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◆ 明治・大正時代の碁会の苦節
江戸幕府の滅亡は、碁院四家の本因坊、井上、安井、林の各家の家元制度に崩壊をもたらした。
明治2年(1869年)四家は、東京府庁を通じて禄を打ちきる旨の通告を受けている。
日本は欧米の列強から生き抜くため、近代中央集権国家として政治、経済、司法、軍事、教育制度などを整備し、近代産業の育成など冨国強兵を推進した。それは、欧米の科学技術、制度、文化、文明など早期に摂取することであった。
しかし、日本古来〜の伝統分化である囲碁は、特に本因坊秀栄を中心として、碁院四家の筆頭本因坊家の法灯を守る精神と伝統が受け継がれていった。
一方、明治12年(1879年)、家元中心の碁界に対抗し、新しい時代に即した近代的な専門家組織の囲碁結社が誕生した。時の第一人者である村瀬秀甫を中心とした「方円社」である。方円社は近代的・合理的な手法で定式手合の開催、機関紙「囲棋新報」発行、アマチュア指導、従来と異なった独自の免状発行などの事業を行なった。
大正12年(1923)関東大震災の混沌とした社会情勢の中で碁界統一の気運が盛り上がった。大正13年(1924)、本因坊秀哉名人及び36名の棋士が参加し、大倉財閥の大倉喜七郎の援助を得て「日本棋院」が、創立された。それは、ほぼ方円社の事業を範とした。以後、碁界は日本棋院を中心に、戦後設立された関西棋院とともに発展していくのである。 |
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