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◆ 囲碁の発展は、平和の願い

 現在世界の55ヶ国で碁が打たれている。囲碁人口で判断するとアジア圏が最も盛んである。特に、日本、中国、韓国があげられよう。
日本の囲碁代表団が初めて訪中したのが昭和35年(1960年)。当時は日本側の方が対戦成績がまさっていた。しかし、回を重ねるうち「日本碁界のあらゆることを学ぶ」謙虚さ研究心により、昭和51年(1967年)中国代表は27勝24敗5持碁と初めて日本に勝ち越した。さらに昭和54年(1979年)第一世界アマ選手権で、中国聶衛平は初の世界アマチュア・ナンバーワンの栄誉に輝いた。
中国では、昭和57年(1982年)からプロ棋士制度「囲碁専従者」を採用しておりその活躍は目覚しい。

  韓国は、日本と同様に囲碁の歴史は古く、現代プロ棋士の制度が確立してからの活躍はすばらしい。日本で学んだ曹薫鉉、劉昌赫らの活躍によって一気に盛り上がり囲碁人口は500万人ともいわれ、全人口の15%ほどの囲碁ファンといわれている。子供のための囲碁教室が1000ヶ所もあるという。
一方、欧米に碁が紹介されたのは、明治14年(1881年)、当時円方社長の村瀬秀甫の指導を受けたo.コルシェルトがドイツに帰って「碁の理論と実戦」を出版、ドイツを中心としてヨーロッパに浸透、発展していった。

  北米の普及は戦前、福田正義五段(当時)の尽力があったが、本格的には第二次戦後に日本から棋士が派遣され、愛好者の囲碁クラブが増加した。さらに日本棋院棋士岩本薫九段の活躍があげられる。昭和20年8月6日午前8時15分B29エノラ・ゲイ号の落とした原子爆弾が広島市上空で炸裂した。その瞬時、第三期本因坊戦、橋本昭宇本因坊、挑戦者岩本薫七段(当時)の両者は広島市郊外五日市でも対局中であった。対局場(津脇勘市宅)は強烈な爆風に見舞われたが関係者に怪我がなく後片付け後、再開された。世にいう原爆対局である。

原爆対局を体験した岩本薫は、昭和34年(1959年)アメリカ旅行中、アメリカ人から「碁のような素晴らしいゲームを日本人はなぜ世界に広めようとしまいのか」と啓発された。世界に囲碁を広める決心をし、囲碁普及に尽力した。昭和56年(1981年)にM・レモンドが日本棋院の専門棋士として入段し、ファンの関心を呼び、囲碁界に異色を放った。
また、囲碁をオリンピックの正式競技・種目にと関係者の努力が行われています。