11/19 更新  

◆ 激動の昭和史と新布石

昭和8年(1993年)木谷実と中国から来日した天才棋士呉清源の二人の青年棋士は、新しい布石法を研究した。
木谷が、新布石法を呉清源に提唱し、呉清源はそれに賛同したらしい。
同年10月、呉清源は本因坊秀哉名人と勝負碁を闘う権利を得たが、結果は2目負けであった。「三三・星・天元」と本因坊家では、考えられなかった三連発の新布石は、碁界に衝撃を与えた。翌年、昭和9年(1934年)木谷実、呉清源、安永一、共著「新布石法」を世にだしている。

江戸時代、本因坊道策、本因坊跡目秀策らが確立した布石は、黒先番の効力を保つため小目を中心とした布石である。
小目ガ中心であるから、碁盤の辺重視である。そのような思想、思考を根底からくつがえし、布石では決して打たれることがなかった三三・星・天元などが布石で打たれたのである。
新布石は、スピードを基調とした中央指向であり、布石の革命であった。木谷実・呉清源の新布石は、20世紀の昭和という時代感覚から生み出されたものであろう。昭和14年(1939年)本因坊秀哉名人の引退とともに秀哉名人は、
本因坊の名跡を毎日新聞社に譲り与え日本棋院に委ねた。
本因坊名跡争奪全日本囲碁選手権戦がはじまった。これが現在の本因坊戦のおこりになっている。

戦後の呉界は、本因坊戦は毎日新聞、名人戦は朝日新聞、棋聖戦は読売新聞、十段戦は産経新聞など各棋戦が新聞紙上に掲載され、さらに王座戦、NHK杯など新聞、テレビの棋戦時代となる。棋戦を制覇するスター棋士を生む時代ともなった。昭和40年代以降の碁界をリードした大多数の棋士は木谷実の内弟子達で木谷一門とよばれている。
戦後、碁界の特色として、多くの女流棋士が誕生し、活躍していることである。
そして、女流の選手権戦が多数創設された。女流選手権戦(東京タイムズ主催)女流本因坊戦(共同通信主催)、女流鶴戦(日本航空主催)、女流名人戦(夕刊フジ主催)などがある。
碁界のは囲碁人口一千万人といわれるほど空前のブームとなり、アマ棋戦も各新聞社で開催されるにいたった。さらに、教育界でも囲碁が取り入れられることになった。
学習指導要領が昭和48年の改訂にともない各学校で必修クラブが導入された。
この必修クラブに囲碁が取り入れられ各学校でクラブ、部活動などを通じ囲碁が小・中・高校生に打たれることになった。
特に高校生のアマ棋戦として昭和40年、(1965年)全国高等学校囲碁選手権大会が日本棋院によって開催された。そして、各府県に高等学校囲碁連盟が誕生し全国高等学校囲碁連盟が組織された。
さらに昭和60年代には全国高等文化連盟の専門部会として都道府県に囲碁部会が組織されていった。