囲碁の歴史(参効資料及び略称、末尾)
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「小さな盤上で、一定のルールの下に交互に打ち進め、半目でも多い方が勝ち。」という単純な囲碁である。
しかし、人の考え方や環境によって、その戦い方が大幅に変わる。そんな「人の多様性」をテーマに、囲碁の歴史をみてゆきたい。
710 奈良時代 (710-794)
奈良時代後期の和歌を収めた万葉集に、「碁師」の歌が三首載っている。
当時、すでに囲碁を業としたプロがあらこちらへ指導の旅に出歩いていたこを示す和歌が歌われていたのである。(水口p60−61)
囲碁が現在のごとく「盤上の勝負」を意味するなら、それを業として生計が維持できるほどの環境であったのだろうか?人民の生活困窮をよそに、貴族文化はそれをなしえたのだろうか?
713 諸国へ風土記編纂の命くだる。
常陸風土記、出雲風土記に碁石浜の話あり。
この頃は既に多く囲碁が打たれていたことを示すものである。 しかし、囲碁の伝来ルートと時期については定かでない。
756 正倉院に聖武天皇御物が献納される。
第40代聖武天皇(在位673-686)の遺品のなかに碁盤、碁石、碁筒の遺品がある。
当時の囲碁が、どのような形式で打たれたかは議論が別れている。
即ち、中国・朝鮮・チベットで見られる事前置石法(星の部分に予め白黒の石を置いて、スタートする方法)か、自由布石法(はじめから自由な場所に交互に打って行く方法)か、両方の方法か、定かでない。
897 醍醐天皇(在位 897−930)
碁聖・寛連が醍醐帝に囲碁の礼法・戦術を著した碁式(棋書)を報じたと言われる(現存せず)。
この当時から碁聖の呼称があった。寛連は、専業棋士だったと思われる。(水口p109−120)
794 平安時代 (794-1192)
清少納言の枕草子、及び紫式部の源氏物語のなかに囲碁の描写が多くある。
平安朝の女流貴族に囲碁は流行していたようである。
清少納言も紫式部も有段の棋力だったのでは。(水口p116)
1261 関東新制、殺傷・賭博の禁止令、囲碁・将棋は例外
1261年鎌倉幕府執権北条重時の治世、蒙古が朝鮮を押さえ日本に攻め入る準備をしている頃、幕府は61ケ条の関東新制を制定し、地頭役の百姓への転化を禁止するなど、御家人・武士・庶民の綱紀粛正に努めた。
関東新制では、囲碁・将棋は例外とされていた。(平本p189)
1559 本因坊算砂(1559−1623)
本因坊算砂(日蓮宗僧日海)は、信長・秀吉・家康に仕えたと言われ、初代本因坊である。
本因坊という名称は、京都寂光寺の中にあった塔頭の一つの「本因坊」に日海が居住したことに始まる。(水口p130)
1582 本能寺の変、本能寺三コウの対局の逸話
中国毛利攻めの羽柴秀吉の援軍として、西へ向かうはずの明智光秀の軍1万3千は突如、方向を変え織田信長が宿する本能寺を急襲した。不意を討たれた信長は自刃した。
この時、信長に招かれた本因坊算砂と鹿塩利玄(不詳)の対局で、不吉な前兆である三コウができたという逸話がある。
1588 豊臣秀吉による扶持
1588年豊臣秀吉は、天下を平定し天皇を聚楽第に招き、その威信を天下に示し、又、「刀狩」を実施しその政権を安定させようとしていた。
秀吉は碁の名手たちを集めて御前試合を行わせた。
優勝者は本因坊算砂であり、囲碁の総元締めの御朱印状を得、毎年20石20人扶持を供せられた。以後、本因坊算砂は囲碁の第一人者となった。(中山p70)
1612 徳川家康による家元制度
天下を平定し将軍職を秀忠に委譲した徳川家康は、大御所として君臨していた。
1614年大阪冬の陣、1615年大阪夏の陣の起こる前である。
徳川家康は、豊臣秀吉の碁打衆の公認制度を踏襲し、本因坊、井上、安井、林の4人に俸禄の支給をした。
当時は、上手(7段)、準名人(8段)、名人(9段)とされ、名人は碁所となり家元4家の総元締めとされた。
以後、これらの家元が名人碁所の覇権を争う形で、囲碁が興隆する。
名人は一時代一人であり、名人の力があり名人のなれなかった本因坊元丈、安井仙知(知得)、井上因碩(幻庵)、本因坊秀和の4名手を囲碁四哲と呼び敬っている。(中山p70)
1645 本因坊道策(1645−1702)
碁聖の一人、「手割理論と近代碁の基礎確立」「段位制度の整備」「優秀な弟子育成」「元禄期の碁の盛隆」を行った。(水口p144)
1670 安井算哲の天元打ち
初めての和暦を作った渋川春海で知られる安井算哲は、若い頃から数学や天文、陰陽道を学んで暦法を研究し、中国の古い暦から新暦への改革を主張しました。道策に勝てなかった算哲は、秘策によって必ず勝つと豪語してお城碁で道策に対します。
秘策は、天文研究を応用した起手天元でした。 しかし、天元の是非以前に実力の差は歴然で、算哲は敗れました。(平本p230)
1778 史上初の女流棋士、横関伊保
横関伊保は、この年17歳で初段となる。 (水口p162)
1787 本因坊丈和(1787−1846)
碁聖の一人、「多くの弟子を育成」「天保期に第二次黄金時代の構築」を成し遂げている。(水口p145)
1829 本因坊跡目秀策(1829−1862)
碁聖の一人、本因坊を継ぐこと無く、江戸に流行したコレラのため若くして亡くなった(33歳)。
「秀策流の近代戦法」、「お城碁19連勝」等は有名である。
1835 赤星因徹7段、名人本因坊丈和と吐血の対局
1830年全国は大飢饉にみまわれ、民衆の生活は困難を極めた。
1837年には窮民救済を訴え陽明学者元与力大塩平八郎は、大阪で蜂起した。1835年(天保6年)将軍徳川家斉に時、老中松平周防守康任は家元四家による大碁会を催した。そこで、名人本因坊丈和の対戦相手として、井上家を代表し赤星因徹が臨んだ。
碁は大斜百変と呼ばれる超難解定石のねじ合いに始まったが、井上家門外不出の秘手の強襲が飛び出し、因徹の有望な形成だった。しかし、2日目の終盤、歴史に残る「丈和三妙手」が炸裂し、形勢は一転した。
そして4日目の激戦の中、因徹の上体がグラリとゆれ、スローモーションのように盤側に崩れ落ちると、そのまま昏倒してしまった。因徹は、脳溢血症を起こして吐血昏倒、遂に立たず。(中山p115−117)
1842 桑原秀策の耳赤の局
本位坊跡目桑原秀策は、井上家の総帥井上因碩に、「耳赤の一手」で局勢を逆転し、3目(秀策の先)勝ちとなる。
1868 明治維新
1871 家元の家禄廃止
明治政府は、廃藩置県、官制改革、秩禄処分等を実施してゆく。
この中で、囲碁の家元の家禄も廃止となった。 以後、囲碁は民間の事業として維持・発展せざるをえなくなった。
1874 本因坊秀哉(1874−1940)
木谷実との引退試合を最後に本因坊の名跡を日本棋院に譲った「最後の本因坊」である。
呉清源との本因坊秀哉還暦記念対局も有名である。
本因坊秀哉は、当時の囲碁界の権威であり、本人もその立場で発言・行動した。それと共に、本因坊秀哉名人は、卓抜した柔軟な考えを持ち、囲碁界の発展に貢献した。
1936年の打倒新布石の緒言に、「新布石法と言い、旧布石法と呼ぶも、予をして言わしむれば所詮は深淵高大なる棋道その物に外ならぬのである。。。実に棋道の真理は永遠不変でなければならない。
所詮新布石法の説く所なども、過去に於いて既に幾多の先哲に依り研究を重ねられた事であり、苟くも専門家として世に立つ程の者でそれを知らぬ訳は無いが、今日事新しくさうした事が唱道されると言ふのも、一つにはヂヤーナリズムとやらの力であろうと予は思って居る。」と言っている。
新布石法の考え方を決して新しいものではなく、永遠不変な棋道の真理の一環に過ぎないとしている。
それを肯定したとしても、次の三点での新布石法の功績は、見逃せない。
@新布石法は、実践されたということ。
専門家にとって既知の考えとしても新布石法を実践する勇気が無かった。
Aジャーナリズムをうまく利用したということ。
お城碁を打って、家元の権威を維持する時代ではなくなった。その新しい時代の変化への対応に、旧専門家は遅れていた。
B新布石法には、従来の考えには無かった考え方が、やはり「何か」存在するということ。私のような素人には分からないが、何かを感ずる。
「均衡理論」は、現代流にいえばバランス感覚であり、それは自然流に通ずる。 勿論、一言でいえば「石の働き」で済ますこともできようが。
1878 方円社創設
社長村瀬秀甫による囲碁結社・方円社が創立される。
1924 日本棋院創設
大正12年(1923年)の真昼の食事時、関東地方を襲った大地震は、出火をともない大震災となった(関東大震災)。これを契機に、各囲碁結社の対立を超えた大同団結が達成され、碁界合同棋院創設となった。
1933 本因坊秀哉還暦記念対局
呉清源、新布石法の考えによる三三、天元、星の布石にて対戦するが、敗れる。
1934
囲碁革命「新布石法」発行、木谷実、呉清源、安永一共著、平凡社
木谷実は、信州地獄谷温泉にて保養のため滞在した。
そこに新鋭・呉清源が訪れ、互いの囲碁観を戦わせ、「均衡理論」を基軸とする新布石法の発表となった。
本書の序に、「従来絶対的にまで価値づけられた統べての布石理論の基底を成している”隅のしまり”が、そうも局部的に偏していまいかと思われました。充分な働きを持つ為には偏る事は悪い。」といっている。
本書の説明は、「隅のしまりで2手を用いることを、よしとしない。」旨、言っているが、全体の趣旨は、全体バランスの重視である。
1934
坂田入段、大手合時間制に、坂田への長時間いじめ碁が原因
入段手合は、リーグ戦での上位2名が入段するという狭き門である。
昭和7年、藤沢庫之助(藤沢朋斎)が入段したが、坂田は逸した。必勝を期しての昭和8年の予選試合にて、時間制ではなかったリーグ戦の規則を悪用して、坂田の体力衰弱を狙う長時間いじめ碁が行われた。
結果、坂田はこの年も入段を逸した。
翌年、大手合・入段手合は時間制になり、無事、坂田も入段した。(鼓動p61−56)
1936 打倒新布石 村島諠紀・高橋重幸著
誠文堂新光社刊行
本書は、「新布石法」そのものへの批判というより、定石不要論というジャーナリズム的な煽動を批判したものである。この意味で、素人にとって、両書を読むことによって少しは、「新布石法」の意味が分かる気がする。
本書総説に、「従来の余りに型にはまりかけていた−という事は石の価値判断は地域を主とする考え方に依る方が解り易いので、その易きに就いていた伝統の安逸を、地域よりも働きの方をより重要に考えてそれが苦しい道であろうとも苦しんで真理を索めるのが求道者の義務であると警鐘をならした君等二人の功績は実に偉大なものがある。」と言っている。
武宮正毅は、「最初の数手はバランスを考え、あとは力戦、というのが”新布石”の一面である。」と言っている。(進化p76)
これは、新布石そのものの批判というより、その未発達を指摘していると見える。打倒新布石にて、実際の木谷・碁の打碁に対して同じようは批判をしている。
1938 本因坊秀哉名人引退碁
名人引退を決意した秀哉名人は、木谷実7段と半年15回に及ぶ長期戦を、病を引きずりながら行なった。
無敗の本因坊秀哉の1敗、コミなし、持ち時間40時間、半年15回に及ぶ戦いであった。
川端康成の小説「名人」に詳しい。 木谷実は大竹とされる以外は、実名である。
当時の「本因坊の権威」を中心線として、本因坊の権威をかざさぬ秀哉名人とそれでも本因坊の権威と戦わねばならぬ新鋭木谷の戦う姿が面白い。
「健康な秀哉名人と木谷実7段との、コミ碁7番勝負なら結果は?」と考えるのは意味が無いと自分に言い聞かせたい。囲碁は、その時の条件を前提に戦われる、「まったなし」の戦いだ。
1939
打碁撰集発行、第21世本因坊秀哉、誠文堂新光社刊行
本因坊秀哉の遺稿、素人向け初の本格的打碁解説書
本書凡例に、「打碁の細解若しくは解説の如きは近年になって見る事で、それも極めて簡単な専門的のもの留まって居りました。。。。。碁道の普及発達といふ事の為には是も止むを得ぬと今は考える者である。」と言っている。
本因坊秀哉名人の柔軟な考えに敬意を表したい。
碁道の普及発達のため本因坊の名跡を譲り、それを一般化し、ジャーナリズムも利用して自ら習得したものを広く伝える行動をし得たことを。
1940 本因坊秀哉死去
1941 第1期本因坊戦、関山利一6段(利仙)本因坊誕生
1943
第2期本因坊戦、橋本宇太郎(昭宇):関山利仙1−0、
関山病気のため棄権
1945
原爆下の局、第3期本因坊戦、岩本薫:橋本昭宇3−3
決勝戦3番勝負は2−0で岩本薫が獲得
まさに戦争の末期、5月には空襲で溜池の日本棋院が焼失。
焼け野原の東京を離れ、瀬越憲作8段の奔走でにより、広島で第3期本因坊戦7番勝負(6局までコミなし3日制)が行われた。第二局目は8月4日に始められた。
3日目の再開直後、8月6日午前8時15分、局面は106手目ぐらいの時、原爆が炸裂し、橋本昭宇本因坊は吹き飛ばされ庭にうずくまっていた。(平本p36)
戦争のさなか、世の中は米軍の空襲におびえる頃、本院防戦を行うという囲碁魂に驚く。
こういう情熱の基盤のうえに現在の碁界があるのだなーと感じる。
1947 第4期本因坊戦、岩本薫:木谷実 3−2
1949 日本棋院、初の9段
藤沢庫之助(後の朋斎)、大手合制度初の9段
1950 第5期本因坊戦、橋本宇太郎:岩本薫 4−0
1950 昭和25
関西棋院独立、本因坊昭宇(橋本宇太郎)会長
1951 第6期本因坊戦、橋本宇太郎:坂田栄男 4−3
橋本宇太郎対坂田栄男の本因坊戦は、本因坊昭宇を会長とする関西棋院対橋本宇太郎が反旗を翻した日本棋院の対決構図となったが、本因坊昭宇の1勝3敗のあと、大逆転で本因坊を維持した。
第6期本因坊戦第2戦では、主催新聞記者が坂田へ礼儀しらずとの暴言をはき、第3戦には林裕が坂田のボデイガードにつくという状況であった。
「坂田への入段いじめ作戦」といい、「記者の暴言」といい、異質な優れた人間は、なかなか受け入れてもらえない環境があるようだ。それは囲碁界に限ったことではないし、現在も続いている。
1952 第7期本因坊戦、高川格(秀格):橋本宇太郎
4−1
1953 第8期本因坊戦、高川秀格:木谷実 4−2
1954 第9期本因坊戦、高川秀格:杉内雅男 4−2
1955 第10期本因坊戦、高川秀格:島村利博 4−0
1956 第11期本因坊戦、高川秀格:島村利博 4−2
1957 第12期本因坊戦、高川秀格:藤沢朋斉 4−2
1958 第13期本因坊戦、高川秀格:杉内雅男 4−2
1959 第14期本因坊戦、高川秀格:木谷実 4−2
1960 第15期本因坊戦、高川秀格:藤沢秀行 4−2
高川秀格、本因坊9連覇達成
1952年橋本宇太郎より本因坊を奪取して以来、1960年挑戦者藤沢秀行を破って本因坊9連覇を達成した。 1961年坂田栄男に破れ、連破は終わった。
1960 第1期名人戦、読売新聞社主催、藤沢秀行名人誕生
1950年本因坊秀哉名人の死後、空席であった名人位は、タイトル戦として登場し、「初物に強い」と言われることになる藤沢秀行が、初代名人となった。
初代名人位の決定は、9段全員とタイトル保持者13人の総当たりのリーグ戦で行われた。
そのとき8勝3敗の呉清源と坂田栄男の対戦は持碁で引き分けとなり、最多勝利者の藤沢秀行が、9勝3敗で名人位を獲得した。
(鼓動p16−17)
1961 第16期本因坊戦、坂田栄男:高川秀格 4−1
坂田栄寿本因坊誕生
1962 第17期本因坊戦、坂田栄寿:半田道玄 4−1
1963
第2期名人戦第7局、坂田の外のぞき、坂田栄男名人誕生。
藤沢秀行対坂田栄男、千代田区紀尾井町福田家、坂田4勝3敗
第1期名人戦を0.5勝差でタイトル獲得を逸した坂田は、3勝3敗で第7局を迎え、
坂田の白番となった。 碁も中盤戦の最後に差し掛かった坂田の120手目は、誰も想像しなかった「外のぞき」だった。
(鼓動p19−23)
1963 第18期本因坊戦、坂田栄寿:高川秀格 4−1
1964 第19期本因坊戦、坂田栄寿:高川秀格 4−0
1964 坂田時代、坂田栄男の7大タイトル独占
1965 第4期名人戦、坂田名人敗れる。
坂田栄男対林海峰9段、無敵坂田敗れる。 林海峰4:2で名人となる。
1965 第20期本因坊戦、坂田栄寿:山部俊郎 4−0
1966 第21期本因坊戦、坂田栄寿:藤沢秀行 4−0
1967 第22期本因坊戦、坂田栄寿:林海峰 4−1
1968 第23期本因坊戦、林海峰:坂田栄寿
4−3、坂田本因坊敗れる。
第7局坂田栄寿対林海峰9段、林2目半勝ち、箱根強羅石葉亭、
1969 第24期本因坊戦、林海峰:加藤正夫 4−2
1970 第25期本因坊戦、林海峰:坂田栄寿 4−0
1971 第26期本因坊戦、石田芳夫(秀芳):林海峰
4−2
1972 第27期本因坊戦、石田秀芳:林海峰 4−3
1973 第28期本因坊戦、石田秀芳:林海峰 4−0
1974 第29期本因坊戦、石田秀芳:武宮正樹 4−3
1975 第30期本因坊戦、石田秀芳:坂田栄寿 4−3
1976
第31期本因坊戦、武宮正樹(秀樹):石田秀芳4−1
1976 第1期名人戦、大竹英雄:石田芳夫4−1
読売新聞社主催から朝日新聞社主催と変る。
1977 第1期棋聖戦、藤沢秀行棋聖誕生 以後6連覇、 読売新聞社主催
1977 第2期名人戦、林海峰:大竹英雄
4−0
1977 第32期本因坊戦、加藤正夫(剣正):武宮秀樹 4−1
1978 第3期名人戦、大竹英雄:林海峰
4−2
1978 第33期本因坊戦、加藤剣正:石田芳夫 4−3
1979 第4期名人戦、大竹英雄:坂田栄男
4−1
1979 第34期本因坊戦、加藤剣正:林海峰 4−1
1980 第5期名人戦、趙治勲:大竹英雄4−1
1980 第35期本因坊戦、武宮正樹(秀樹):加藤剣正 4−1
1981 第6期名人戦、趙治勲:加藤正夫4−0
1981 第36期本因坊戦、趙治勲:武宮秀樹
4−2
1982 第7期名人戦、趙治勲:大竹英雄4−1
1982 第37期本因坊戦、趙治勲:小林光一
4−2
1983 第7期棋聖戦、趙治勲棋聖誕生 以後3連覇、
1983 第8期名人戦、趙治勲:大竹英雄4−1
1983 第38期本因坊戦、林海峰:趙治勲 4−3
1984 第9期名人戦、趙治勲:大竹英雄4−3
1984 第39期本因坊戦、林海峰:淡路修三 4−1
1985 第10期名人戦、小林光一:趙治勲
4−3
1985 第40期本因坊戦、武宮秀樹:林海峰 4−1
1986 第10期棋聖戦、小林光一棋聖誕生
以後8連覇、
1986
第11期名人戦、加藤正夫:小林光一 4−0
1986 第41期本因坊戦、武宮秀樹:山城宏 4−1
1987 趙治勲碁界制覇、趙治勲グランドスラム達成
1987 第12期名人戦、加藤正夫:林海峰
4−0
1987 第42期本因坊戦、武宮秀樹:山城宏 4−0
1988 富士通杯、第1回富士通杯世界選手権
1988
第13期名人戦、小林光一:加藤正夫 4−1
1988 第43期本因坊戦、武宮秀樹:大竹英雄4−3
1989
第14期名人戦、小林光一:淡路修三 4−1
1989 第44期本因坊戦、趙治勲:武宮秀樹
4−0 趙治勲本因坊返咲き
1990 第15期名人戦、小林光一:大竹英雄
4−2
1990 第45期本因坊戦、趙治勲:小林光一
4−3
1991 第16期名人戦、小林光一:林海峰
4−1
1991 第46期本因坊戦、趙治勲:小林光一
4−2
1992 第17期名人戦、小林光一:大竹英雄
4−2
1992 第47期本因坊戦、趙治勲:小林光一
4−3
1993 第18期名人戦、小林光一:大竹英雄
4−3
1993 第48期本因坊戦、趙治勲:山城宏
4−1
1994 第18期棋聖戦、趙治勲 タイトル奪回
1994 第19期名人戦、小林光一:林海峰
4−0
1994 第49期本因坊戦、趙治勲:片岡聡 4−3
1995 第19期棋聖戦、小林覚棋聖誕生
1995
第20期名人戦、武宮正樹:小林光一 4−1
1995 第50期本因坊戦、趙治勲:加藤正夫
4−1
1996 第20期棋聖戦、趙治勲 タイトル奪回、以後4連覇、通算8年
1996 第21期名人戦、趙治勲:武宮正樹
4−2
1996 第51期本因坊戦、趙治勲:柳時熏 4−2
1997 第22期名人戦、趙治勲:小林光一
4−2
1997 第52期本因坊戦、趙治勲:加藤正夫
4−0
趙治勲本因坊10連覇、通算12年本因坊タイトル保持
1998 第23期名人戦、趙治勲:王立誠
4−2
1998 第53期本因坊戦、趙治勲:王立誠 4−2
1999 第24期名人戦、趙治勲:依田紀基
4−1
1999 第54期本因坊戦、趙善津:趙治勲 4−2
1999 まんが「ヒカルの碁」連載始まる。
女流人気棋士・梅沢由香里監修、ほったゆみ原作の「ヒカルの碁」は、少年囲碁ファンのみならず大人も面白い。
平安時代の碁打ち「藤原のサイ」は、神の一手を求めて、本因坊秀作に乗り移った。
そのため、本来は平凡な棋士であった秀作は、一躍秀でることとなった。やがて、現代になり「藤原のサイ」は、「進藤ひかる」に乗り移る。。。。というところから物語りは始まる。
2001年秋には、テレビアニメ化され、お茶の間でも人気となった。
1999 天元への挑戦
山田啓吾・相場一宏著「天元への挑戦」では、通常布石の一手一手は隅辺と関連して、「地と根拠」に換算される「一手の価値」を持っている。天元はその一手の価値が全局に分散しているので、急速な実利への集束は困難だ。現代コミ碁では、黒番の者も冒険しなければ勝ちを引き寄せられない。その一つの方法として初手天元は十分に考えられる。(天元p206)
2000 第24期棋聖戦、王立誠棋聖誕生、
2000 地と模様を超えるもの
韓国から来日し木谷門下に入門し、史上最年少11歳入段を果たした趙治勲は、名人5連覇の他すべての主要タイトルを獲得した。そして、偉大なる棋士著趙治勲は、著書で自らの碁の基底にあるものを語っている。
彼自身を、「天狗になれない、いつ負けるかが不安な自分」といい、「地を取ることは厚い」という。
本書を読むと、趙治勲こそが”自然流”でないかと思える。
しかし、多くの一流の選手(囲碁、ゴルフ、野球、テニス等)が、自分の得たものを自然流と称するが。。。どうも、自然と感ずる程に修得して、はじめて一流なのだろう。
2000 第25期名人戦、依田紀基:趙治勲
4−0
2000 第55期本因坊戦、王銘宛:趙善津 4−2
2001 第25期棋聖戦、王立誠:趙善津 4−2
2001 第26期名人戦、依田紀基:林海峰
4−2
2001 第56期本因坊戦、王銘宛:張栩7段 4−3
2001 進化する三連星
武宮正毅は、著書「進化する三連星」において、三連星の側面として次の点を挙げている。
@
模様を展開する。
A
スピードを利用する。
B
勢力を利用して戦いに役立てる。
そして、三連星への小ゲイマかかりに対する5の5へのコスミを、三連星の進化の現在での結果としている。
(年表) 日本史年表 歴史学研究会編 岩波書店 1993
(鼓動) 石の鼓動 江崎誠致 (株)双葉社 1973
(中山) 囲碁の世界 中山典之 岩波新書 1986
(昭和) 昭和の碁 江崎誠致 (株)立風書房 1993
(天元) 天元への挑戦 山田啓吾・相場一宏著 株)河出書房新社1999
(治勲) 地と模様を超えるもの 趙治勲 (株)河出書房新社
(平本) 囲碁の知・入門編 平本弥星 集英社新書 2001
(水口) 囲碁の文化誌 水口藤雄 日本棋院 2001
(進化) 進化する三連星 武宮正毅 (株)河出書房新社 2001
投稿者 直井 洸
開設日2002/01/31
改訂日202/03/25