語に用いられる。

 プラトンにおいては形相はイデア(idea)と同義語であり、唯一の真実在を意味する。物事をそのものたらしめる本質をさすという点で、アリストテレスと同じであるが、プラトンは、形相は感覚される個々の物事のうちに共通に存在するとともに、個々の物を超越してそれ自体だけで独立に存在するとした

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自然科学も囲碁も形相の一種

 上述のように、自然科学は自然界に存在する形相の一種として発見されたものと見なせる。この形相観によれば、囲碁(理論)も人類が創造したものではなく、自然界に囲碁ゲームの形相として存在していたものを発見したのだ、ということになるだろう。半田によれば囲碁理論の形相が囲碁における「天地の理」である。

 形相はすでに在るものの発見であるといっても、囲碁の形式は唯一ではなく変種はありうる。碁盤は19路盤である必要はなく、ルールも日本棋院規約や中国式ルールもある。しかし、ゲームとしての囲碁の本質(囲んだ石は取る、地を囲む;石の生き残りゲーム)は変わらない。そして、囲碁の手順の数は莫大なものでも有限である限り、最善手・必勝法は存在するはずである。

 

  エイリアンも何時かは囲碁を「発見」するだろう。もし、自ら発見する前に人間の囲碁を見れば、直ぐ理解できるだろう。囲碁は人間のするゲームの中で、最も論理的に理解しやすいゲームの一つと思われる。囲碁の別称として「烏鷺」、「欄柯」などいろいろあるが、なかでも「手談」は囲碁の性格を最も良く表している呼び名だろう。この名は、言葉を交わさなくとも交互に打つ着手を通して意志が互いに通じ合うというところからきている。エイリアンは言葉で理解する前に、囲碁を理解し得るだろう。

 囲碁の効用を表した「囲碁五得」というものがある。その中の一つに「得好友」がある。囲碁の対局を通して心が通じ合い好き友となる、まさに「手談」である。エイリアンも好き友となるであろう。

  

「自然論(じねんろん)」;「成るべくして成る」

 古代東洋の自然観の主流の中に、自然論(じねんろん)がある。この自然観は、自然界のすべての現象(運動変化、発展進化)は、そう「成るべくして成る」というものである。「ウリの木にナスビは成らぬ、ウリの木にはウリが成るようになっている」というわけである。それが自然の本来の姿、必然であり、そのように自然は出来ているのだと。古代の東洋思想では、こう達観して終いである。

 このような自然観には、「なぜそうなのか」を問う姿勢はないから、現象を定性的に理解するのみで、自然の仕組みについてその原理や法則をそれ以上深く追求することはない。それゆえ、近代的な自然法則の概念(現象の背後に貫徹している真理概念)は生まれないし、科学的探究精神は芽生えない。これが、東洋で近代科学が生まれなかった理由の一つである。

 西欧の自然観では、ギリシア以来、この「成るべくして成る」仕組みとその理由を問い続けた。特に中世以降、キリスト教の世界観は、絶対神の創生した自然の仕組みは完全で理路整然としている。そして、人間は、神の創造した自然の仕組みは理解できるものだと信じるようになった(12世紀にアヴェロイスに始まる二重真理説は、神学の真理とは別に自然学の真理があると説いた)。自然の仕組みを知ることは、神の意志を理解することであり、それによって神に近づきうると考えた。それゆえ、自然の仕組みを追求し続け、ついに必然的自然法則の概念に到達した。そして、自然に関する知識を理論的に体系化して近代科学を築いた。

 

 私は以前には、東洋の「自然論」は現象のみを見て「成るべきして成る」と達観し、その背後にある原理・法則(真理)について自然に問いかけることをしない、いわば思考停止、探究放棄の自然観であると思っていた。つまり、その負の面のみ見ていた。しかし、形相(フォーム)論の観点からすれば、この自然論は新たな視点から次のように理解することもできる。一旦、近代科学を手にし、自然の原理・法則を踏まえた上で自然現象を見るならば「成るべきして成る」の意味も変わってくる。旧来の東洋的自然論を乗り越えた「新自然論」、すなわち、現代科学的形相論との統一によって止揚(Aufheben)された「自然論」であるならば、物事はすべて自然法則に従って「成るべくして成る」のだと、自然現象が合理的に理解される。

 

 この「新自然論」を囲碁に当てはめてみるとこうなる。洗練された囲碁の理論と技術を十分マスターした上で、「天地の理」に照らした自然態で棋理に従うならば、名局は自ずから成るということである。

 半田は「名棋譜は造るものでなく自然に出来るものであるから、それにこだわることはないが、努力を重ねることがいかに大事か・・」と書いた。

 

大宇宙と小宇宙

 昔から洋の東西を問わず、自然と人間を大宇宙と小宇宙に対応させる自然観があった。

 両者は相互に反映し相って、自然と人体の内部構造も1対1に対応し、それぞれが自己発展している(相互依存)。この自然観は占星術の理論的基礎とされた。

 

 半田は「人間は半自然、小自然」であることを感じていた。人間は大自然のごとくではないが、自然であることに間違いなさそうだと。人間、小自然といえども法則に従って正しく天地の理を見て誤ず、気宇広くありたい、と願った。(昭和37年7月17日)

 

 碁盤上の世界も小自然と見なせる。棋士の様態(精神と頭脳の働き)と碁盤上の局面とは、大宇宙と小宇宙との1対1対応である。

  半田は「囲碁−人生−自然」を一体としてとらえ、それらを無理なく統一しようと努力し、格闘した。

 

「地球ガイア」

 大宇宙と小宇宙との対応、そして人間を「半自然」と見る半田の思想の延長線に「地球ガイア」観がある。地球を一つの有機体(生命体)と見る自然観が「地球ガイア仮説」である。

 

 「無言のふところ」昭和39.2.26.

  羽田を飛びたち、しばらく海や街が箱庭のように見えていたが、いつのまにか真白な 綿雲の上を飛んでいる。かなりの時を飛んで雲の切れ目にやって来た。そこからは晴れ ていた。

  黒みどりの山が見える。その間を帯のように一条の白い線が走っている。それにあっ ちこっちからの白い枝筋。僕には地球が一つの生体と見えた。人体の血管、細胞と同じように思える。なんとも言わず、休むことなく、生体をいとなんでいる。

  大きな無言のふところに僕らを抱擁してくれる。僕は大事なことを見た思いである。 僕らは目に見え、耳で聞こえるものに対してだけ意を用いがちであるが、偉大なる地上 に対して感謝の念なく、粗末に思いあつかうのは、父母を傷つけるに等しいのではない だろうか。

  また次のようにも言っている。

 「自然はほほえみ、(地球は)我が母胎である。忘れてはならぬ母胎の感触。大地は、 空は、空気はうまく、水はそそぎ、大海のごとく、深山のよう。我が母胎の感触、我が 無上の喜び、幸福である。」

 

 半田は空を飛んで地球ガイヤ説を実感している。非常に感性豊かで、感受性が高い。人工衛星の宇宙飛行士が「人生観が変わった」と感じたのと同じような心境を、彼もこのとき感じたのだろうか。このときに、改めて「天地の理」の存在を悟ったかも知れない。

 現代の地球環境の破壊を知ったら、半田はさぞ嘆くであろう。

 

 囲碁は何手も先まで読むので論理的思考力をつけるが、同時に構想力や全体的判断力を必要とし感性を養うと言われる。つまり、左脳(計算、論理)と右脳(感性)の働きをよくするという。囲碁の強い人は感性豊かな人が多いようである。遅くから囲碁を始めたにもかかわらず、半田は40歳を過ぎてから天下を争う域に達した。才能ばかりでなく感性も非常に豊かであったことがうかがえる。

 この点は、自然科学の場合も同様である。新しい着想や仮説の発見は豊かな感性と直感力が必要である。科学の学習も研究も論理思考だけでは駄目で、感性豊かでないと想像力に乏しく正しい自然認識はできないからである。 

 

[5]宇宙の自己実現

 

宇宙の自己発展・進化

 宇宙は、枠組みとしての時間・空間と、その中身である物質とからなる体系(システム)である。物質のみでは存在し得ず、時間・空間と物質の両者があって宇宙は成り立つ。宇宙の「宇」は天地四方の空間を、「宙」は時間をさす。また、コスモス(cosmos)は秩序と調和をもつ自然界を意味する。

 

 時間・空間の構造と物質間の相互作用の性質(能動性)、すなわち運動・変化の自然法則は、宇宙の創成期に決まっていた。すると、宇宙の発展・進化の基本的方向(形相)は、このときすでにその中に埋め込まれていたことになる。

 電子や核子の質量(m)・電荷(e)、重力定数(G)、光速度(c)、作用量子(h)など、宇宙の構造とその発展の方向を定める基本的物理量は、この宇宙ではそれぞれ一定値に決まっているが、それらの値は、この宇宙創成期におけるビッグバンの時の条件によって、そうなるように仕込まれたわけである。一旦、時間・空間と物質の存在条件および運動法則が、自然法則として仕込まれてしまえば、宇宙の発展・進化の方向と物事の形相は、自ずと決まっていることになる(自然論じねんろん)。もしそうなら、絶対的決定論(運命論)になる。だが、必ずしもそうはなってない。

 

宇宙は唯一つとは限らない:多宇宙論

 自然界に存在する宇宙は、私たちの属する宇宙ばかりでなく、他にその構造や進化の様相が異なる宇宙が無数に存在している可能性がある。これを多宇宙論という。[]

 

 囲碁も、あたかもビッグバン以後物質が次々に生成され膨張する宇宙のように、碁盤上に石のない無の世界から、一手ごとに発展・進化していく。

 囲碁も対局ごとに手順も配石も異なる様相をとり、どれ一つとして同一のパターンはない。一つ一つの対局によって繰り広げられる碁盤上の石の世界は、一つ一つ異なる宇宙に対応するとみなせるだろう。

 

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[注]多宇宙論:

 この宇宙は、極微小の領域における量子的揺動によって発生した微少の泡のようなものが、ビッグバンを経て膨張し続けた結果誕生したものである。この微少泡の発生はただ一つではなく、無数に出来たり消えたりしていると考えられている。そうなら、この宇宙は唯一の存在ではなく、他にも無数にある宇宙の中の一つと言うことになる。これが多宇宙論である。

 初期の微少泡の出来たときの条件によって、基本的物理量が異なり、それぞれの宇宙の構造や進化の仕方が異なるわけである。 したがって、初期条件の異なる無限に可能な宇宙の状態のなかから、一つの可能性としてこの宇宙は存在していると推測できる。たとえば基本的物理量である光速度c、作用量子h(プランク定数)、重力定数Gなどの値は、この宇宙と同じ唯一絶対的なものではなく、無限に採りうる可能性の一つに過ぎず、たまたまこの宇宙では現在の値に決まったと見ることもできるわけである。そして、c,h,G、mなどの値がこの宇宙とは異なる宇宙では、その構造や進化の様相(形相)は一変し、そこでは人類はおろか生物の誕生すら不可能であろう。また、Gの値が大きすぎると、宇宙膨張が途中で止まって収縮してしまうであろう。したがって、この宇宙はこれら諸条件の微妙なバランスの上に成り立っており、人類が誕生するにはこの宇宙のように非常にうまい組み合わせが必要なのである。

 この思考法は、自然界のすべての事物を変化と多様性のうちに見ることで、無限の「可能態」のなかで、いかにして「現実態」(この宇宙)が発生したか、つまり普遍と特殊の関係を明らかにし、認識する弁証法的思考といえるであろう。

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自然自体の創発により自己実現に向かう

 物質には秩序形成の資質、すなわち自己組織化、自己発展の能力が備わっている。宇宙全体をはじめとして、その構成要素である物質の発展・進化は外からの超自然(神)的な作用に依るものでなく、諸物質間の相互作用による自己発展である。前述のように、現代宇宙論によれば、宇宙はビッグバン以後、物質と時間・空間のつくる一つの能動的体系(システム)として、それ自体に具わった内部相互作用によって自己運動を行い、今日の状態にまで進化してきた。

 宇宙のこの発展・進化は、宇宙自体の中に埋め込まれた能動性によって、次の状態に発展す・進化る道を自らの内に創り出しつつ進む現象、すなわち「創発(emergence)」の現象である。それは、いわば自然にとっての「自己実現」の過程とみなせる。生物の発生や人類の出現も全てその結果であるから、人類の知的活動である科学・技術も、自然の自己実現の過程の一つとみなされるだろう。[]

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[注] だからといって、この自然観は目的論に直結するものではない。それについては、改めて吟味が必要である。いづれにせよ、宇宙自体の進化や、物質の自己組織化とその進化を対象とする科学は、自然を内部から認識する方法、つまり「自然の自己反映(認識)」という観点が必要であろう。(近代科学の方法は、人類が自然の外に立ち、自然を対象化して認識するものであった。)

 「自然自体の自己反映(認識)」といっても、「自然の超意識」の存在を必ずしも意味するものではない。しかし、もし、自然(あるいは、宇宙)に「超意識」のようなものがあるならば、その自己実現にはある種の「目的」が存在する可能性も否定できない。たとえそうであっても、その「目的」は自然自体、あるいは宇宙の創発性の結果であって、超自然的なものによって与えられたものではない。それゆえ、それは宇宙の発生期に初期条件として物質・時空と自然法則の中に組み込まれていて、「目的」の本質的方向はそれによって規定されているはずである。だが、そのような「目的」が存在したとしても、自然の一部である人類はそれを完全に認識し得ないだろう。なぜならば、これも自己言及型の論理なので、ゲーデルの不完全性定理が適応されるからである。

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 創発現象は予測できない 

 自然法則や初期条件が決まっていても、自然界ではなにが創発されるかを理論的に予測することはできない。発展過程で新たに造り出された状態によって、その次に創発される現象は異なりうるからである。

 創発の機構は、後から理論的に説明はできるが、何が創発されるかを事前に予測することはできないと言われている(何時どの方向に進化するかを予言できないから、これは正しいだろう)。たとえば、生物進化で、ある種の生物が将来どのような進化を遂げるかを前もって理論的に予測はできない。後からならば、その進化の過程を辿ることによって、なぜそのように進化したかの説明ができるだけである。[]

 宇宙進化も同様に進化過程でガス体の中に生ずる僅かなゆらぎ(量子的ゆらぎなど)によって、宇宙構造はかなり変わる(たとえば、銀河の大きさの違い、星の出来方)。したがって、宇宙創生期に刷り込まれた法則と初期条件で、その後の進化が完全に決まるわけではない。(近代科学の必然的決定論は否定される。)それゆえ、自然の「形相」も宇宙初期にすべて完全にすり込まれているわけではなく、進化の過程で創発されるだろう。

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[]生物における創発の例として、たとえば、生物個体の発生をとろう。受精卵子から個体が発生するとき、遺伝情報は基本的にはDNAに刷り込まれた一次情報に従って進行する。細胞分裂では常に同じDNAを持った二つの細胞が造られるにもかかわらず、発生の成長過程でそれら新細胞は異なる組織に分化して行く。異る組織への分化が起こりうるのは、細胞分裂によって細胞数が増えていくと、内部と表面など場所の違いや重力効果により二次的効果が生じて、少しずつ異なる細胞に分裂するからである。この分化は、細胞の配置に応じて、それぞれの細胞のDNA(同一個体ではどの細胞でもすべて同じ)のうち、特定の遺伝子部分が活性化されることで、その特定の遺伝情報が発現されるためだと考えられている。このように個体発生過程の2次効果によって新たな情報が創発される。生物進化も創発現象の一種である。

 このことは個体の発生過程で、DNAには含まれていない高次情報が、細胞の配置や環境からの影響によって、二次・三次と次々に創発されていることを示している。

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囲碁における創発 

 囲碁ゲームは碁盤上に無から繰り広げられる「宇宙構築」のゲームであり、ルール(自然法則に当たる)は決められている。そのルールに従って勝利を目指して着手は進められる。一手ごとに新たな局面が現れ、その状況に応じて次の着手が創造されるのは、対局者を経た創発であり自己発展である。対局者が予め想定した構想通り、局面が進められることはまずない。

 対局者は常に最善手を打つべく努力し、名局の実現を目指して打つ。それゆえ、対局者個人にとっては、それは最善の終局を目指す自己実現の過程である。一寸した心のゆれで着手が僅かにずれることもある(着手のゆらぎ)。その小さなずれはそれ以後の展開に大きく影響することもある。それゆえ、序盤からゲーム結果を予測することは不可能である(カオス的現象という)。

 

 既存の囲碁ルールで勝敗が判定できない不測の事態が発生(発見)したら、ルールを修正して完全なものにするが、これは囲碁の進化における創発現象と見ることもできよう。そして、よりよい規約を求め、完全な囲碁規約と囲碁理論を目指して前進することは、囲碁の世界にとっては自己実現の過程といえるだろう。

  しかし前述のように、自然科学と違い、囲碁ゲームの全対局数は原理的には有限であるから、完全規約は存在するだろう。それゆえ、全能の神から見れば、それら不測の事態は論理的に予測可能であり、不測の事態でも創発でもない。しかし、人間には実質上無限であるから予測不可能であり、創発といえるであろう。

 

 半田はベストを目指す自己実現としてこう言っている。最善手は天地の理にしたがえば自ずから成る。「勝負を離れて名棋譜を残す。そこに棋士の使命がある。名棋譜は造るものでなく自然に出来るものであるから、それにこだわることはないが、努力を重ねることがいかに大事か。(「神の心を犯した」より)。」

 

[6]相互規定の原理:存在の理法

 

宇宙も囲碁も相互規定的体系

 自然はそれを構成する基本的要素が、その存在様式と運動法則について、相互に他を規定しつつ自己発展している。

 宇宙は時間・空間という枠組み(容れ物)と物質(中味)が、相互に依存しつつ存在形態と進化の方向を自ら決定する体系である。すなわち、容れ物と中身が相互規定的なシステムとして自己発展している。[]

 すべてのもの(現象)はその構成要素の相互作用により、作用と反作用の関係で相互規定しつつ存在し運動しているわけである。 

 自然の基本構造と原理法則が、相互規定によって律せられているから、人間社会もそれに従う。自然科学は自然と人類の相互交流の中で生まれ、発展進化する知的体系である。

 ゲームも同様であり、特に、囲碁は二人でやる構築型のゲームであるから、一層その特徴が顕著である。 

 囲碁は「手談」であり、2人の対局者が相互に応答しながら、相手の出方(着手)に依存してこちらの次の着手が決まる。囲碁ゲームは、相互依存的に自己発展するシステムである。盤上に一つの石もない無の状態から、一つの世界を二人の共同作業で構築していく。だから、対局者と盤面は一つの世界を作る。

 対局では相手がいなければこちらも存在せず、互いに相手の着手に規定されて進行する。

よくいわれるように、相手の存在を忘れて盤上に没入するという場合でも、相手との共同作業で盤面の世界は動いていく。半田もこう言った「読めぬということはないのである。第一ものごとは先さきと読んでするものではない。その時々、その場その場でひらめく反射であり、正しい認識であり、正法である。受け止める僕の姿勢こそ問題である。」

 

「碁がわからない」(昭和39.1.19)より抜粋:

  古碁、秀策を並べているうちに、ふと思った。一体自分はどういう心で碁を打っているのか。

  一般には個性がはっきり打ち出されているのが良いといわれる。個性というのは自分 である。自分を打ち出して強ければもちろん良いのにきまっている。しかし自分を打ち 出すということは人の心を認めないということにもなる。自分本位の名作となる。碁に おいて、相対性において、自分の意のとおりになにごともなるようになれば、まさに人 間として不可能な神技である。ために道の最高に神技と冠せられる、果たして自分たち が最高のレベルなのかと思えば、慄然とする。

  絵とか書とかのように一人ですることでなく、相手があって、共にベストを尽くし、 心力、体力のあらんかぎり、生命をかけて相争うのである。それは一種の宿命である。

  僕はどういう心で対せばよいのであろうか。碁、三百六十一路をどう考えてよいので あろうか。囲碁は地の多い方が勝ちであるが、地をどういうふうに取ればよいのか、地 を取るべき心で体すべきか。碁というものはそれほど簡単なもの、単なる競技であろう か。もし簡単な競技なら、何十年とこの道に研究、務めていてその実体を知りえない今 日の自分はなんなのであろうか。

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[注]宇宙体系の時間・空間とその中身の物質とは、互いにその存在と運動の仕方を規定しあっている一つのシステムである。一般相対性理論により、中身の物質は容れものである時空の構造を決定し、同時に、時空の歪みは重力分布を表すから物質の運動を規定する。このように、時空と物質は互いに持 ちつ持たれつしつつ自己運動をしている。

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自己実現:形相(フォーム)の発現

  宇宙進化の過程は、宇宙に仕込まれている形相の発現によって究極的には自然自体の自己実現の過程である。それは古典的な目的論的自然観ではない。その発展の方向は、自然(宇宙)の自己発展進化の過程で、そのものの中に次々に創発されていくものである。

  宇宙の中で人類が発生したのも、その人類が囲碁を始めたのも、形相の発現の結果であり、宇宙にとっては自己実現の一過程である。自己実現の究極(目標)は、たとえ存在したとしても、人類には分からない。なぜならば、その目標の存在と実体に関する問いは、自己言及型の論理であるから。

 

 囲碁ゲームの進行過程は、ゲームを完成させるための対局者の自己実現の過程である。 人間は「完全ゲーム(最高の名局)」を目指して努力するが、何が最善で完全か永久に分からないだろう。だから、永遠に努力する価値がある。

 

 「哲学なる碁」昭和37.9.3.

  真実を見定めることは崇高にして得難きものである。我ここにおいて、碁を、哲学を 論ずる。笑うものには笑わせておく。碁を知らない者には知れない、いや世の中を知ら ない者にはわからない。

  どうしてか、理なきところに妙はない。すべて天地の法則にかなって、白と黒が盤上 に宇宙の原理を教え知らせてくれる。感銘きわまりなきものである。たのしきかな碁で ある。

 

「神の意を認知した」

  半田はそう言いながらも、碁の奥義、天地の理を極めようともがき、起きては転び、転んでは起きつつ模索した。

 

 「神の心を犯した」 (昭和38.7.8)より抜粋:

  一番恐ろしい欠点は、思いつくとすぐ打つ、これである。鋭い頭ではない。読み不足 で、後で気のつく方なのに、そんな癖を出しがちである。手どころでは慎むべきである。 洋洋たるところではまたどうにでもなるが、手どころではなかなかそうは行かない。読みの裏付け、確かめを充分にすることである。二度三度、そして打つ前にまた確かめて打つこと・・。(そうでないと天理=神の心を犯すことになる。)

  僕はこれまでも手どころは実に不安であり、無理がある。また必要以上に恐れたり、 いうなれば心が定まっていないのである。囲碁の天理に目覚め、天理において着手を定めることである。自然にまかす心でないと進歩がない。進歩がなければ無意味である。

  天理(自然心)を信じ、十九路の石の心である。形にとらわれるのは僕の悪癖である。自己の信念において試みたいこと、やるべきと思うことは、天の理なれば好む好まぬでなくやるべきである。道はその中にある。(すでに天の理を感じたのか?)

  

 「神の意を認知した」(昭和38.10.9)より抜粋:

  神の子の意をこのたび思う。世の中はとても我らの予測出来がたいものである。ただ 一筋に心力をもって生命の炎を燃やしてベストを尽くす以外にない。実に勝敗はそこに 起こる自然の現象である。しかし、ただ傍観して得られるものではない。もっとも自然に適す、神の子である自覚を深めることである。

  自分で自然だと、神の意だと思っても、実際はさからっている人間の心である。恐れ とか、不安とか、読み不足とか、怠惰とかによって、味ある、生命力のある手がはっきりわからない。石の理はこうだというところがあるはずである。

  我等は実に神の意によって生活している、ということをつくづく知った。自分は神と 共である。自分一人と思うなよ。

  昭和38年10月9日、神の意なるもの、世の中はそうであるということを認知した。 心力を初めて揮毫した。自分を捨て、悪くなってからの僕のファイトのものすごさは我ながら驚きである。坂田ほどの者を相手にしてである。(坂田栄男との十段戦)

    人はいろいろにいう。神はなにもいわない。しかし、善悪ははっきりとつけてくれる。 それが神である。

 

 自然もやはり何もいわない。自然法則に則して動き結果を出す。それが「成るようにしてなる」であろう。人はそれをいろいろ解釈し、理論をつくる。

 ここで半田のいう「神の意」は具体的に何を指すのか抽象的でよく分からないところがある。「天地の理」以外にプラス何かあるのかも知れぬ。「神の子」とは天理に従順な心で行動出来る人、「意志するところが宇宙の運行と寸分の齟齬」もない人のことか?

 これ以前の昭和37.10.8.には「ひとりぼっち」で、「孤独を楽しむことが人生最大の幸福なのである。それはなかなかできるものではなく、自分はまだそこまでいっていない」とも書いている。最早一人ではない神と共にあると、この1年で悟ったようである。

 

「囲わず、守らず、攻めず」 の三法

 半田は精神的な苦闘の末に「神の意を認知し」、遂にこだわりを捨てた自然心、無心に達したと見える。それが「囲わず、守らず、攻めず」の三法であろう。この三法に「天地の理」の境地を見出したのか。

 

 「囲わず、守らず、攻めず」   昭和40年11.13.

 僕は目下修行中なり。大家然たることなく、表に出たい心起こすべからず。我の心生  じれば広大無辺の心滅す。ものにこだわれば自然の心を失う。自然とは我もなく、また人もなく、物事に平然としていっさいを思わず、こだわらず、無に帰する心である。物にこだわれば自然の心を失う。修業とは心の安定を得るもの、迷わぬこと、乱れぬことである。

 

 三法とは

  碁は囲わず、守らず、攻めずを三法とする。知、動作、心を三法となす。恐れず、侮 らず、怠けずが三法。貪らず、焦らず、踊らずが三法である。

 その一石が囲いともなり、守りともなり、攻めともなるなどが働き、活用であって、そ のいずれにも属さない境地が求められることはいうまでもない。そうして彼我競うおり、 摩擦が起きる場合に、大事なのはその心身の柔軟さである。

 

  囲わず、守らず、攻めずとはどうであるか。囲わずとは地域である。守らずとは我が 石である。攻めずとは相手の石である。相手に散石があるとする。それが我が方の布石に迫る時どうあるべきか。地を守るべくそれを受ければ、かえって乗じられて、散石を勢力として活用される。また、一たび受けると相手を堅め留ことになる。散兵を攻める か、それは我が方の地域を蹂躙される憂いがある。実にそのおりがむずかしいのである。囲うはぬるく、攻めは早計となる。攻める場合はそれだけの覚悟が必要である。死に物狂いの相手は恐ろしい。攻めて、うまく逃げてくれればいいが、そうとは限らない。そのための備えがなければ石は攻めるべからず、攻める場合は時期である。

  囲うはぬるし。石の活用はそれのみでは効力薄しである。攻める石はさわらぬこと、 しかしまた重くしておくことも大事である。そうでないと捨てられる。常に次への準備工作である。

  準備工作に石の働きがないと相手は逃げてもくれないし、かえって乗じられるのであ る。石の活用こそ、囲わず、守らず、攻めずの三法、大盤石の境である。確信をもって打つべし。

 

 「ほしければ取れよ」(昭和38.11.22)より抜粋:

  小さいところを争わず、大所に立って寛容の心で対すべきである。ああかわいいやつ よ、その石がほしいか、地がほしいか。ほしければ取れよ、そんなものは、やがては石ころである。真に大事な宝は心であるぞ。

 

苑田の「攻めず守らず」

 半田道玄の囲碁哲学の精神を受け継ぎ、それを判りやすく解説し、さらに敷衍したのは関西棋院の苑田勇一九段である。囲碁雑誌「囲碁梁山泊」に連載の「神がかり講座−攻めず守らず」には、半田の囲碁観と自然観が感じ取れる。彼は「武宮の東の宇宙流に対して、苑田は西の宇宙流」ともいわれる。しかし、苑田自身は、武宮の宇宙流とは一味違う独自の囲碁観と論理をもっていると思っているようだ。半田囲碁哲学がその基礎にあるからだろう、武宮とは異なる意味のロマンのある苑田流は、「自然流」とでもいえるだろう。素人の私にもそう思える。この「神がかり講座」は、半田の三法「囲わず、守らず、攻めず」の精神を詳細かつ具体的にアマチュアにも分かりやすく解説してくれている。曰く「活きている石の近くは小さい」、「美人は追わず(弱い石を追いかけるな)」などはそのエッセンスである。

 

  囲碁理論の二面性:弁証法的性格

 囲碁は相手よりも大きな地を囲うゲームである。そのために、自分の石が取られないように守り、相手の石を攻めて取るのが、囲碁のルールに適う通常の方法である。それを敢えて否定し、棋理とは逆の発想がこの半田の三法である。これは一種の背理法である。

 囲碁の理論には複雑で二面性がある。それゆえ、弁証法的な発想がよく用いられる。

 私なりの理解では、囲碁の二面性に、「右を打とうと思えば左を打て」、「厚みを囲うな」、というのがある。「厚みの近くを避けて反対方向に打て」などと合わせると、そのエッセンスは「可能性の大きい新天地に向え」、「二面性のうちの一方に偏らず、中庸をいけ」そうすれば自由度があるから、どちらにも転身が効くということであろう。また、「攻めず、守らず」ということは、その裏を返してみれば囲碁の論理の二面性からして「間接的な守りと攻め」になっているように思える。また、半田の三法は、彼の説明からも判るように、自陣を安定させる意味もあるだろう。したがって、この打ち方ができれば、盤上の石の連関が自然に見えるだろう。

  囲碁論理の一つの特徴である石の働きの二面性は、たとえば、部分に囚われると全体を見失う、厚くすると全体に遅れるし、そうかといって先に走ると薄くなる、地に辛ければ勢力を張られる。また、少ない石数で効率よく地を取るのは隅や辺が有利であるが、隅や辺に寄り過ぎると萎縮して閉じ込められてしまう、などなど。これらの二面性は互いに背反的(ときには相補的)な関係にあって、一方を立てようと思うと他方が立たず、同時にバランスよく両立させるのは大変難しい。

 囲碁に限らず、物事にはすべて二面性があり、条件次第で良くも悪くもなる。格言にはその反対の意味のことを言っているものが多いのはそのためである。その中でも、囲碁の論理には二面的性格が強いようにみえる。その理由は、一手に含まれる自由度の最も多いゲームだからと思う。

 ここに囲碁の弁証法的な論理があるように思う。すなわち、最初まづ初心者の「広い地を取ろうとする単純直接的な打ち方」から、次の段階では「目的や意図と背反するかのごとき手」へ、そして「相補的な二面性を持つ手」を打つ段階へ進む。ところが、この「囲わず、攻めず、守らず」は、その背反性・二面性が統一止揚されて、矛盾ではなく自然に感じられる境地になることではなかろうか。もしそうなら、この進歩の段階は弁証法の「正−反−合」の過程であろう。このような理解の仕方が的を射ているかどうか分からないが、見当外れではないだろうと思う。

 

 囲碁理論のファジー性

 囲碁のもう一つの特徴は、その論理のファジー性(曖昧性、不確定性)である。囲碁は自由度の非常に高いゲームであるから、一手の着手には、攻める、守る、地を囲う、相手の地を消すなど、いろいろな働きが含まれている。それゆえ、一手の価値を明確に評価することはむずかしい。高段プロ棋士の間でもでも、着手の評価がしばしば分かれる。だから、着手の価値を数量化し、確定することは極めて困難である。むしろ評価の数値(評価関数)に幅を持たせたファジー論理、あるいは多値論理を採用すべきであろう。ここに囲碁のゲームソフトを作ることのむずかしさがある。

 

 こうしてみると、囲碁の持つ二面性からくる弁証法的論理と、高い自由度からくる多値性とファジー性を考慮すればなおさら、この「囲わず、守らず、攻めず」の三法は、無心・自然心に徹して肝を据えなければ打てるものではないだろう。

 

 「囲わず、守らず、攻めず」の三法といえども、相手がなく一人では実現できぬ。相手の状態、出方、受け方に依存する。こだわりを捨てた自然心・無心の状態でも、対局相手によって揺り動かされる。従って、この三法の内容も相手次第で変わる。

 それゆえ、囲碁の相互規定的性格は消えない。それも囲碁の本質(形相)である。

 

  「滾滾(こんこん)として尽きぬ心力」(昭和40.2.24)より抜粋:

   (十段戦5局目、対藤沢朋斉戦)初めまねられたおりに動揺した。まね碁についてう っかりしていた。今思えば、同じことを打ってくるのと別ので来るのとのちがいであっ て、形が同じであるからまちがえない、大勢を見るにも楽である。というだけで、その 内容に何らの変動もない。それは、そうした点、碁は相対的であるという認識によって 生まれた理論である。

  チャンスというものは我が方ばかりでなく、それがまた相手のチャンスともなる。そ れは応手の心である。駆け引きによる。彼の鋭さにまさる受けを案出する。それは大海 をのみほす精神力によって可能になる。彼にまさる精魂である。滾滾として尽きぬ心力 である。

  全智全能をふりしぼり、我が力だけにとどまらず、全宇宙の神、それは皆我が友な り、宇宙は正しいものである。一厘一毛も狂わぬように打って行けば宇宙にかなうので ある。宇宙は正しく、正しいものが真実である。

 

[7]カオス現象と囲碁:予想不可能

 

自然現象の場合:

 自然科学の理論は決定論的法則に従うから、初期状態が同じなら常に同じ結果を与えると思っている人が多い。しかし、因果律に従う決定論であっても、必ずしもそうではない場合が結構多くある。初期状態が極くわずか違うだけで、長時間後の結果は予想もつかぬほど変わったものになりうる。

 極端に表現すれば、初期の無限小のずれが、長時間後には無限大の違いに拡大される場合がある。これをカオス現象という。 そのような場合には、ほとんど同じ状態から出発しても、全く質的に異なる状態に達する。それゆえ、カオス現象の結果を予測することは、実際には不可能である。カオス現象のよい例は、不安定な気圧配置の時の天気予測である。

 

 囲碁におけるカオス

 囲碁ゲームは初手から終局まで、ほぼ300手前後で終局となるのが、前述のように、その手順・配石のパターンは10300 通り位はあるだろう。この変化を全て打ち尽くすことは人類にはできない。

 手順変化がこれほど多いので、序盤での一手の着手変化でその後の様相はがらっと変わってしまうことが多い。それゆえ、囲碁ゲームは、カオス現象と似たところがある。囲碁ゲームの進行過程と結果を、序盤の状態から終局まで予想することは不可能である。論理的には完全な囲碁理論は存在するが、人間が打つとなるとその理論通り進行するとは限らない。その完全な囲碁理論は人間には分からないから尚更である。したがって、カオス的進行をする囲碁の確率は自然科学の場合よりも多いだろう。

 初手、あるいは序盤の一手の変化、時には着点が一路ずれただけでも、その後の進行はすっかり変わることがある。前の着点の変化が後続手に及ぼす効果は、初級者にはそれほど強くないが、上級者になるほど影響が大きくなる。プロ棋士は、一路のずれにも非常に敏感に反応し変化する。それゆえ、囲碁ゲームにおけるカオス的現象は、上級者ほど多く生ずるといえるだろう。高段者ほど精神状態に影響されるといわれるからである。

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[]カオス的現象(バタフライ現象)

 ニュ−トン力学のように決定論的法則のもとでさえも、初期条件あるいは初期値が僅かに違った状態から出発しても、長時間後には大きく異なる結果(時には正反対の結果)に導かれる場合がありうる。また、僅小(無限小)の影響が次第に拡大されていって、ついには莫大な効果を生むこともありうる。そのことを誇張して、「ワシントン郊外の野で蝶の羽の一翔が不安定な気象条件の下ではメキシコ湾にハリケーンを発生させうる」という例えをする。これを「バタフライ現象」と呼ぶ。

 無限小の違いが無限大の異なる結果を生ずることをカオス現象という。

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クオリア(Qualia) 質感

 人間一人一人の考え方や感じ方は、それぞれ微妙に違う。色や音の感じ方をクオリア(質感)という。同じ赤色を見ても、その「赤色」を他の人はどう感受しているか厳密には分からない。同じ赤色のバラを見ても、美しいと思う感じ方は異なるであろう。東洋人と西洋人の色感は明らかに違う。色に限らず、抽象概念を表す言葉の意味を理解する仕方は、各人のそれまで蓄積してきた経験や知識により異なるであろう。

 先に触れたように、日本の囲碁界は、囲碁ゲームの勝負のみでなく形の美しさや品格にもこだわる傾向があり、いわゆる囲碁道として囲碁を追求してきた。ところが、中国や韓国は(あるいは西欧も)形よりもゲームに勝つための最善手、実利的な手を編み出すことに力を注いでいると言われている。

 最善手とは何か、それはゲームの必勝法の手と同じだろうか。形は美しく品格もり、しかも必勝法に繋がる着手なら最高であろう。それが最善手と呼ばれるのに相応しい。

 しかし、形の美しさとは何かということもまた問題である。景色や芸術品の美しさは人により多少(あるいは大いに)異なるように、囲碁の場合、石の形の美しさも人により違うであろう。事実、中国や韓国の実用的な新手、新定石を美しくないとは思わない人もいる。

 時代を超えて誰が見ても美しいもの、逆に醜いものはあるだろうが、滅多にあるものではない。多くのものは、人によって美醜の受け取り方が多少なりとも異なる。美的感覚は環境や時代により変わっていく。美人の標準的基準も、時代とともに変わってきた。

 日本古来からの美しい石の形が何時までも美しいとは限らないし、実戦的な新手・新定石が定着しそれに慣れるならば、何時かはそれを美しいと感ずるようになるかも知れない。これも質感にかかわる問題である。

 

 色や抽象概念について、自分の感じている質感を正確に表現し言葉で伝えることができない限り、他人も果たして自分と同じように感じ、そして認識しているかを厳密に知ることは出来ない。まして、他人の考えていることを忖度して、正確に当てることは不可能である。囲碁は「手談」であるとは言え、対局相手の考え方についても同様である。

 

 棋力が同じ一流棋士の間でも、具体的な着手の評価で微妙に分かれることがある。まして、実際に打たれず表に現れない思考を完全に忖度することなど不可能である。以上の意味で、囲碁におけるクオリアの分析も面白いだろう。

  

  最後に、 半田道玄の頭脳の中にあったイメージと一致したイメージを描くことは、たとえ棋力が同じ人でも不可能である。まして、私のような低い棋力では半田囲碁哲学を正確に理解することなどできない。私のこれまでの経験により蓄積された僅かな知識と能力の範囲で推理し想像するしかない。それゆえ、ここに述べたことは、的外れのことが多いかも知れない。忌憚なき批判と意見をお願いしたい。また、明らかな間違いが有れば、訂正していただければ幸いである。

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 参考文献

 1.斎藤謙明『囲碁断想−半田道玄の覚え書きから:天地の理にかなう』関西棋院    (平成2年)

 2.拙著『科学は自然をどう語ってきたか』ミネルヴァ書房(1999)、          『東の科学・西の科学』東方出版(1988)

 3.関口晴利著『囲碁ルールの研究』文芸社 (2007)

  4.季刊誌『囲碁梁山泊』関西社会人囲碁連盟

   「苑田勇一の神がかり講座−攻めず守らず」