「北海道、浦河という町とベテルの家」ヨシュア
立石昭三JCMA(Japan Christian Medical Association ---日本キリスト者医科連盟)という組織がある。日本の医師、看護師、技師、その他職種のクリスチャン医療関係者の集まりで、京都部会では毎月一回、土曜の夜に京大会館に集い講師を招いて、勉強をし、ともに祈る会である。その全国集会は昨年、京都市平安会館で3日間に亘って開かれたが、今年は東京、虎ノ門のパストラル・ホテルでやはり3日間、開かれた。同じような組織が台湾、韓国にもあり、夫々、TCMA(Taiwan--),KCMA(Korea--)と称する。この3つのCMA合同のACMA(Asian ---)学生部会が日本、韓国、台湾の三カ国が回り持ちで開いている。今年は日本が当番にあたり、8月6日から8日まで北海道の浦河という町で開かれた。(只今、ラジオでは浦河では南南東の風、風力3、天気は晴れ、などと言っています)
天気は快晴でこれでは本州と変わらない、と思ったが北海道はさすがに広く、浦河は新千歳空港から南東へ海岸沿いにバスで3時間半のところにある小漁村であった。人口約1万4千人、新ひだか町と並んで競走馬の放牧地として知られるが、この所、統合失調症の患者さんをお世話している町として有名になった。ここでは統合失調症の方々を無投薬で受け入れ、そのご家族を入れると町民の約半数を占めるというユニークな町である。
その中心となるところは「ベテルの家」と称し、初めは浦河の一キリスト教会が約40年前、一人の統合失調症患者のお世話をすることから始まった。そして浦河沖で採れる昆布を加工し、出汁やおつまみに加工することを教えた。この事業は成功し、この患者さんは今、この加工場の社長さんである。それからこの町を永住の地として、同病の患者、その家族が集まり始め、過疎化で出来た空き家も買い上げ、グループ・ホーム形式で患者さんは自活するようになった。赤字を出している公的介護施設も購入したと言う。
私どもはバスで空港を出発したが、途中乗り込んだ女性が私どもに英語で「私は統合失調症の患者です、これから浦河の町をご案内します」と述べたので先ず度胆を抜かれた。なるほどこの町では病名を隠すことはなく差別も無い事がよく判った。
一方わが京都に目を向けると岩倉あたりから出るバスで如何にもこのあたりの病院に入っている患者さん風に見える乗客に乗合わすことがあるが、やはり正常人とは若干違うのか、皆さん、心なしがこれらの人とは距離を取り、接触を避けようとしているようにも見える。
この町は過疎対策として彼らの受け入れを町の政策として掲げているのである。私どもは実習として市の図書館におけるスタンツを見せられた。そこでは本当の患者さんがソーシャル・ワーカーである大谷地先生や浦河日赤の精神科の医師に相談するところから始まる。患者さんは4,5人の「幻聴さん」を従えて登場する。この「幻聴さん」には私どもJCMAの会員が前もって台詞も教えられて扮したが、彼らは「お前なんか役に立たない存在だ」とか「早く死んでしまえ」などと囁きながら付いてくる。ワーカーや医師はそれを幻聴とは見なさず、それを肯定した上で「貴方には仲間がいるのだから、そんな幻聴などより仲間を信頼しなさい」という。患者は付いてくる幻聴を認められたことで安心し心を開く、というストーリーであった。
道を歩く患者さんともじっくりと話し合ったが皆さん、ご自分の病名を隠さない。それらの人は大政治家であったり、もとパイロットであったり、世界的なジャグラーでその前夜にはNHKに出演したりした人だったりしたが、この町の中学生達は既に顔なじみであったらしく揶揄する様子もなくよく話を聞いてあげている様子はまるで「傾聴ヴォランティア」の訓練を受けた人たちのようであった。台湾、韓国の医師たちも感心しておられた。
統合失調症の方が犯罪を起こす率は正常人より低いという。彼らと話していると彼らは人一倍感受性の鋭い人たちで、私ども、所謂、正常人が全く麻痺していた感覚に真面目に反応している人たちだ、とも思え、考えさせられる浦河訪問であった。
ケセン語聖書について
関本 肇1959年一月二十五日、教皇ヨハネ23世が、教皇に選ばれて、まだ90日しか経っていないこの日に、第二バチカン公会議の召集を発表した。その目的は「現代化」であった。教皇の年は77歳だ。なにが現代化であったか。一言で言えばラテン語を止めて自国語でミサをやれということであった。そうなるとミサのあり方も変わる、祭壇の作り方も変わる、聖書日課も大変化である。いやキリスト教世界全体が大変革したのである。
教会は早くから土着化をいってきたが、具体的にどういうことなのか、試行錯誤の繰り返しであった。それでいてキリスト教は日本の宗教になっていない。それはキリスト教初代からの課題であったし、日本のキリシタン時代の問題でもあった。1998年のアジア・シノドスの主題は「アジアの宗教になるには」であった。「生きた言葉で御言葉を語れ」と言いながら、ずーっと教会で語られていたのは世間の常識からかけ離れた教会用語であった。これに挑戦したのが我が友、山浦玄嗣兄弟である。
彼は子供のころからイエスの言葉をケセンの言葉にしたいと思っていた。でないと、教会の言葉は友達にわかってもらえない。公教要理は東京弁で面白くないしケセンの人にはチンプンカンプンだ。イエスは暮らしの言葉、ふるさとの言葉で語っていた。ガリラヤはエルサレムにたいして田舎であり、ナザレやガリラヤの訛りはひどいものだったらしい。イエスの弟子たちがガリラヤ訛りであった事が受難物語にも出てきている。イエスも弟子たちも、田舎くさい顔つき、言葉使い、生き方であった。方言は標準語の字にも書けないのだ。琉球方言も同じで、那覇は本来、Nafa,でありNapaである。山浦さんはそこでケセン語を十年掛かって纏めた。1989年に「ケセン語入門」を、2000年には60歳で「ケセン語大辞典」を出版した。これは広辞苑よりも大きく、片手では持ち上げることもできなかった。
大船渡のカトリック教会の献堂25周年の記念会のときに、かれは自分でケセン語に訳した山上の垂訓の一節「空の鳥を見よ・・・」を用意して、祝会で朗読した。はじめ会衆は笑ったが、しばらくすると静かになり、やがてそれは感動に変わった。一人のおばさんが彼の手を握って、「おらね、何十年も、この日を待っていたよ」といって、目に涙をためて言ってくれた。従来から標準語は、NHKと文部省の言語で、頭でっかちの口先の言葉であって、胸の中、腹のおくにまっすぐに響くことばではなかったのだ。
ところが、さて、いよいよ「新共同訳聖書」をケセン語に訳そうとしたところ、どうもうまくいかない。ケセン語にはない言葉が次々に出てくるのだ。そのとき、先輩のクリスチャン医師で、言語学者、聖書学者の崎谷満先生が、聖書はやはりギリシャ語原典に当たらなければ、聖書の心は伝わらないし、私にできる限りのお手伝いしようと言ってくださったのである。山浦さんは、ここまでやったついでに、ギリシャ語までものにしてしまった。すごい人だと思う。彼が四福音書を仕上げて、それをヨハネ・パウロ二世に献上された後で、沖縄にお呼びしてケセン語聖書の話をしていただいたときには、話の中にポロポロ、ギリシャ語が飛び出すので驚いたことである。
さて、従来の聖書関係、教会関係の言葉は、ある種の業界用語である。なんとなくこれでいいと思って、「神の愛」などと言っていると、「愛」というのはどんな意味ですかと聞かれたことがある。大阪の人だったが、大阪では愛するとは言わないのですかと訊ねたら、うちらは「すいちょる(好いちょる)言いますねん」との答えであった。それが世間の言葉であるなら、「悔い改め」などは甚だしい業界用語である。クリスチャンの数は日本人口の一パーセントといわれる。百人に一人の変わり者が、教会の同志にしか通じない業界用語でしゃべっても、あとの九十九人には分かりっこないのだ。キリスト教は「愛の宗教」だと言い、「汝の敵を愛せよ」と言っているが、実は自分でもよく分からないままに納得した顔をしている。しかしこれは何か大それたことらしいと感じはじめた人は、考え込んだ末に自分にはできないなどと宣言するから、お互いにいよいよ分からなくなる。今、手元に見つからないのだが、岩波文庫に「どちりなきりしたん」と題するキリシタン時代の教会問答がある。そこでは「人を愛する」などと言わずに「人を大切にする」とあったと覚えている。ケセン語訳では「人を大事(でァじ)にする」とある。
マタイ5:48には「あなた方の天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」この「完全な」については議論のあるところであるが、ギリシャ語ではテレイオス、これは「出来上がった人」の意味だとして、山浦さんのケセン語聖書では「できだ者」である。これは秀逸な読みである。
「このように人々はイエスにつまずいた」マタイ13:57、これをどう理解するか、これもギリシャ語でスカンダリゾー、「誤解する」「腹を立てる」である。人たちは、ばかばかしくて相手にする気にもなれなかったのであろう。ケセン語訳は「相手にもすなかった」これは解釈としても秀逸である。
マタイ6:9の主の祈りに「御名があがめられますように」とあるのは何であろう。関西弁ではどうか。名はギリシャ語でオノマ、「あがめ」はハギアスセトー、ケセン語では、「神さま、あなたの御名をあがめます」これと共同訳の「御名があがめられますように」と比べればどちらが生きているといえるか。
幾つか並べてみる。「天の国」「神の国」この国は支配であるとは、どんな注釈書にもあるが、ケセン語の「神さまのお取りしきり」にはかなわない。「預言者」は「もこともち」すなはち「言葉を持つもの」である。「洗礼」は、お水くぐり、本田哲郎神父の「小さくされたものの福音」(後述)では、バプテスマのヨハネは「身を沈めさせるものヨハネ」、ケセン語では「お水潜らせのヨハネ」である。
「心の貧しい人々は幸い」のケセン語訳は「頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ァ幸せ」
「義に飢え渇く人は幸い」これは「施すにあだりそごねで、腹へって咽からからの人は幸せ」、ここでは「義」ギリシャ語のディカイオスネーは、ヘブル語のツェダカー(これは神の望むところ、すなはち貧乏な人への施しである)から、「施しにあたり損ねて」ということになるのであるが、これはイスラームのクルアーンにおける理解でもある。ムハンマドは孤児であった苦労から施しを特に大切にしたのである。ついでにもう一つ、「義のために迫害される人」ここでも「義」を施し、ツェダカーととれば、施しをうんと求められる人、また求められて施す人は幸せ、ということになる。
(補足) 「小さくされた人々のための福音」:本田哲郎訳
本田神父は上智大学修士号を持ち、ローマ教皇庁立聖書研究所卒の聖書学者のフランシコ会修士ですが、釜が崎の日雇い労働者たちの中に住み込んで、この人たちにも分かる福音書が要ると考えて「小さくされた人々のための福音」と題する、福音書の訳を出しておられます。地域の日雇い労務者がどのような人々であるかは、難しいところですが、わたしも長い間、学生運動にかかわるなかで、二十年以上の間、この生田・「釜が崎」(今では愛隣地区)を現場として、毎年三月には「現場研修」と名づけた研修を続けました。この愛隣地区はなじみ深いところです。現場研修に参加する学生たちは、ぜひ、本田訳の聖書になじんでほしいと思いますが、それは、本田神父が言っておられるとおり、自分にピンとくる、はらわたにひびく聖書として学んでほしいのです。
本田神父は、聖書を学ぶと、「神の仕事場」は、いつも「地の低いところ」、世界の「いちばん小さくされた人々」「抑圧された貧しい人たち」のところと決めておられるようだと言い、聖書を学ぶのは、このいちばん小さくされている人たちと共にこそ、神が働いておられることを、みなが認めるようになることであり、したがって神の国はまず第一にその人たちのものであることを知り、われわれすべてのものは、この一番小さくされた人たちに連帯することによって、救いと解放を得ることができると信じることだと言っておられます。
ケセン語聖書を学ぶことは、深い意味で、この本田神父訳の聖書を学ぶことにも通じると思って、紹介いたしました。
「大乗起信論」に於ける「心」の比較思想的考察
(比較思想学会誌34号より抜粋)
小田川方子「大乗起信論」は、原典は存在しないが、六世紀中葉に漢訳され、後世に多大な影響を与えた大乗仏教の代表的論書の一つである。この書の冒頭で、「衆生をして一切の苦を離れ、涅槃を得せしめんが為に」とある。この言葉は、歴史的に、ブッダの精神につながる宗教的意図を表している。この書は、この目的に向かって、その可能性の根拠を問い、大乗仏教の諸説を独自の体系により簡潔に統合した知的探求である。
「大乗起信論」(以下、「起信論」)は、「大乗」を主題とする。この場合、「大乗」は「小乗」に対するのでなく、すべてを包摂する絶対的な意味を有する。それは「衆生心」(普通の人の心)にほかならず、「一心」ともよばれる。「心」は知覚や意識であるのみならず、それらによって認識され想像されたものすべて―この世のものとこの世を超えるもの―を含む広大無辺のものとされる。その背景には、心を離れては一切のものは存在しない、という大乗仏教の唯心説がある。
さて一心は「二門」から成立している。第一は「心真如門」とされ、永遠の相において捉えられる「平等一味」の心の本質である。第二は「心消滅門」であり、因縁ないし縁起によって消滅変化し、さまざまな苦を伴った現象の相である。かかる二つの面は、実は同一の心のいわば表裏をなすものであり、変転する現象界と、その根底にある、言語を超えた「真如」(あるがまま)の絶対界とを示すものである。 「一心」はさらに、「三大」という構造を有する。これは、ブッダを判例とした熟慮から形成された概念と思われる。すなわちブッダは、真如を主客の対立を超えた絶対智(般若)により自ら真如し、それと一つになった存在であり、その苦からの解脱の道をすべての人びとに開こうとはたらき続けたのであるが、このことが三大の「体大・相大・用大」の内容に反映していると推測されるからである。
三大でいわれる「体」とは、本質であり、「相」とは属性であり、「用」とははたらきである。これら三つの概念が「大」という普遍性において捉えられるとき、「体大」はすべての凡人と諸仏に等しく不変的にある本質を、「相大」は凡人のうちに本質的にあり、諸仏において完全な形で存在する清浄な自性心、つまり「如来蔵」を、「用大」は慈悲によって人びとを救済しようとする働きをそれぞれ意味する。このような三大は、「大乗」のとくに「乗」、乗り物、つまり自ら動力を具えたもの、の意味を示すものとして、「一切の諸仏がもと乗り」、「一切の菩薩もみなこれに乗って如来地(仏の境地)に到る」と言われるのである。
では何故我々はもともと「自性清浄」なのに、われわれの生きている現実の世界は苦に満ちているのであろうか。それは、真如という心の真相に対する迷妄、つまり根本的な無知である「無明」によるとされる。ここで、真如と無明との関係について、「起信論」独特の意味での、「薫習」という概念が導入される。薫習とあは、あるものが他のものに作用して、残留する影響を与えることである。「起信論」では、無明が真如に薫習して、心に「妄心」を生じ、それが「念著」(念着心)を、そして最後に「苦」を生ぜしめる。これと反対なのが、真如が無明に薫習して、生死の苦を厭い、涅槃を求める心を起こさせて、遂に無明の滅にいたるという動きである。「起信論」の最後では、修行の完成のための「止観」が勧められる。「止」とは、一切の想いを皆除き、また思いを除くことをも除くことである。すべては本来平等で無相だからである。そこに心が落ち着けば、「真如三昧」に入ることができる。「観」とは、大悲の心を起こして、苦悩の衆生を救い、「涅槃なる第一義の楽」を得させようとの大誓願を立てることである。かかる止観は、換言すれば自らにおいて、「体・相・用」を実現することであり、それは、自ら「大乗」に”なる”ということにほかならない。
古代ギリシャ哲学の最後を飾るプロテイノスの新プラトン主義的神秘主義は、三つの原理的なものとして、、「一者」(ト・ヘン、一なるもの)、「神的精神」(ヌース)及び「魂」(プシュケー)を定立する。このうち「一者」は、それ自体としては、いかなる知をも超えた絶対的、超言語的な、一切の究極的原理である。そこから、形成原理(ロゴス)を通じて、神的精神および魂が流出し、さらに非原理的な感覚界および肉体が発現する。その際、神的精神の中心、ないし核にあるのは、一者であり、魂の中心にあるのも一者である。 このようなプロテイノスの思想を「起信論」と比較すると、一者の有する超言語的絶対性、根源性は心真如と類似し、「われわれの中の一者」と呼ばれる魂の中心にある一者は、自性清浄心、ないし如来蔵にある程度対応していると思われる。 しかし、両者の根本的相違点は、心真如が心生滅および一切のものと不一不異なるであるのに対し、一者はいわばすべての頂点にあり、神的精神、魂などを下方に向かって、また上位にあるものは下位にあるもののいわば原型として、それぞれ他者として発現させるところにある。すなわち、一者はそれらとの存在論的差異性を有するのである。 ここから、「起信論」では、「自体相用」による大きな乗り物の自他平等な実現が目指されるのに対し、プロテイノスでは、一者との合一という我々にとっての最高の境地が、万有の原型を自らの中に有する神的精神を経ながらも、孤独な自己の精神集中を通じて一者に向かって飛躍することによってとうたつされるという違いが生ずるのである。
だが、次のような点は、両者のある程度の類似性を示すものとして、注目すべき事柄である。 1.「起信論」で、心生滅相において、「生滅」という時間的次元が生ずるように、プロテイノスにおいては、魂において、神的精神における永遠の写しとしての時間が生み出される。 2.「無明」が妄心と結びつき、もともと心の表象に過ぎない対象物に執着して、生滅の苦が生ずるように、プロテイノスにおける魂は、地震の写しに過ぎない感覚界に執着して、汚れたものとなり、この世に埋没する。 3.「三大」の「体・相。用」のように、神的精神において、「真理」としての本質、「知恵」としての特性、「友愛」としてのはたらきがある。
「旧約聖書」で示されるヘブライの神ヤハウェは、万物および人間を無限に超越する絶対他者である。しかしこの神は、人間に自らを顕す神でもある。「出エジプト記」では、神がモーゼに「われは在りて在るものなり」と神名を告げられた。しかしこの神名は、ラテン語訳に基づくものである。最近わが国で、ヘブライ語の原典の「エヒィエ・アシェル・エヒィエ」に基づき、エヒィエは動詞ハーヤーの一人称未完了単数形であるので、神名は「我は在らんとして在らん」という不断に未完了に脱自する動態を表すという、新たな解釈が生まれた。(宮本久雄「存在の季節」) ここからヤハウェは、一方で「隠れた神」として人間にとって如何なる知的接近も拒絶する絶対的超越者でありながら、他方で自らの自己同一性を突破して、人間に顕現し、その歴史に関る側面を有するとされる。かかる二面は思想的に遡れば、東方キリスト教教父による「神的本質」(ウーシア)と「神的はたらき」(エネルゲイア)に繋がるものである。 このように理解されたヤハウェの有する二側面の第一は、その超言語的絶対性において「真如」に、第二は、その現実的世界への働きかけにおいて「用大」に、それぞれある程度対応すると思われる。しかし、真如が現象界と不一不異であり、仏の智慧によってのみ内証される点や、ヤハウェの一方での精神的暗さ、他方での意志的・言語的顕現などは、両者の根本的に異なる点であるといえよう。
以上のようなささやかな比較研究が、混迷の度をますます深めるげんだいにあって、異文化間の相互理解と人びとの平安へのお願いに少しでも資することができればさいわいである。
「胸部外科医から見た子どもと大人の境、所謂、思春期」
立石昭三この頃の少年犯罪を見ますと7月16日、愛知県岡崎市で起きたバスジャックにせよ、7月24日の川口市の女子中学生による父親殺しにしろ、世紀末的な事件の連発で、「また14歳の子か!」と思います。
私は胸部外科医をしていましたが、この14歳という年齢には思い入れがあります。
普通、腫瘍であれ、先天的な奇形であれ、肺葉切除をしますと、切除した肺の範囲に応じて手術の後に肺容量の減少が見られます。例えば肺活量が3、000ccの人に右肺下葉を切除しますと、その人は術後、切除した右下葉の肺容量に相当する分が減少して、肺活量が2、500ccになったり2、300ccになったりします。およそ半分の肺、例えば左の肺全部を取りますと、術前に肺活量が3000ccの人なら、残る肺の容量が1500ccになったりします。人は一回換気量で呼吸をしていますので、測定できる最大の肺容量、(肺活量)で呼吸しているのではありませんので、極端なことを言えば肺活量、500ccでも生存はできるのです。子どもの肺切除もしましたが、14歳より若い子に手術をしても肺活量は一時期には減りましても、健常側の肺葉が一時的に気腫状に変化しても、子どもの成長に応じて肺活量も変化、成長し、長期にわたりますとそう減りません。残された肺の一つ一つの肺胞が肺気腫と言われるような拡張した肺胞に変化するのではなく、肺胞の大きさはそのままで数が増え。肺も成長するのです。例えば左肺を全部摘出しますと、左横隔膜が上昇し,縦隔、(左右の肺の間、そこには心臓,食道、大血管を始め、リンパ節、リンパ管、神経などいろいろな臓器があります) は左に寄り、胸膜が厚くなり、1年も経ちますと左肺のあった空間をすっかり埋めます。それ以上の年齢や、大人で肺切除をしますと、とった空間が埋められるのは同じですが肺胞1つ1つは膨張し、つまり肺気腫の状態となり,全肺容量は増大しますが、とった分だけ肺活量は減少します。子どもの肺切除後のように、肺胞の数が増えるということはないようです。つまり可逆と不可逆の分岐点が14歳頃だと思うようになりました。
胸郭の奇形、漏斗胸という疾患があります。胸骨の発達が未熟で胸郭の中央が陥凹している疾患です。このような症例に対しまして、初めはそれによる支障がある局所に対して(闇雲に!)、奇形の変形を直すべく陥凹の矯正をしました。私が好んでしたのは異物を入れたりするのではなく胸壁前面の胸郭を翻転して、つまり凹部を凸に転じ、右中肺葉の無気肺を治そうとしたり、心臓の前面、胸骨直下にある心臓の右室流出路の狭小化を避けようとしました。そしてその適正な手術年齢を知るべく漏斗胸の自然予後をモアレ・トポグラフィー、(地図の等高線のように人体の等高線を描き出す装置) などで経年的変化の経過を見ていますと、胸の前面の漏斗状に凹んだ奇形が胸椎の側彎となるのも14歳頃が分岐点でした。胸の左半分には心臓があり,その拍動は胸郭の前面を内部から突き上げ、陥凹部の中心が身体全体の成長と共に、正中部から右へ寄って行くのです。それと共に胸椎にも片寄りが生じ、胸椎の側彎となります。胸椎の変形の矯正は大変ですので、私は漏斗胸の手術は14歳までに、胸椎の変形が出る前に手術するべし、というのをモットーにしていました。
そんなことで胸部外科医としては、子どもと大人の身体発達の境は14歳頃かな、と思っておりました。漏斗胸のように大きな身体の奇形は子どもの心の変化に大きな影響があります。例えば男の子はその凹みを無意識に隠そうと上肢で覆い、前かがみみになります。こんな姿勢はその凹みを増強こそすれ、凹みの減少にはなりません.。女の子は乳房の発達もありまして、この凹みは目立たなくなります。それでも女の子同志では「凹みちゃん」とか「えぐれちゃん」とか陰口をしているのは思春期の子どもにとっては残酷な渾名でしょう。男の子が水泳にも公衆浴場にも行かず、この奇形を人に気づかれまい、と努力するうちに奇形の程度が進行するのと対照的です。以上は胸部外科医から見た身体的変化ですが、心の変化も子どもたちがこの14歳頃が境になりそうです。この年齢を過ぎますと大人になる、と言えないでしょうか? 昔の男の子の元服も、その子が15歳になる時だったと思います。今風に「満年齢」でいえば14歳です。この説は小児科医の家内も同意見です。
『省察の美学』(美学シリーズ4)
未来創庵 一色宏人がなんかの目的に向かって出発するとき、そのよりどころとなるものは、自分自身の内部にしか見出せない。自分はなに者であるか、と自らに問うことから、人生のすべては始まる。
文豪ゲーテは言った。『人間は内面から生きなければならない。芸術家は内面から制作に向かわなければならない。人間も芸術家も、たとえどのように振舞おうと、自分の個性を打ち出してゆく他はない。そういう気持ちで元気いっぱい仕事にかかるならば、まちがいなく彼は自分の生命の価値を、自然から与えられた高邁さ、また優雅さを、あるいはまた高邁な優雅さを表出することになります。・・・・ともかく、最も重要なことを簡単に申しましょう。若い詩人は、生きて働きつづけているものだけを、たとえそれがどんな形においてであれ、表現するように務めなさい。反対のための反対、悪意、悪口、ただ否定することしかできないものを、ことごとく厳しく斥けなければなりません。ただの否定からは、何も生れてこないのですから。若い友人たちにいくらすすめても足りないと思うのは、自己省察を学ぶことです。詩語をあやつることがいくらか容易になっても、それに伴って、内容にますます重さを加えるべきことを忘れてはならないからです。詩の内容は、自分の生命の内容に他ならないのです。・・・必ず自分に尋ねてみたまえ、それが体験を含んでいるか。その体験によって自分が進歩したか、と。・・・前進する生命を楽しみにし、折あるごとに自分を吟味することを忘れぬようにしたまえ。その当座には、自分が生きて働いているかどうかがわかりますし、あとで考えてみた場合には、自分が生きて働いていたかどうかがはっきりしてきます。』
このゲーテの文学論の一文は、念頭にあたって、自己自身に厳しく問われているようである。人間とは、生きているものであり、生きているとは、意欲を持っていることであり、自分の意欲を大切に育てて、人々のため、社会のため、何をなすかである。人間の一生において、一番望ましいことは、それは一つの目標を立てて、それを生涯を通してつらぬき求める一生であろう。
ゲーテは言う。『人生は注意だ!・・・有用なものから真を通して美へ』と。・・・また『偉大なもの、美しいものを進んであがめること・・・非常にすぐれたものに接することによって、日々刻々養い育てて行くのは、あらゆる感情の中でこの上なく幸福なものである。』『最高の幸福の瞬間にも、極度な逆境の瞬間にも、われわれは芸術家を必要とする』『自身のより高い完成に向け、苦難の風雲を乗り越え、力強い自己を築いていく美しい人間に!!』
このゲーテの言葉を身読すていく年にしたものです。皆様各位の大いなるご活躍を心より祈って・・・・
金の化学で見た日本の夜明け:東大寺大仏鍍金
「資料」奈良時代産金についての一考察
(文化財保存修復学会42卷55,1998)より 藤原鎮
ここでいう日本歴史の夜明けとは、我が国が外国と対面し、歴史上の危機に直面して、それが次の時代の発展を生んだことを指している。そして、この危機を乗り切った原動力が科学技術であり、この原動力を適切に活用した政治があったと述べるのが本稿の意図である。それを、金の化学で述べたい。日本の歴史的危機として、ここでは、聖徳太子以後の飛鳥、奈良時代と、室町時代、それに幕末明治初期を考える。
奈良時代の産金事情と東大寺大仏鍍金の事実関係
我が国の産金の始めは、東大寺大仏建立時749年の陸奥における砂金の発見であると、学校で教わった。しかし、実際は、自然の砂金そのままのものだけでなく、精錬操作によるものがあったのであり、また、東大寺大仏の鍍金の金には輸入の金もあったのではないかと推論し、あわせて、東大寺建立の歴史的背景の政治情勢を憶測する。
先ず、八世紀の飛鳥−奈良時代に於ける産金の状況については、砂金そのものだけでな辰砂利用の砂金精錬もあったとの推察がある(松田寿夫「丹生の研究―歴史地理学から見た日本の水銀」早稲田大学出版部昭和四十五年、永江秀雄 地名と風土 No.110-234,1984)が、それにしても東大寺大仏鍍金に要した巨量の金が、しかもそれ以前に朝野をあげて金探査に努力して不成功であったものが、一挙に献上され、鍍金に間に合ったというのも不審であるとし、輸入説(辻善之助「日本仏教史」上世篇 岩波書店、1960)まであるのである。しかも、さらに重要なのは、何故この時期に陸奥産金が起こり、大仏建立がなされたかである。この当時の政情が不安定であったことは多くの専門歴史家が論じているが、それらは単に、平城宮の移転や正負要人も動向などの事実を追うのみで史的意義に深くは踏み込まない。この点に素人として臆断を加えたい。
事実関係で驚くのは、東大寺大仏建立に要した物量の巨大さである。熟銅739560斤、白め(鉛・錫の合金)12618斤、練金10436両、水銀58620両、木炭16656斛(こく)、という。この金は、440Kg相当という。これは、現代の精錬冶金でも簡単事ではない。天皇の発願とはいえ、全官僚の総力、協力がなければ不可能である。何故、それができたか、これが第1の疑問である。ついで疑問になるのは、当時大仏鋳造まで進んでも金がなく、朝廷は焦慮の極にあった。なぜ大仏建立をそう急いだのか。筆者の臆断では、当時、百済系と新羅系との勢力がしのぎを削って競争していたことの結果ではないかと考える。このとき使われた約500トンもの銅は、摂津の多田、但馬の明延、長門の長登の諸鉱山から調達された。これだけの規模の銅精錬技術が各地にあったのである。しかし、金に関しては、国産が十分ない。そこで、朝廷は石山寺を草創し、良弁僧正に金の調達を祈願させたという。ここで注意されるのが当時の中央要路の人的構成である。
聖徳太子による仏教公伝(538)は百済王朝からの贈り物で、文物、技術、また、それに伴う学者、技術者をすべて含む移転であったろう。当然、以後、国の中枢に百済からの渡来人、さらにその系統の人々が座ったであろう。ところが、その百済は新羅に次第に圧迫され、ついに白村江で、我が国と百済の連合軍は唐・新羅の連合軍に敗れ、百済は滅亡し(663)大勢の百済人が我が国に亡命し、彼らは九州、東北などの前線に配備される有様になった。その後、朝廷も数代をへて文武帝が即位した(697)。この頃になると、新羅も我に親しみ使節の来貢もある。文武帝は鉱産振興に熱心で、各地に技術者を送って探鉱に努めたが、しかし、金の産出はみられない。新羅系技術者も金に関しては成果が得られなかった。
元来、金には自然産の砂金があるが銀の例は希少である。すなわち銀の生産は精錬が主であり、対馬の銀は当時ここに製錬の技術があったと考えられる。文武朝は更に金精錬を促すが成功しない。それでも新羅系技術者は頑張って、元明朝の武蔵の国秩父の銅の発見(708)をした。この頃から、新羅系人士の登場が著しく、とくに、鉱産である。現在でも北朝鮮で鉱産が盛んである。
さて、聖武帝は新羅系の技術者によってつくられた大寺、河内の智識寺に詣でられて大仏建立を思い立ち、743年大仏建立の詔を発した。問題はここである。新羅系の大寺の大仏となる。そこで、百済系が発起する。勧進担当に僧行基、大仏鋳造の指導・監督に国中公麻呂が決まり、金探査に敬福が選ばれた。これらが皆百済系の人物である。そして敬福(きょうふく)が砂金を発見し、献上するのである。状況は、百済系で東大寺大仏建立のための500トンもの銅精錬に成功したのに、鋳造が始まった時点でも金がない。銅、あるいは銀まで含めての金属精錬技術が存在するのに、金の分離ができないのである。
この50年前の7世紀後半は、天武、持統、文武と盛業がつづき、文武帝崩御、元明即位(707/1/11)、和銅開珎の貨幣鋳造があった。即位から産銅、貨幣鋳造の進行は半年の仕事である。これは何とも鮮やかな仕事で科学技術の進んだ今日の出来事としても驚嘆すべきプログラムである。この対馬の産銀、秩父の産銅、すべて新羅系技術者の業績なのである。元号変更、我が国最初の貨幣「和銅開珎」鋳造まで実現したこの状況は、仏教公伝以来中央の要路を占めていた百済系の人々にとっては衝撃事であったろう。新羅勢は、その勢いを駆って大寺智識寺造営まで進むという。この事態に百済勢が勢力挽回を期したであろうことは容易に想像される。
かくて、和銅の50年後に、「陸奥に産金、東大寺大仏開眼、金銀貨鋳造」がおこるのである。それは和銅のときと全く同じ議事進行であり、これは百済系の所作なのである。ただし、この経緯は単純ではない。当時、新羅の我が国への浸透、接近は顕著だった。ここで注目されるのが、我が国の政治家の舵取りで、微妙である。中枢にあった藤原不比人はこの情勢において新羅の使者を受け入れて対応し、我も使節を送る。しかしながら、両者の関係は平安ではなく、新羅使と唐朝で席次の順位を争ったり、我への新羅使節を追い返したりすることがあった。すなわち、文武帝後、の約50年間新羅系が我が国で振るったかに見えるが、決して単純な一本道ではなかった。顧みれば、聖徳太子自身、朝鮮半島との応接には頭を悩ませたことであろう。そして、時あたかも隋の大陸統一が実現し、そこで、半島を越えて一挙に遣隋使派遣を敢行して、外交の煩瑣を断ち切ったのであった。
まとめ。単純に科学技術の問題として見れば、大仏建立時においては、対馬、長門その他の西国地方には銅を主体とする大規模鉱石精錬の技法が確立していて国力が相応に充実していたと言えよう。ただし、国政を統一するには、工夫が必要だったのだと思う。そこで、ウルトラCの政治が入り、「陸奥に産金」の名で、百済系勢力は砂金、辰砂利用の精錬金、さらには、輸入金まで含める離れ技で東大寺大仏鍍金を実現し、国論統一を実現したであろう、という臆断である。
結語 文化史は本来連続するものであろうが、通常、古代と中世という一応の区分をつけている。通常、それは政治の区分として現れるが、科学技術の動向でくぶんをつけたらもっと理解しやすいのではなかろうか。本稿は、金を取り上げ、その化学には砂金の処理、辰砂の生産、鉛を利用する灰吹きにつながる金・銀の冶金法の発展と、それが政治の展開と係わるところを探った。しかしながら、化学としてはなお疑問が残る。例えば、当時所産の水銀や鉛の量とか、その熱源、使われた容器、炉材などについて、また、それらの実社会との関連など今後考究すべき課題である。
まず政権交代を望む−総選挙で与野党逆転を
菅野礼司やっと衆議院解散、総選挙が間近になった。前回の選挙では、小泉劇場に載せられ「郵政選挙」で自民党を圧勝させた。自民・公明の連立政権は2/3を越えるの圧倒的多数を有しながら、阿部、福田政権は一年も維持できなかった。参議院は野党が多数を占め、民主党を中心とする野党に押し切られて、政府の方針が思うように運ばず四苦八苦していた。 衆議院と参議院の多数党が与野党逆転の「ねじれ国会」ではあったが、最近の自民党には政権維持の力がない末期的状態に陥ったことを示しているように思える。公明党にも見放されつつある。もはや誰が首相になっても同じだろう。政権盥回しをやめて、一刻も早く国民の意思を問う総選挙で出直すべきである。
日本の政治がこうなった理由は、自民党が長年政権につき、多数の力で行政・立法のすべてを思うように国を動かせたからである。政・官・財が一体となって、何でも彼らのやりたいようにできた。与党自民党は、地方からの「陳情」に紐付き予算をばら捲き、その見返りに支持票を稼ぐことで国会の多数を維持してきた。だから二世、三世の世襲議員が増え、地位を守るために利権と予算に関して中央と地元を結ぶパイプ役が政治家の仕事と錯覚するようになった。それゆえ、国全体の政策や外交方針の研究は疎かになり、まともな内政・外交は行えなくなった。アメリカの後について行くだけで、戦後の日本には外交は無いといわれてきた。これでは立派な政治家は育つはずはない。自民党には首相に相応しい人材がいないのはこのような政治風土が長く続いたからであると思う。
政府はこれまで、都合の悪いことは包み隠し、肝心なことは国民には知らせなかった。「ねじれ国会」になってから、道路、年金問題をはじめ隠されていた積年の膿が次々に暴露された。この事実によって、これまで目隠しされていた国民の目が開かれ、長年の一党支配の弊害を多くの人たちが気づいた。それ以外にも、税金の無駄遣い、利権・腐敗などまだまだ隠されている重大な事が、特に外交上の問題では多くあるはずである。それらがすべて明らかにされれば、国民はいかに騙されてきたかを知るであろう。
外交問題で以前この教育改革通信にも書いたことがあるが、原水爆搭載のアメリカ軍艦が日本に何度も寄港しているにもかかわらず、政府はそれを否定してきた。原子力3原則に違反するからである。また、沖縄返還のさいにアメリカが負担すべき返還費用を日本が肩代わりした密約も、その存在を否定し続けてきた。これ以外にも隠された外交上の密約のことは報道されている。これらのことは公開されたアメリカ政府の外交文書や確かな関係者の証言を突きつけられても、政府は頑として認めようとしない。政府の国会でのこの種の嘘は最大の偽証罪であり、民間人の罪よりはるかに重いはずであるが、平気でまかり通っている不思議な国である。しかもそれは国民を愚弄し侮辱するものであるのに、国民もマスコミも真剣に怒りの声をあげない。
主権は国民にあるのだから、時期が来たらすべての情報を公開すべきであるにもかかわらず、このような状況が戦後の自民党政権ではずっと続いてきた。自民党は、主権は自民党にあると奢っているとしか思えない。それを許してきたのは、何をしても常に選挙で多数を自民党に与えたからである。疑獄、汚職、官僚との癒着、スキャンダル、閣僚の暴言など、何度も繰り返されたが、与野党は逆転しなかった。政府の世論操作も巧妙であるが、それを咎めなかった罪のかなりの部分は選挙民にもある。
長年の自民党の50年体制が崩れかけたころ、さすがに国民もこの状況にうんざりしていた。ちょうどその時期に、小泉氏が「自民党をぶっこわす」、「構造改革を」と打って出たので、拍手喝采で歓迎した。しかし、この熱狂振りは異常で危険だと思っていた。事実、構造改革による歪み、そしてその痛みは国民の弱者に多くかぶせられ、格差は極端に拡大した。その歪みを背負って跡を継がされた阿部、福田両氏は貧乏くじを引いたわけである。
今度の自民党総裁選挙で、誰が総裁になっても現状では政権を支えられないだろう。それよりも総選挙で、政権を交代させて政策転換をすると同時に、積年の膿を全部白日の下に晒すようにすることが今は求められている。民主党政権となってもそんなに期待はできないだろうが、とにかく政権政党が変る事が肝要である。すべての情報を公開させ、主権を国民の手に取り返さねばならない。そのための第一歩は、失政や悪いことをすれば、政権を失うような国にすることである。そうでなければ民主主義国家とは言えない。これまでは自民党の独裁国家であった。
そうなれば、野党が政権を取ったときいい加減な事はできないし、国民の方を向いた政治をせざるをえない。とにかく、今度の選挙では野党が多数を取ることを望む。だが、自民党と民主党にばかり目が奪われ、他の少数野党の存在意義も忘れてはならないと思う。少数野党の声にも耳を傾けるべきものが多々ある。自民・民主の2大政党は政策的に近いから、別の意見・主張をもつ政党ももっと増えて欲しい。
それにしても、このところマスコミは自民党総裁選挙に占領されてしまった。小泉劇場「郵政選挙」のときのマスコミ利用にまた載せられている。一党の総裁選挙は党内の問題である。公共の電波を一政党に捧げるのは許されない。