11/19 更新 |
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◆ 天下人を魅了した日海上人
中国から渡来した囲碁は、鎌倉時代(1192〜1333)まで、二子ずつ対角の星に置き合って打ちはじめる。しかし中世から近世の時代の転換期である安土・桃山時代に日本の囲碁は、大改革期を迎えた。
この戦国時代から統一への時代、それまでの対角線事前配置の置き碁の手法を脱し第一着手から自由にどこを打ってもよい手法に変わる。これらのことは、日蓮宗の京都寂光寺の僧・日海上人に初めてみられたと言われている。
織田信長は日海上人に五子置いて一回も勝てなかったので「ああ名人哉」といったとあり、これが碁に名人という言葉ができた由来と言われている。
また、寂光寺二世となる日海上人は、若き日その搭頭(たっちゅう)「本因坊」に起居したことから、のちに寂光寺を隠居して本因坊算砂と改める。
日海上人は、織田信長から寵愛を受けたものと思われる。本能寺の変により、信長は憤死するのであるが、信長の死後、明智光秀が近畿を制圧していたとき、日海上人は、持仏堂にこもって信長、信忠父子の大法要を営んだ。これを明智光秀は、とがめることはなかった。
明智光秀を山崎の合戦で破った豊臣秀吉は天正13年(1585年)関白となった。
秀吉は碁を高尚な遊戯として、また兵家の作戦に役立つ道具として、自らも研鑽に励んだ。当時の高手を集めて碁会を開催し、優勝した日海上人を「碁所」に任じ、扶持を与えている。
秀吉の後、関ヶ原の合戦から4年めの慶長8年(1603年)2月徳川家康は征夷大将軍に任ぜられた。この年、日海上人は寂光寺を隠居して本因坊算砂と改め、家康から「碁所」を命じられた。信長・秀吉・家康の三人の棋力はほぼ同じレベルで、日海上人に五子局であったと言われている。三人の天下人は、日海上人を個人の趣味的、兵法的、文化的の保護などの理由から、寵愛し、重用した。 |
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