私達の教育改革通信 第117号

2008/5

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西村秀美,先事館箕面 〒562-0023箕面市粟生間谷西3-15-12
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水木鈴子
あなたを見ているとふーと忙しい日常を離れて,
心は花のお散歩です。
時の流れの風に乗って行って参ります、
いにしえの寧楽(なら)の都へ…。
お坊さまの手入れの行き届いた庭に、
咲き乱れているあなたのほほえみが、
温かく迎えてくれました。
伽羅(きゃら)のような、
白檀(びゃくだん)のような、
沈香のような香が、
読経とともに流れてきて,
懐かしさでいっぱいです。
刹那の香りと響き合っているあなたの香り深い花姿は、
尊く思えます。
永遠の時を共に生きる幸せを胸に感じながら、
再び風に乗って八ヶ岳へ…。
ただいま!
帰って参りました。

(虹:21世紀の生き方誌140号より)

ヒロシマ原爆以後のキリスト教神学

(ユダヤ教とキリスト教より113、114号からのつづきです)

関本 肇

これはすぐにはピンと来ないかもしれないが、あの世界最初のピカドンは、ただヒロシマ市民を一挙に殺戮したと言うだけでなく、これは世界人類を全く新しい歴史状況、核によるジェノサイド(全滅)の時代に突入させたとの思想である。これらが神学世界で論じ始められたのは、アウシュヴィッツの神学より遅れ、1982年、英国のJ.ギャリソンの「神の闇―ヒロシマ以後の神学」以降とされる。ヒロシマは、それまで、神のみが決定できるとされていた人類の歴史の終焉、世界の審判と断罪を、人間が原爆のボタンを所有することによって、人間は神と共に最後の審判を実行できるようになった、と言うことである。別な言い方をすれば、ヒロシマは神の終末を人間化したのである。G.カウフマンも1985年に、人類はヒロシマ以降、全く新しい歴史的状況に入ったことを指摘し、神の全能の支配という象徴は再検討されねばならぬと述べる。人類の歴史の終焉が、核のジェノサイドによるならば、それは基本的に神の行為ではなく人間の行為によるのであり、その破壊の責任は人間にある。しかしこれはまさに神への反逆である。そこに生まれる、神に代わる人間の全能幻想は速やかに打ち破られねばならぬ、改めて人間の自由と責任を励まし強化しなければならない。鈴木正三は「ヒロシマ・ナガサキ以降の教会と神学」で、核兵器戦略体制を「絶対悪」として拒否するべきことと共に、「反核」はキリスト教の信仰告白、信条であり、とくに日本の教会に神から託された特殊な使命ではないかと説く。われわれは確かに、ホロコーストとヒロシマ原爆以後、信条を書き変えるべきときに来ている。ここでは言わないが、宗教多元主義の世界からも、あるいは福音書研究者からも、信仰告白の書き換えが求められている時代である。しかし信条を変えるためには、ユダヤ教差別についての痛悔と反省、また研究者による福音書の再検討など、さらにイスラームはじめ諸宗教との対話も求められている。しかし、世界大戦後の先輩神学者たちが苦労した足跡をわれわれも踏みしめていく必要がある。

日本人の半数以上がヒロシマを忘れ始めている今の時代に、われわれは何処から始めればいいのであろうか。日本YWCAの全国総会は1970年に全国運動の強調点として「”核”否定の思想に立つ」方針を掲げ、それ以来運動を継続発展させ、女性の永続するエネルギーによって、運動の質を深めている。ここにはヒロシマに関わる沢山の可能性が具体的に示されている。しかし1955年のラッセル・アインシュタイン・湯川ら11名の、核戦争への危機の呼びかけはバグォッシュの科学者国際会議などの展開で関心を呼んだが、科学者の良心的な発言は、その後の「核戦略体制」を当然とするアメリカはじめの核保有国の傍若無人な行動の前に無力化している現状ではないか。それならば我々は何ができるのか。

考えてみると、現代我々を取り囲む世界、社会には、「我々に何ができるか」と問うても答えが早急には出てこない課題が山積みしている。それはそれらすべてが人間に深く関わる重大な出来事であるからだ。しかしそれらどの問題も、個々の人間、個々人の人格・思想・尊厳に関わることである。人間一人一人は個人格として生きねばならぬ。そこには個々人の自覚的な、内的変革・回心と成熟がいる。わたしはindividualの課題だと言いたい。しかし一人一人が、かけがえのない存在であることを自覚的に理解するためには、各自が精一杯のエネルギーと時間をかけねばならないことは当然である。

榕樹文化に寄せて

台湾台北へのセンチメンタル・ジャーニー
(速水和彦氏のことなど)

立石昭三

私も家内も台湾、台北市からの引揚者である。「引き揚げ」という言葉も一般には死語になりつつあり、台湾が日本の一部であったことも一般の記憶から風化しつつあるようなのでここに書いて残したい。

私の両親は長崎県の出身であったが、父は国内の大学を経て、1930年から台湾大学理学部動物学教室に助教授として奉職していた。当時、台湾の人を本島人(これを私は本当の人と思っていた)、日本人を内地人、台湾生まれの日本人を湾生と呼んでいた。私は1935年生まれの湾生である。妻は輔仁小学校にもいたが、京都生まれなので湾生ではない。
1941年12月8日、ハワイの真珠湾に集結していた米太平洋艦隊への攻撃をもって日米間の太平洋戦争は始まった。緒戦は香港、シンガポールも陥落させ、ニューギニアの産油地、パレンバンにパラシュート部隊が降下し「空の神兵」と呼ばれたあたりまでは戦線の拡大が中国大陸、太平洋諸島に及んだ。しかし停戦の機を逸し、ラバウルも落ち、山本五十六元帥の乗る新司令部偵察機がアメリカのP38に落とされ、やがて米軍の沖縄占領、本土爆撃となり、1945年の戦艦ミズーリ号上のポツダム宣言受諾となり、これで日本が米国(英・中・蘭・ソ連)を相手にした世界大戦も終結となったのである。海外にいる邦人はそれから続々と日本本土へ帰国して行った。シベリアの虜囚は労働力として引き揚げも遅れたが、台湾では事情が一寸異なり中国国民党政府が台湾へ進出してきても台湾の行政、教育、産業に邦人の協力が求められたのである。

敗戦当時、私は小学5年生であったが、これら邦人の子弟の教育には旧三中のあった場所に輔仁小学校、和平中学校が作られた。私は和平中学の2年まで通学したが、ここでの教育は朝礼の時に歌う「三民主義」の国歌と北京語の授業くらいしか覚えていない。やがて生徒たちも日本人の帰国に伴って減少し、この小・中学は廃校となった。私は大学官舎に住んでいたが、近くの小川で魚を取ったり、大学の先生宅に遊びに行き楽しんでいた。

子どもの心の外傷をPTSDなんていうが、子どもの心はかなり柔軟なもので非日常的な生活もただ面白く、不謹慎だが台風で学校が休みになると歓声を上げ、空襲、敗戦、異文化での暮らしなども苦にならなかった。よく覚えているのはヴァイオリンを教わった高坂知武先生宅(2)、緑の背表紙の講談社落語講談全集が揃っていた速水和彦先生宅(7)であった。特に速水宅には毎週、通って一冊づつ拝借し、岩見重太郎や幡随院長兵衛、柳生但馬守の伝記などすっかり覚えこんだ。和彦先生は総督府鉄道部部長で、台北鉄路工廠と台湾大学工学部に勤めておられたが、当時から満鉄の広軌鉄道のデータを解析し、これが後に日本の新幹線の基となった、と聞いた。

和彦先生は大学または工廠から帰宅されると、和服に着替えられ、小さな七輪上で煮える湯豆腐を肴に一杯召し上がりながら中学生の私に広軌の鉄道の効率を説いて下さるのを常とした。和彦氏には経清、経康、経明という三人の男のお子さんが居られたが皆さん、日本内地に居られ、台湾宅には、おえいばあさんと富子夫人と三人で住んでおられた。

そのうち台湾政府のご好意で私ども中、高校の学生は台湾大学の構内にも自由に出入りし、父母の研究室、また自宅でもその専門とする講座を拝聴するようになり、これを「留用日僑子女教育班」(1)、略してNSKと称した。野球のユニフォームにまでNSKと大書してあり、口の悪い人はこれを「日本少女歌劇団」の略だろう、なんて言っていた。

恩師の中でも印象深く覚えているのは高坂先生の物理(2)、山根敏子先生による英語(3)、立石鉄臣先生の美術(文献4)であった。これらの方々のことは後年、その時の学生により思い出深く書かれている。戦後、台湾の人たちは国民政府軍が中国大陸から台湾に来ることを「光復」と称して大いに歓迎したが最初に乗り込んできた陳儀長官以下の軍隊を見ると、服装も様々、ズックの靴をはいた兵士もあり、背に唐傘を背負い、鍋釜をぶら下げ、歩調も取れず、これが戦勝国の軍隊かと情けなく思った。予想に反せず、蒋介石の政府は中国本土に於ける様に腐敗しきっていて、行政には賄賂が横行し、軍隊も台湾の人々の私財を略奪したりして、台湾の人々の不満も買い暴動となった。これが2・28事件である(5、9)。台湾人達は初めの内こそ、外省人(台湾人以外の中国本土から来た人々)を攻撃してその不満を発散し、外省人は台湾人が襲撃しない日本人宅に逃げ込んで来たりしたが、武器を持たない本省人には利あらず、次々に反乱分子は捕らえられ、あるものは街頭でモーゼル拳銃で頭を撃ち抜かれて処刑され、あるものは斬首され、その首は南門、麗生門などに獄門に処せられた。これにより外省人側も多少は反省もあったのであろうか、以後はあまり酷い略奪などの行為は控えられたのであろう。

1949年8月になって、最後の引揚船、日本丸が台湾に来るという知らせがあり、私どもの家庭でも一人四個まで許されるという柳行李にドンゴロスと称する麻の布を張ってそれに撥水性の塗料を塗ったりしたものを用意した。もとより何もかも持参して帰国するわけには行かないので、当時、戦後の日本で手に入るまいと思われた生活必需品を詰め込み、骨董、書籍、美術品などは家の前でガレージ・セールよろしく売った(6)。この選択は全く逆で、いらない鍋、釜、着衣、靴などより私どもが手放した品々を持ち帰ればよかったのである。その頃、速水和彦氏は脳出血で意識を無くし、植物状態に陥った。日本丸の入港で、私どもも荷物をまとめ台北を汽車で出発した。速水家にはヴィーとベンという夫婦の垂犬がいて、貰い先まで決まっていたが出発の数日前に行方不明となり、出発の前に速水家の床下で死んでいるのが発見された。犬にも心があり別れを惜しんでいるのか、と私どもは言い合った。

1949年8月8日、基隆(キールン)に入港した日本丸を見た時にはやはり感激した。何に感激したかといえばマストに翻る日章旗を見たこととピストルを腰に帯びた日本人警官7人が乗船していたことである。戦後、4年間、国府軍の青天白日旗しか見た事がなかったし、日本軍も警察も武装解除され、身に寸鉄も帯びない邦人しか見た事がなかったので一層、感激した。和彦氏は担架に乗せられたまま、台湾人学生により船内に運ばれた。これらの学生はその後、出帆時には隠れて下船せず日本に密入国し、その中には日本人と結婚し、日本国籍を取った人もあるという。

帰国船内では船員に船に付き物の怪談を聞いたり、外洋に出てからは夜間、セント・エルモの火を初めて見たり、これも面白い経験であった。船が沖縄に近づいた頃、昏睡状態の和彦氏は奥様とご母堂に看取られて亡くなられた。和彦氏は1889年12月19日、北海道で出生、8歳で台湾へ行き、一生の殆どを台湾の鉄道の発展に尽くされた。1949年8月12日、享年60歳であった。千葉宗雄船長の同意を得て(7)、台湾鉄道の礎となっていた速水和彦氏の遺体は日本と台湾の中間点、沖縄沖で水葬にする事が決まった。船大工が木の香も真新しい柩を作り、帆布でくるみ、その底には水が入る様な穴を開け、舟のキールにあるバランスの石を入れ、乗客、船員の賛美歌478番、「海ゆくとも 山ゆくとも わが霊のやすき いずれにか得ん」の斉唱のうちに日の丸に包まれた柩は船側から落ちた。「バーン」という海面に落ちた大きな音は今も私の耳に残っている。船はその回りを汽笛を鳴らしつつ一周し、沖縄で購入した色鮮やかないグラジオラスの花束を投入し、その間に柩は水中に没した。私は船長室で船の軌跡を記す計器を見ながら故人の冥福を祈ったし、それを見ていた学生の一人は後年、牧師となったが、この水葬を目の辺りにした事が動機付けになったと私に語ってくれた。

引揚後、私は医師となって京都や滋賀また第三世界でも働いたが段々、日本の経済的地位も上がり、周りに戦争の影響が少なくなってくると、またまた台湾との縁が復活してきた。1980年に一度、台北を訪れたがこの時は速水和彦氏の姪で今は私の妻、恭子が引き揚げるまで育った鉄道官舎を訪れ、子どもの頃思っていたほどには家の前の道路が広くはなかったことを実感した。小学校の同窓会も嘗ての小学校訪問が旅程に入る様になった。台湾の人たちも日本時代の古いよき時代を偲ぶ出版も許されるような時代になった(10)。

今回、2007年10月の台北訪問は嘗ての引揚船、日本丸で同乗して帰国した高野秀夫氏のお誘いによる。高野氏他数人は台南から今や台湾の鉄道の要となった新幹線で北上し、一方、私どもは昔の同級生にも会い、画廊巡りをしたりして日程を調整し台北で共通の一日を過ごした。小学校の同級生、楊星朗君は事務所のあるアメリカのラス・ヴェガスから空路、駆けつけてくれ、彼の父親の楊三郎美術館を見せてくれた。

今回の台北訪問では高坂先生のお嬢さんとそのご主人、李遠川先生によるご案内で、台湾大学における高坂記念館の完成と李先生のお父上の李沢藩先生、生誕百年展の見学が中心であった。李先生の個展(8)は故宮博物館で開かれていたのである。台北は前回に来た時より一変し、101タワービルから見る観音山、七星山、大屯山、親指山は変わらないまま大都会となっていた。2度目の101ビル訪問では、ほぼ真下に「松山台北鉄路工廠」とあるのが見え、ここを訪問することにした。ここは以前の鉄道工場でもあるが今は台湾鉄道関係の博物館のようになっている。以前、京大医学部衛生学教室に留学していた郭恵二氏の根回しもあって、ここでは家内を速水和彦の姪だと紹介すると、すんなり通してくれた。写真は家内と伯父のトルソー対面の図である。トルソーの横には和彦氏の功績も記され、信義を重んじる台湾の人の、心の広さに打たれた。

台湾大学訪問では父、立石新吉の筆跡にも接する事が出来たし、子ども時代におなじみの懐かしの小鳥、ペタコの鳴き声も聴けて嬉しい台北再訪であった。最後の日に私どもの住んでいた昭和町、現在の温州街の日本家屋を見たが、大分はビルの間に取り残され、もうかなり老朽化していたが私どもの共通教室としていた独身官舎は健在であった。

一日、台北市内の大病院、馬階病院の血液部門を訪れた。ここには数千人の台湾人の白血球DNAを集めているがそれらのデータから民族の軌跡を追うことが出来るという説明を同部門部長の林媽利先生から聞いた、台湾人は大陸の漢民族とは違い、むしろシンガポールなどの東南アジアの華僑に近いことも知った。遺伝学的にも歴史も言語も台湾の閔南人は漢民族とは異なるので、中国政府も台湾を軍事的に併合しようなんてことを言わないほうが大国らしい、と思う。

速水和彦の略歴;
明治22年、北海道で生まれる。父、速水経憲は通信技手で、母はゑい。
明治28年、経憲は北白川宮様と共に電信技師として3人の子を連れて台湾へ。当時、小学校は台湾総督府立国民学校のみがあり、入学。小学校卒業後は、中学校も台湾にはなく、滋賀県の膳所中学へ入学し下宿住まいをした。三高、京大を経て上海の商社へ就職。直ぐに父、経憲に台湾へ呼び戻され、台湾交通局鉄道部へ鉄道技師として就職。技師としての身分は終生変わらなかったが、敗戦当時は2千人の部下を持つに至った。終生、真摯なクリスチャンとして生きた。(11)

以下の文献は文献4,8、9,10,11を除き、他は高野秀夫氏のご好意による。

文献1;
高野秀夫 「台湾省留用日僑子女教育班(1947〜49年)」。2006年、麗正会(台北一中同窓会誌)
文献2;
李遠川(ジョンズ・ホプキンス大教授)。「高坂知
記念館」。日本エッセイスト
クラブ95年版、べストエッセイ集、文芸春秋
995年10月号
文献3;
山根甚信 「去りぬるを」。Private press,
1957.8.4
文献4;
立石鉄臣 「立石鉄臣、台湾書冊」。台北県政府、劉峰松他編。1997年6月
文献5;
金関丈夫 「すれ違い」。台湾青年27号、
1963.2.25
文献6;
金関丈夫 「カーの思い出」。沖縄タイムス 
1956.9.15
文献7;
加藤昭三(清水高等水産学校昭和24年卆、練習船船長、航海訓練部長等を経た)「シージャックと速水氏の水葬」千葉宗雄監修「練習帆船・日本丸」原書房、1984、8、9
文献8;
張芳慈 「李澤藩的絵画空間表現」財団法人李澤藩記念芸術教育基金会
2007年3月
文献9;
林彦郷 「非情都市」先鋒電脳排席版印刷有限公司 1993年4月
文献10;
蔡焜燦 「総合教育読本、復刻版」産経新聞 
2007.4.21
文献11;
岡田公子編「Family tree,〜Hayami」私書版
 2003.12.11

キリシタン宗門の伝来と宣教

大江真道

大航海時代・海外貿易

15〜17世紀に、ヨーロッパ諸国が、未知の海洋に乗り出して、新しい土地を発見して探検し、植民を行なった時代を「大航海時代」というが、一定の区分があるわけではない。ポルトガル、スペインが活躍した時代を第一期とし、オランダ、イギリス、フランスが参加した時期が第二期とされている。地理発見時代とか大探検時代の言い方もあったが、1965~70年に岩波書店が「大航海時代叢書」を刊行したことから「大航海時代」という名称が日本史学会に定着してきている。この時代は近世の幕開けのときであり、世界が1つになった人類史上の画期的な時期であるとともにヨーロッパによる第三世界征服の端緒でもあった。近世大名の物質的欲が、土地から貨幣に向かうのを契機に近世的自由人が誕生し、富国強兵策が城下町を軍事都市へと変貌させる過程で、海外貿易という封建領域を越えたより広い市場の形成希求は、中世の日本になかったわけではない。13世紀前半期には倭寇は活発に動いており、勘合貿易により弱体化したが、海外貿易は幕府から西国大名の手に移り、16世紀前半にはポルトガル人との接触が、金、貨幣、生糸の需要が海外貿易に拍車をかけていたのであった。

ヨーロッパ人のアジア進出

1492(明応1)年に、コロンブスがインドに向かうつもりで、西インド諸島に到着してアメリカ大陸を発見したが、続いてヴァスコ・ダ・ガマが1498(明応7)年に、インドのカルカットに着き、インド航路が開かれた。1510(永正7)年、ポルトガルのアンブケルケがインド総督となり、ゴアを陥れ、翌年マラッカを占領し、1538(天文7)年にポルトガルはマカオに植民している。こうして、ポルトガル、スペインは未知のインドや南米を探検し、植民地経営にのりだしていた。このころ、ドイツではルター、フランスではカルヴァンが宗教改革の火の手をあげ、イギリスでは国教会がローマ教皇の支配から脱している。

カトリック教会は1545~65(天文14−永禄8)年にトリエント公会議を開き、体制を立て直していた。スペインやポルトガルの王室は海外探検による貿易商人を保護し、この機会に東洋への宣教を開始したイエズス会(ポルトガル)や、フランシスコ会(スペイン)を保護し、支援したのである。

イエズス会士到着までの日本の社会

日本の社会の推移をみると、古代国家が解体して律令制から荘園制へと推移し、院政政権が成立して、摂関政治が衰凋して、全国の土地が荘園と公領に二分される中世の幕開けとなる。この院政の権力が受領層の経済力、武士団の軍事力の保持と行使が、やがて保元平治の乱となって源平武士団の闘争となり、その結果、鎌倉幕府(源氏→北条政権)の創始となる。蒙古襲来、南北朝の争乱(太平記の世界・北条政権の崩壊)ののち、室町幕府(建武の親政がいきずまり足利氏が登場)が開創されるが、民衆が下克上のイデオロギーをもって台頭し、幕府は弱体化して、戦国時代の争乱の世界に時代は突入していく。やがて、織田信長が桶狭間で今川義元を破り(1560・永禄3年)、足利義昭を奉じて入洛(1580・永禄11)し、安土・桃山時代といわれる時代が展開する。イエズス会士が到着したのはこの室町時代末期で、日本が戦国時代の混乱を経て近世統一国家の形成にむかう転換期であった。イエズス会宣教師の宣教の期間は、日本が西欧文化とはじめて接触した時期であり、文化面では対等にヨーロッパ人と向き合ったときであった。ルイス・フロイスの『日本史』という宣教の記録は、この時代の両者の接触の有様を活写している。

イエズス会の海外宣教

エズス会は、1534年8月.15日に、イグナチウス・ロヨラと6名の同志で結成したカトリックの修道会である。パリのモンマルトルの小聖堂で清貧・貞潔・聖地巡拝(→教皇への服従団結)を誓い、イエズス会を結成して1540−パウルス三世により修道会に認可された。この会は、正式会名をSocietas Jesu (Conpanhia de Jesus) と称したことに特徴がある。それ以前の中世的修道会のOrdo とは違う同志的結合である。会士となるための第四誓願では「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコによる福音書16章15節 新共同訳)とのキリストの遺命に絶対に従うという誓約のもとに団結した修道会であった。また、ロヨラの同志のザビエルは、もう一つの聖句をモットーにしていた。「人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイ福音書16章26節 新共同訳)である。この新しいキリスト教ヒューマニズムの理解の上に世界宣教のヴィジョンが確認されていたのである。会士たちは、説教に重点をおき、霊操・福祉活動・キリスト教の教育活動を推進してきた。1548年の第一回総会で規則を公認し、海外布教、青少年教育、神学・哲学・自然科学の分野→(地球の球体であることも、当時の西欧の最新の天文学の知識により、日本人に伝えられていた)→で、宣教に貢献した。また、イエズス会の宣教は中世的布教の方法を打破した。というのは、中世における布教は、布教というより十字軍的な異教攻撃にあった。14世紀にはポルトガル国王が組織したイスラム勢力を駆逐するための、キリスト兵団という騎士修道会に似た活動に、ローマ教皇は広汎な布教保護権Padoroa do を与え、征服地における教会行政の裁治権を委託していた。イエズス会もポルトガル国王の委嘱と支援を受け、植民地の宣教者として出発したが、イエズス会士の情熱と召命観から出先機関の妨害を押し切って、国王の政治・教会行政的支配から脱却した純然たる布教を世界各地に展開した点が特筆される。それまでのヨーロッパ人中心の新発見民族の非人間的取り扱いの上に形成された植民地の経営形態とは全く違って、諸民族に人間としての価値を全世界一切の価値以上の価値を見出したのはイエズス会士であって、日本や中国の文化をヨーロッパに勝るとみて、高度な宣教地に適合するべく研究を重ねたのである。中国に布教したマテオ・リッチは儒教の服を着て儒教を自然法として承認したが、これをフランシスコ会士・ドミニコ会士が攻撃し、後の「典礼論争」に発展したのである。ザビエルは在日2年の経験の後にこういう。「日本人は私の見た他の如何なる異教国の国民よりも理性の声に従順な民族だ」と。また天文の知識慾について「質問は際限がないくらいに、知識慾に富んでいて、私たちの答えに満足すると、それを又他の人に教えて止まない。地球の丸いことは彼らに知られていなかった。そのほか太陽の軌道についても知らなかった。流星のこと、稲妻、雨、雪などについても質問が出た。」と報じている。会士フロイスもまたこの種の日本人の知識慾について報告している。来世についての質問への答えは日本人を嘆き悲しませた。教会のほかに救いはないとして、福音を知らずに死んだ人が地獄におちているとザビエルが答えたからである。青山玄神父は、この問題についてのザビエルの悲観的思想は彼の故郷のバスク地方の信仰であって、正統なカトリック信仰は、異教徒の文化や信仰に寛大であることはトマス・アクィヌスがすでに述べていることを指摘している。

このイエズス会の教育・学問についての詳細な研究書に、海老沢有道氏の研究がある。

ザビエルの来日にはじまる日本への宣教

イエズス会宣教師ザビエルが、鹿児島出身のヤジローの案内で、日本に向かってゴアを出発したのは1549(天文18)年4月14日である。彼は1549年12月に京都を訪問したが、天皇に会えず九州に戻り、1551.年11月インド゙に帰り、広東に上陸し、熱病で死去した。彼は中国への宣教が、文化的影響を大きく受けている日本の宣教のため必要と痛感し行動したと推察されている。1622年、彼はローマ教皇によって、世界布教保護聖人とされた。

その後の日本宣教は、1556年に、トルレスがアルメイダと豊後へ行き、1559年、ガスパル・ヴィレラが当時の幕府から布教の許可を得て、日本人の盲目の伝道者ロレンゾ゙らとともに近畿圏内で宣教活動に活躍した。1563年には、フロイス、ダミアンが京都で布教している。1568(永禄11)年には、織田信長が京都を制圧し布教を許可している。1570年にカブラルが来日した。しかし彼の日本人蔑視は仲間の宣教師から厳しく批判された。

1579年、バリニアーノが来日して布教方針を改革した。1576年.8,15に、オルガンチーノが南蛮寺といわれた聖堂の聖別ミサを司式している。この年に織田信長は安土城に入った。イエズス会は、その安土で会議を開き「日本布教規定」を採択した。

この会議の決議は、@ゴア管区から日本を準管区にすること、A長崎、茂木の寄進受領。B宣教の布教区を(肥後・筑前)豊後(豊前・豊後・防長)都(関西)としたこと。
C各布教区にセミナリオ(神学校)を設置すること、D邦人の聖職者を養成すること、E邦人にイエズス会入会を許可すること、F日本人の尊敬と信用を高めるため、在日イエズス会士が絹衣着用を決めたこと、G同宿(補助伝道者)の処遇、H「日本イエズス会報」を発行することなどを決議している。そして、初代日本準管区長にコエリオが着任することを承認した。

1582(天正10)年、本能寺の変により、秀吉が覇権を握った。その1582(天正10)年に、巡察使バリニアーノは日本人の少年使節を大友、有馬、大村の3候の名代としてローマに派遣することを企画し、伊東マンショ、千々石ミゲル、副使として原マルチノ、中浦ジュリアンが選び、彼らは、1582年2月2日、長崎をポルトガル定期船で出帆した。1590(天正11)年7月21日に長崎に帰った。翌年3月3日、少年たちは聚楽第で秀吉に謁見するが、すでに禁教令後であり、彼らはその後棄教したりして、殉教の死をとげたり数奇な運命をたどった。

キリシタンの迫害と殉教

秀吉の「伴天連追放令」は1587(天正15)年6月.19日で、布告には(松浦文書)五箇条の内容が記述されていた。この内容は、政治統制、思想統制、経済統制の一石三鳥の効果があり、宣教と貿易を分離し、諸候の目を外に向けさせる効果があった(海老沢)。迫害は各地におこり、京都の南蕃寺も焼失した。1591(天正15)天正少年使節が帰国して、バリニアーンノは秀吉に謁見している。このあと、1593(文禄2)フランシスコ会のバプチスタ神父が、フィリッピンの太守の使者として秀吉に謁見し、堂々と京都で宣教し、四条堀川に教会と病院を建設した。

フランシスコ会の日本宣教

フランシスコ会は、1209年、イタリヤのアッシジのフランシスと11名の同志と結成、された修道会である。最初は、小さき兄弟会と称した。1221年に正式に認可された。禁教令後に、京都の四条で布教、病院と教会を建設、47名の会士が活動。しかし、サン・フエリペ号事件を機に、1596年11月、会士6名と第三会員16名イエズス会士3名が逮捕され、長崎に送られ2月5日(慶長1.12.19)西坂で殉教した。「この大殉教は殉教者等の熱心な信仰はともかく、日本政教事情に対する無理解のままに強行した布教に、政治がからんだものであるところに問題があると言える。そして日本側にキリシタン国のバテレンを手先とする侵寇という禁制の口実を与えることになった点を見逃すことができない」と海老沢有道は述べている。

その後の日本でのフランシスコ会

秀吉の死後、家康に召しだされジェロニモ・デ・ジェズース会士が江戸で布教の許可を得る。1599年に浅草に聖堂を建て、全国7箇所に病院や会堂を設置した。1603(慶長8)年に来日したソテロ神父は江戸で伊達政宗と親交を結び、1613(慶長18)年にはメキシコ、スペインン経由で支倉常長(1571−1622)をローマまで派遣した。支倉は1620年に帰国した。禁教令により、すでに、1619(元和5)年には京都の五条河原で52人の信徒火刑が行われていた。遠藤周作氏の『侍』という作品はこの支倉の悲劇をえがいた小説である。

キリシタン弾圧と鎖国の完成

イギリス・オランダの台頭

1603(慶長8)年、家康征夷大将軍となり江戸幕府を開創した。国際情勢では、1580(天正8)年、スペイン国王フェリペ2世がポルトガルに侵攻し、王位継承を宣言。ポルトガルは以後60年の捕囚時代に入った。スペインも、オランダとの独立戦争で後退し、1588(天正16)年、英国海軍との海戦で無敵艦隊が壊滅して海上権を喪失した。オランダ、イギリスは国をあげて東洋航路を開拓した。オランダはマゼラン海峡をへて、リーフデ号が豊後に到着し、家康はイギリス人航海長アダモスを大阪によび、オランダ、英国との貿易を斡旋させた。イエズス会の日本布教の独占はポルトガルの衰退で破れ、諸修道会の東洋伝道への許可が、教皇令により許可されて、ドミニコ会(島津領)、アウグスチノ穏修士会(加藤清正・肥後)などが来日して1602年以来混乱し、バァリニアーノの3回目の来日でも調整がつかなかった。オランダ、イギリス人は以後日本との貿易を独占し、カトリックの修道会を侵略の手先として中傷し、島原の乱((農民一揆がキリシタン信徒として団結して原城で幕府軍に抵抗)ではオランダ船が幕府軍の要請で、キリシタン農民が籠城している原城に大砲を発射している。

国内では1612年に岡本大八事件(有馬晴信との密約露見から)、1612年には江戸幕府は正式に「伴天連追放令」を公布した。1637(寛永14)の島原の乱後、幕府は、井上筑後守政重を宗門奉行に任命して信徒の探索、拷問による棄教の強制を実施した。そして、1639(寛永16)年には、ポルトガル船の渡航を禁止し、オランダ人に糸割符制を適用し、長崎の出島の人工島に商館の建設を許し、鎖国政策は黒船の来訪まで続いたが、最初にのべたように、キリスト教徒への弾圧は明治6年2月24日の「切支丹禁制高札」の撤去令まで継続されていたのである。

明治期のカトリック信徒への迫害−浦上四番崩れ−

徳川幕府によって邪宗門とされ禁止されていたキリシタン信徒、つまりカトリック教徒が、明治になって、長崎の浦上において発見された。

パリー外国宣教会のフォルカード神父が1844年に那覇へ上陸し、グレゴリウス16世教皇により、「日本代牧区」が設けられた。安政条約締結のあと、ジラールP・S・B・神父が江戸に入り、再宣教が開始された。1862.ローマ教皇ピウス9世は、日本26殉教者列聖式実施。1863年にプチジャン神父は横浜から長崎に入り、居留地の大浦に礼拝堂(天主堂)が1864年2月19日に落成した。3月17日、浦上の潜伏信徒が教会を見学にきて、信徒発見となった。

新政府は5月17日に大阪の西本願寺の行在所にいた天皇を招いて、御前会議を行ない、信徒を各藩へ囚人として配流することを決定した。これを「長崎四番崩れ」という。信徒発見は1865(慶応4−明治元)年3月17日(金)午後3時に長崎居留地に新設された大浦天主堂へ、浦上村の信徒たちが見物にきたことから、プチジャン神父が彼らを潜伏していた信徒であることを確認したことから始まる。信徒発見の報告は世界中に伝わった。長崎県西部の外海(そとめ)には、七代たてばパードレ(伴天連―カトリック神父)がやってくるという、殉教者が残した予言が伝えられていた。まさにそのときが来たと信徒は神父から、カトリックの教理「公教要理」を学びなおした。1867(慶応3)年4月5日、浦上の信徒たちが聖徳寺という浄土宗の檀那寺の住職を頼まずに、自分たちで葬式をしたことから奉行所に伝えられ、長崎奉行は6月13日に68人の信徒を逮捕したのであった。1869(明治2)年1月、浦上村の三千数百名が総員流罪(旅といわれる)となり、鹿児島,長州萩、福山、姫路、松山、和歌山、大聖寺、金沢、広島、松江、鳥取、高松、高知、郡山、伊賀上野、伊勢ニ本木、名古屋、富山の各地の藩の牢獄に送られた。このなかで津和野藩での迫害が最も激しかった。棄教を強要した津和野藩の拷問に抵抗した高木仙右衛門、守山甚三郎の話は有名である。明治政府の役人は江戸時代の邪教観念を持ち続けていた。この迫害は西欧の諸国に知れわたり、岩倉視察団は米国や欧州のいたるところで政府や民衆の反対を受けた。そのため伊藤博文が米国から急遽帰国して「切支丹禁制」の高札が撤廃されたのである。

日本カトリック教会

1866年10月、プチジャン神父は代牧となり、日本伝道に着手した。76年7月、従来の日本代牧区が、南緯聖会、北緯聖会の2代牧区に編成され、プチジャンが南緯聖会、オズーフが北緯聖会の代牧に任ぜられた。88年南緯聖会から中緯聖会が分割され、大阪に司教座がおかれた。90年、長崎で最初の教会会議が開かれ、教区再編成が議せられ、函館、東京、大阪、長崎の4司教区が成立し、東京が首都大司教区となった。96年に全国用の祈祷書、公教要理が発行された。パリー外国宣教会を中心に宣教が開始された。教育、福祉、事業のためフランスの女子修道会が招かれた。1904年、四国にドミニコ会、12年に新潟にサレヂオ会、15(大正4)年に、札幌にフランシスコ会による新教区、08年にはイエズス会が東京に上智学院を設立した。19(大正8)年、教皇庁はビオンデイ大司教を初代駐日教皇使節として日本に派遣した。1922(大正11)年、名古屋、23年広島、27(昭和2)年に福岡・鹿児島教区が新設され、早坂久之助が最初の日本人司教に祝聖された。戦時には日本天主公教教団として認可を受け、1937(昭和12)年には横浜、京都の2教区新設、東京大司教区を土井辰雄が牧した。彼は1960年に枢機卿に新任され、教皇庁公使館は大使館に昇格した。1981年、ヨハネスパウルス2世が2月23日に日本を来訪した。

感性・理性・悟性

海野和三郎

教養を表現するカテゴリーとして、昔から、礼楽射御書数が言われ、仁義礼知信は人倫、木火土金水や水金地火木土(天海冥)は自然や天文の記述に用いられた。複雑系の表現には五行またはそれ以上の次元を必要とする。ところが、「いのち」や宇宙のように、本質的に無限次元の世界を表すには、上記のような五行表現で近似的に代用するか、どうせ言語表現は不完全(ゲーデル不完全性定理)であるので、いっそのこと老子の言う「三から万物」のもとに帰って、混沌発生の根源である三(性)表現をした方がよくはないかと考える。低次元の例を挙げれば、道路特定財源としてのガソリン税の可否で争っている政争で、どれだけ民意に迎合できるかが主要な眼目になっていて、国の経済や人類の将来は二の次になっている。制度の改革は、必ずプラスとマイナスがあるから、少なくも(民意、国家経済、人類の将来といった)3次元的な観点で量的なバランスをとる変分原理に基づいた議論が行われるべきである。表題の「感性・理性・悟性」は、「いのち」や宇宙について、人と人とが語り合うときの三性と考える。

曾野綾子さんは、どこかの新聞で、国家であったか人柄であったか、三性分類を上手に使って、面白い議論をしていた。「親分と商人と職人」の三性分類で、たしかアメリカと中国は自己中心的親分国家経済国家で、日本は下手な商人国家であり上手な職人国家であるといったような話だったようであった。東京自由大学では、玉城康四郎を後世に伝えることを目的とするゼミの一環として、現在は、魚川祐司さん主導の「大乗起信論」の勉強会を行っている。大乗起信論は、ブッダの悟りに到るべき道程を感性・理性の世界での悟りを否定するところから始まり、そのためには、衆生と共に悟りに到る「大乗」の起信こそが、ブッダの悟りに到る正道であることを極めて論理的に説いたものである。仏教では宗派により、個人による修行、念仏、座禅などを論理よりも重視し、或いは、経典を学び修行と併用することが多い。その点、大乗起信論は学者向き成人向きである。

私事に亘るが、昭和10年頃、ハンセン氏病は殆ど根絶していたが、行き倒れ覚悟で弘法大師と同行二人の四国遍路で、喜捨を各戸毎に求めるお遍路さんに、喜捨を自身の救いとする気風のあった阿波の田舎で、般若心経を諳んじたことがある。まだ、論理的な理性も未熟で、感性と悟性だけで暗記した。人は、成長期に、DNAが持っていた不要な能力を捨て、生きるのに必要な能力だけを発展させるそうだが、私の仏教理解は未だに般若心経の感性悟性的理解が中心で、大乗起信論の論理性には感心するが常識以上のものではないように思える。

玉城康四郎先生は、「対象的思惟」と対照して「全人格的思惟」で悟りに到る体験を語ったが、晩年はむしろ、「いのちの流れ」として如来思想に傾倒した。如来はダンマ、プネウマ、聖霊、気、道などいろいろの呼び名があるが、人為も人知の及ばぬ宇宙次元で、神とほぼ同じだが神ほど人為的ではない。神は信仰したりお祈りしたり、時には契約したりできるようであるが、如来は何となく来てくれるだけである。このまことに分かりにくい如来が誰にでも分かるようになったことを明確に意識した人が玉城康四郎で、彼は晩年生命科学・宇宙科学で近年発見された事実に如来をみた。たった4種のATCG塩基配列が織りなすDNA,RNAの有限の長さがつくる生命の遺伝がいつも全く正常に継続し、時には環境変化に応じて新しい生命の発生もするサムシング・グレートと村上和雄氏が名付けダライラマの共感を得た生命科学の事実は、全ての人に玉城式如来を同感させる。一方、素粒子論的宇宙論の方は、まだ未熟で、ダークマターの正体もダークエネルギーが何故存在するのかも不明で、万人に如来を実感させるには程遠いが、それよりも、もっと身近な地球環境の不思議は数多くあり、玉城式如来は海にも山にも森にも居ることが実感できる。矢吹万寿氏が発見した森の神秘“矢吹機構”はその一つである。葉緑素は太陽電池とほぼ同じ効率(約10%)で太陽エネルギーを使って光合成するが、残りの80%以上のエネルギーを無駄にはしない。打ち水の原理で、葉が焼けるのを防ぐと同時に大量の水蒸気を大気中に放散し、水蒸気を含んで熱容量の大きくなった大気は断熱膨張しても温度が余り下がらず、対流が加速され、森の上空は風が吹く、その風に乗ってCO2が葉に運ばれるだけでなく、乱流拡散で葉緑素にCO2が運ばれる能率が何10倍にもなるという。超ノーベル賞研究「矢吹効果」である。何10億年の太陽進化で太陽が2割も増光しても、矢吹効果のお陰でCO2温室効果が減り、生物の生存に適した地球環境が保たれた。何というサムシング・グレートであろうか。海の魔法もそれに勝るとも劣らない。人類がそれらの秘術を会得して用いれば、100年で化石燃料を浪費して人口を増やした人類でもあと100万年生きられる可能性はある。太陽や水や海や森の働き、これが如来の来迎というものである。21世紀人類の危機にあって、誰もが理屈抜きで如来を実感できるのである。2千5百年ほど前、やはり生きるのに困難な時代に、孔子やブッダが現れたように、20世紀末に、玉城康四郎が日本に現れて如来の化身となり、如来の来迎を説いたのであろう。

(編集 湯浅・川東)