対称性の破れと相互作用の階層性
−−自然界の階層構造と多様性を生むもと−−
菅野礼司
今年度3人のノーベル物理学賞は、南部陽一郎氏「自発的対称性の破れ」、小林誠・益川敏英氏「CP対称性の破れ」に対して与えられた。この理論の解説と、この理論が素粒子論においていかなる意義があるか、そして宇宙創生以来の自然界の多様性と階層構造を生んだ基礎的要因とこの理論との関連を説明する。さらに、目に見えないミクロ世界の素粒子論における実証法も合わせて考察する。
1.自然界における物質の階層性
マクロな物質を分解していくと分子、原子に到達。19世紀末までは原子(atom)は不変・不可分な実体とされていた。放射性元素の発見から原子は可変、分解可能な構造を有することに気づいた。20世紀初頭、原子は原子核とそれを取り囲む電子とからなること、さらに原子核は陽子と中性子からなることが解明された。
電子、ニュートリノ、核子(陽子・中性子)、中間子などはこれ以上分解できない実体と見なし、素粒子と名づけた。その後多数の素粒子が発見され、素粒子もクォークからなることが明らかになった。またしても、素粒子という名は実態にそぐわなくなった。
マクロ物質から上に向かって、惑星−恒星系−銀河−−という階層があることが判明した。物質分布は連続的でなく、切れ目のある階層をなしている。自然界は上層にも下層にも階層構造をしている。自然の豊かさと奥深さを示すもの。
物質分布の階層性:
宇宙−超銀河−銀河団−銀河−恒星系−地球(惑星)−マクロ物質−分子・原子−素粒子−クォーク−この下(サブクォーク)? ↓
有機分子−細胞−組織−器官−個体種−生態系−生物界
この階層系列は有限か無限かはわからない。多宇宙の可能性、サブクォークの可能性もある。坂田は無限階層を湯川は有限階層を主張。
各階層に固有の構造と法則
物質の階層は、単なる空間的大きさで物質分布を区切っただけのものではない。各階層には、それぞれ性質とスケールの異なる物質で構成され、特有の構造がある。したがって、階層ごとに質的にも異なる特性がある。
それぞれの階層を構成する物質と階層構造はみな異なり、構成要素の物質を結合している力は異なるから法則性もさまざまである。
その違いをもたらすものは物質間の相互作用(力)の差異である。
2.相互作用(力)の階層性
物質の本性は運動と相互作用(力)である。相互作用がなければ、運動もなく、物質の存在も属性も認識できない。物質の属性はむしろ相互作用によって決まるといえる。
相互作用は自然界のあり方を規定する最も重要な働きをしている。すべての根源は物質間の相互作用にあるといえる。
相互作用にはいろいろな種類があり、それぞれ性質(働き)の違いがある。この相互作用の多様性の由来は、相互作用の特性の多様性と階層性にある。
相互作用(力)の働き方の3性質
力学的相互作用(力)の働きを区別する重要な性質として3要素がある:
(1)力が作用する物質の属性、(2)力の強さ、3)力の到達距離
(1)の意味は、電気力は電荷を帯びた物質間にのみ働き、電気的中性の物質には働かない。また、核力は核子(陽子、中性子)の間に働き、電子間や原子間には働かない。それぞれの力が作用するのはそれに対応した特定の属性をもった物質のみである。
(2)強さに非常に強い力から弱い力まである。核力は非常に強く、電気力は中程度、重力は非常に弱い。化学結合力である原子間力は電気力より弱いが中程度の強さである。
(3)の到達距離は、その力が及ぶ範囲の長短である。電気力や重力は無限遠まで作用は及ぶが、原子間力は原子の大きさの数倍程度、核力は原子核の大きさ程度で非常に短い。
- 力の到達距離がすべて同じで、物質種に区別なく働けば、物質の階層性はない。
- 強い力の到達距離が無限大ならば、宇宙は強い力で一色に塗りつぶされ、自然界の多様性は生じない。
相互作用の階層性
物質の階層性を生み出す本は相互作用の階層性にある。
素粒子・クォーク間に作用する力を基礎的相互作用といい、4種類ある。
強さの順に:強い力、電磁気力、弱い力、重力(1次相互作用)
基礎的相互作用はすべてゲージ場を媒介とするゲージ力である。この中で、重力は他の3つとは異質なところがある。
基礎的相互作用を1次相互作用として、次々に2次、3次相互作用が派生する。
2次相互作用:原子間力(核力、化学結合力など)
3次相互作用:分子間力(ファン・デル・ワールス力)
4次相互作用:弾性力、圧力など
1次力から4次力まで階層的構造をしていて、それぞれ力の作用に関する3性質を備えている。力の作用の3性質と力の階層性により、多種多様な力が存在し、物質の階層性と自然界の多様性を造り出している本である。
3.素粒子の世界
原子・素粒子などミクロ物質は、マクロ物質とは異なる量子的特性を有している。
・二重性:粒子性(局在性)と波動性(非局在性、干渉性)
・不確定性関係:位置と運動量は同時に確定できない
・粒子の状態を表す波動関数:運動は必然的法則、観測は確率法則
物質観の転換
・二重性、・質量とエネルギーの同等性、・物質と反物質、・真空は空でない
相対論的場の量子論→反粒子:真空から粒子−反粒子の対発生・対消滅
4.対称性とは、その破れとは?
(以下4.〜6.は雑誌『化学』を参照)
素粒子の対称性:外部対称性と内部対称性
対称性の破れ:相互作用による破れと真空の対称性の破れによるもの
要因:外部作用による破れと自発的対称性の破れ(内的相互作用による)、
5.南部理論と小林・益川理論について
対称性の破れた相互作用:弱い相互作用−CP対称性の破れ
自発的対称性の破れ:真空(基底状態)の対称性の破れ
(無限多体系の内部相互作用による)
6.相互作用の統一理論
根元は一つの相互作用が自発的対称性の破れで分岐し、強、電、弱、重力相互作用が 生まれた。
7.宇宙創生期における対称性の破れ:反物質は消えた
宇宙創生期のビッグバンで、真空からクォーク−反クォーク対、電子−陽電子対などの軽粒子対が多量に発生し、光子、グルーオンなどと共に混沌としたスープ状態ができた。そのスープの中で粒子−反粒子は対消滅したり対発生を繰り返していた。 もし、粒子の世界と反粒子の世界の法則が全く同じならば、このスープ宇宙はその状態を繰り返しながら膨張していったろう。その場合は、その宇宙は粒子と反粒子とが同数存在する世界となったろう。あるいは粒子と反粒子は分離して別の世界を造ったかも知れない。そうならば、私たちの住む宇宙とは対称的な反物質からなる反宇宙がどこかにあるはずである。しかし、その形跡は見あたらない。
CP対称性の破れは、粒子の世界と反粒子の世界の法則はわずかに異なっていることを示している。そして相互作用の大統一理論によれば、粒子と反粒子とは相互に転化する可能性がある。すると、ビッグバン以後の宇宙の膨張過程で、反粒子のわずかなものが粒子に変わったとすれば、現在このような粒子のみの世界ができたと推定できる。
8.自然科学の実証性
自然科学理論の正しさを保証しているものは観察・実験による検証である。これが近代科学以後の実証科学の特性である。
自然科学の理論はすでに分かっている自然現象を論理整合的に説明できるだけでなく、未知の領域や現象について予言能力がなければならない。既知の現象を巧く説明する理論は一つとは限らず複数存在しうる。それゆえ、予言能力のない理論(その段階ではまだ仮説である)は、その正しさを検証する方法がなく、永久に仮説のままで止まる。
実証科学:理論による演繹(予言)−観察・実験−理論の検証
このサイクルで、自然科学は進歩発展する。
実証法の変化発展過程
自然科学における実証性の意味を、歴史的に大筋を振り返えることによって、実証法が科学の発展とともにどのとうに変化してきたかを一通り握んでおこう。
古典科学:間接的実証法
思弁的な推論ばかりではなく、経験・観察を拠り所として、多数の間接的傍証をもとに理論を組み立てた。さらにその理論からの演繹的推論で自然認識を深めていった。
典型例は古代ギリシアとインドの原子論。観察による多数の間接的傍証から原子の存在 を推測した。(エピクロス流の原子論は暗闇に差し込む光線の中に見える微粒子の運動(チンダル現象)、ルビーの様な宝石を細かく砕くと宝石の色は失せて白い粉末になるなど。)
間接的実証法の論理:多数の傍証例の整合性
近代科学:直接的実証法
科学の方法の重要な柱として、観測・実験による検証方法を確立した。理論の客観性と確実性を裏付けるための実験法が意識的に工夫され開発されてきた。観測・実験による実証の意義を認識し、直接的実証法を意識的に求めた。
近代科学の「直接的」実証法は、少数例ではあるが典型的実験を工夫し、曖昧さの少ない解釈により明確な結論を引き出す方法である。
例:真空の存在を証明するのに、水銀柱を用いたトリチェリーの実験がそれである。さらに水銀柱の上の中空が真空であること、およびその原因が大気圧であることを確認するために、山頂で実験を行ったりさらに水銀柱の上の中空が真空であること、およびその原因が大気圧であることを確認するために、ついには真空中での水銀柱実験を考案するところまでいったパスカルの実験がある。また、ガリレイは落下法則や慣性法則を導くのに、思考実験による推論と経験を合わせて用い、得られた法則を斜面を用いて検証した。
理論の役割:実験のデザインや装置の設定に前もって理論的考察(思考実験)が必要。データの解析、解釈に理論が不可欠。
現代科学:間接的+直接的実証
現代科学の認識対象は、直接五感に訴えて認識できないものの方が圧倒的に多い。
理論の高度化に伴って、抽象化・精密化が進み、高度の観測・実験技術が要求されるようになってきた。その結果、科学の体系のなかで理論の役割が益々重要になっている。
実験設計、測定データーの解析と結果の解釈など全てが理論に強く依存→「データの理論負荷性」は非常に強く、今後も増大し続ける。
観測手段と測定値の解釈には何重にも理論のフィルターを透さねばならないもの。
例:素粒子論実験・宇宙論の検証法はその典型。
素粒子は直接観測できないから、素粒子が通過した跡にできるイオン化された銀粒子の点列か、あるいは泡箱のなかの泡の点列を見て素粒子の飛跡と解釈している。その点列の状態から素粒子のエネルギー・運動量や種類を推定。この解釈ができるのは、確立された既存の理論を用いた技術のお陰である。クォークは単独では取り出せず素粒子のなかに閉じ込められている。それ故、クォークの観測は、高エネルギー素粒子を衝突させ、途中まで出てきたクォークが作る素粒子の束(ジェット)を捕まえる。ジェットの発生状態から、そのジェットはクォークの成れの果てと解釈するのである。クォークの観測はその素粒子の飛跡の束を見るのであるから、もう一段理論を重ねた解釈を必要とするのである。
ブラックホール(その中から一切の情報が出てこない)の存在の検証法も何段階も理論が介在している。この他に、地球の内部構造、太陽内部の核反応の状況なども、確立された物理学の理論を用いて間接的情報によって実証せざるをえない例は多い。
このような場合、少数例による直接的実証はもはや不可能である。どの実験も確かな結論に導くには不十分であって、あの手この手を使って、多面的に実験を行い、それらの結果を総合して結論をださざるをえない。その過程で必然的に理論が強く介在する。決定的検証法がない場合には、間接的でも証例を多数揃え、それらの間の整合性を要求する、いわゆる総合的判断による間接的検証とせざるをえない。 現代科学にも、直接的実証法が可能なものもあるが、間接的方法にたよらざるをえない分野が非常に多くなっているのが特徴である。
また、永久に再現性のない実験データーは科学データーとはいえず、やがて捨てさられる。また、予言性のない理論は仮設−演繹−検証のルートに載らないので、科学理論とはいえない。このように科学の進歩とともに実証法も変わってきた。このことは自然認識としての科学の意味、ひいては自然観にも反映されてきた。
実証性の論理
科学的実証法は科学の発展過程において古代から、間接的−直接的−間接的方法というサイクルを経て転換してきたが、古代の間接的方法と現代のそれとは質的に異なる。現代の間接法は高度の理論に基づく複雑な実験に頼らざるをえないのがその理由であって、その実験法は可能な限り副次的要因を排除して目的意識的に自然に問いかけることにより、できるだけ確実な直接的情報を取り出すことを意図している。そのデーターや情報に基づき総合的に判断する。したがって、現代科学の実証法は間接的方法と直接的方法、すなはち分析・総合という複合的性格を強くもっている。
通常、間接的方法と直接的方法の間に明確な一線を画することはできない。しかし、程度(量)の差は質的区別をもたらすから、両者の区別は意味がある。このことを前提として、現代科学および将来の科学において益々増大するであろう「間接的実証」の方法とその有効性について考察してみよう。
一般に、ごく限られた少数の現象を説明するだけならば、幾つもの理論が可能である。極端な場合、オカルトでも可能である。しかし、非常に多くの現象や経験事実を説明しえて、矛盾のない理論(そのためには当然他の既存理論とも整合的でなければならない)は非常に少なく、大抵の理論は篩(フルイ)にかけられて失格する。したがって、多くの種類の観察・実験データと同時に、他の全ての理論との整合性をもって、間接的ではあるが「科学的実証」としうる。
この実証法が妥当であり得るためには、自然界における実体と自然法則に関する均一性と斉一性が前提とされる。この前提なしには、再現性も不可能であるし、地球上で得られた法則を遠い太陽や銀河系に適用できないから、理論の整合性は要請しえない。太陽中心の温度を推定し、核反応が太陽のエネルギー源であることを推測し得るのもこの均一性と斉一性のゆえである。
こうして間接的実証法でも科学的実証法となりうるが、その有効性や確実性にはやはり一定の限界がある。例えば、古代原子論は間接的実証法ではあったが原子の存在を推測し、近代科学を経て19世紀末から20世紀初頭にその存在が実証された。確かに原子は存在した。しかし、それは当初予想した物質の究極的実体ではなく、構造のある複合体であった。このように現代物質観は原子の存在を認めつつも、原子は自然の階層構造の中の一つの節として、化学反応における実体であって、古代原子概念とはかなり掛け離れたものである。この物質に関する階層的実体論は直接的実証法と間接的実証法との積み重ねの結果えられたものである。ここに間接的実証法の有効性とその限界がある。自然認識には要素分解の分析法と全体的判断の総合との協力が必要である。したがって、現代科学の間接的実証法の有効性と限界、すなわち、その確かさを評価しうる論理と基準を体系化しなければならない。それは情報理論のもう一つの課題であろう。
将来一層重要となる歴史性をもつ現象(宇宙進化、物質の発展・進化、生物進化)に関する実証性の問題はさらに難しいが、興味あるものである。歴史的現象には反復不可能なものが多いため、実験による検証ができない。反復実験できないということでは、公害や環境破壊の原因解明にも共通している。
明治・大正・昭和前期のキリスト教史
Tプロテタント諸教派の日本宣教開始
大江真道1 明治時代
浦上四番崩れの殉難は、明治政府がキリシタンへの恐怖を払拭できないでいたからで、これに対して、新政府はプロテスタントキリスト教については好意をもっていた、と高橋昌郎はいう(「日本史研究からみた日本キリスト教史」・『日本プロテスタント史の諸相』序論・聖学院大学出版会・1995)。
大内三郎は、敵前上陸したばかりのキリスト教には、神学、信条、教会政治−組織体としての整備−、教職制度などが整わない状態であったにもかかわらず、文明開化の常備薬のように歓迎されたのが、盛んであったとされる明治前期のキリスト教の状態であったとして、全人口三千万にたいしたキリスト教信徒数は僅か11678人に過ぎなかったことを指摘している(『日本キリスト教史』−日本プロテスタント史−432頁)。
大正期に入りキリスト教は、四大教派(日本聖公会−英国教会・日本基督教会−改革長老派・日本基督組合教会−会衆派、メソヂスト、つまり、一般に監督、日基、組合、メソヂストといわれるグループが教派としての体制を固め、かつての全国基督教徒大親睦会(1885−明治18)から日本基督教会同盟(1906−明治39)への相互協力は、1910年のエヂンバラでの世界宣教会議の結果、大きな高まりを見せ、全国協同伝道を実施するようになり、大正期に入って「全国基督教教化運動」として進展している。これは当時の政府や地
1 明治以前の来日宣教師たち
来日した宣教師たちがまず遭遇したのは、信徒になれば国法によって彼らは死刑にされるという矛盾であった。彼らの派遣母体である宣教局や外国伝道委員会の幹部たちは、かような事柄には無頓着であり、情報も不足しており、開国するからには禁教令は撤廃されるものと楽観的な態度であった。しかし、現地の日本の情勢はそんな生易しいものではなたった。徳川幕府を倒した薩長を主体とした新政府の幹部は、キリスト教禁制を当然のこととしており、諸外国と外交交渉においても、この件については無頓着であったから、長崎の浦上村の三千有余の信徒の流罪や処罰について、訪問先の諸外国首脳から手厳しい反対があることを、全く予期しないまま、1871(明治4)年11月2日横浜を出港して渡米し、1872(明治5)年1月25日、米国大統領グラントと会見した。
これよりさき、中国で伝道していて、1859(安政6)年に長崎に渡航し、日本宣教の準備をしていた米国聖公会 (Protestant Episcopal church of USA、一般には米国監督教会と史家たちにいわれている) の宣教師C・M・ウィリアムズは7年滞在している間に日本の幕末の政治情勢を派遣母体の米国聖公会海外伝道局に伝え、米国大統領府に強くキリスト教解禁のために日本政府に外交的圧力をかける猛運動を展開していた。岩倉使節団はグラント大統領の抗議に、一応は内政干渉と突っぱねたものの、譲歩を得ることが出来ず、森有礼や伊藤博文らの意見により、日本の留守政府にキリスト教禁制の高札撤去を伝えるために大久保利通と伊藤博文を帰国させ、キリシタン禁制の高札が撤廃された。
□ 『宣教師ウイリアムズの伝道と生涯−幕末・明治米国聖公会の軌跡−』(第V部、第二章、第四節「邪宗門禁制への挑戦」292−307頁、2000年5月、刀水書房、大江満著)にはこの経緯が詳述されている。
キリスト教の日本の内地への宣教教育活動は「外国人居留地」を拠点としてなされた。1858(安政5)年の安政条約(日米修好通商条約−1865年勅許)で、まず長崎の大浦海岸に埋立地を設け、漸次拡大され、62年には出島地区も編入した。横浜は59年に設けられ、66年に山手地区が制定され、67年には神戸海岸通りと大阪川口にも設けられ、68年には東京築地に設定された。各居留地には「遊歩規定」が課せられ、外国人は10里(40キロ)以内しか出歩くことが出来なかった。それ以遠の土地を旅行するといきには「旅行免許状」の携帯が求められていた。居留地制は、1894(明治27)年の日英改正条約の締結、翌年の治外法権撤廃で、外国人の内地雑居が認められ、廃止された。
安政条約の第8条(「日本のある亜墨利加人自ら其の国の宗法を念じ、礼拝堂を居留地に内に置も障りなく、ならびに其建物を破壊し、亜墨利加人を自ら念ずるを妨ることなし・・双方の人民互いに宗旨につきての争論あるべからず。日本長崎役所において踏絵の仕来たりは既に廃せり」)により、居留地内に礼拝堂を建設することが認められた。1862(文久2)に長崎居留地に英国教会(長崎滞在中のウィリアムズが牧師の任にあたった)の礼拝堂が建てられ、1865(慶応4−明治1)年1月にはカトリックの大浦天主堂が完成した。この教会のマリヤ像の前で3月17日午後3時に、プチジャン神父が浦上村の隠れ信徒に接したのであった。
2 宣教師派遣母体・教派と来日した主な人物
『日本聖公会史』を書いた元田作之進は、4人の宣教師を先着宣教師(パイオニア)としてあげている。彼らは、1859(安政6)年に来日した米国聖公会のC・M・ウイリアムズ(1829-1910)、米国長老教会のJ・C・ヘボン、(1815-1911)、米国オランダ改革派のG・H・Fフルベッキ(1830-98)、S・ブラウンである。その後、特に高札撤廃後は続々と各派の宣教師らが到着している。
キリスト教 諸教派(『日本キリスト教史』200-201頁にリスト参照)
聖公会(英国教会系・三伝道協会→日本聖公会−1988・明治20)
イギリス教会海軍琉球伝道会(1843年創立・ベッテルハイム、那覇へ 1846)
アメリカ聖公会海外伝道協会(PECUSA-C・M・ウィリアムズ、1859、長崎へ)
イギリス教会宣教会(英国教会伝道協会・CMS・1869・エンソル、長崎へ)
イギリス海外福音伝道会(福音宣布協会・SPG・1873、ライト、ショウ、東京)
カナダ英国教会伝道協会(MSCC、ウイクリフ神学校伝道協会1888→カナダCMS1895、内外伝道協会DFMS、カナダ英国教会婦人伝道補助会WA、→MSCC1902)
プレスビテリアン・長老教会→日本基督教会−1890
アメリカ長老教会(J・C・ヘボン、1859、神奈川へ、タムソン、1863、カラゾルス、1869)
アメリカ・オランダ改革派教会(S・R・ブラウン、D・B・シモンズ、1859、神奈川へJ・H・バラ、1862、神奈川へ、G・H・F・フルベッキ、長崎へ)、スコットランド一致長老教会1874(明治7)、カンバーランド長老教会、1877−明治10、関西へ)
コングリゲィショナル・会衆派教会→日本組合教会−1886
アメリカン・ボード(組合教会・新島襄1864.7,18函館から密出国、英国コングリゲイショナル教会・D・C・グリーン1870、神戸へ 1875新島襄、同志社英学校開校)、
バプテスト系−アメリカ・バプテスト自由伝道団(ABF、J・ゴーブル、1860、日本バプテスト同盟)(米国浸礼自由伝道会社、アメリカ・バプテスト・ミショナリー・ユニオン、1860、日本バプテスト教会を名乗ったのは1918(大正7)年、北バプテストのNブラウンが1872、1889(明治22)南バプテストが九州に伝道、英国バプテスト伝道会社は1879(明治12)年、
メソヂスト系−米国メソヂスト監督教会(米国美以教会(MECN)・1873、横浜、東京、長崎、函館で伝道→本多庸一、函館美以教会が札幌独立教会建設の借金を要求・青年困惑−内村の無教会への糸口?)、カナダメソヂスト教会(MCC・1874、静岡教会、中村敬宇−沼津、甲府、長野)、米国南美以教会(MECS・1886(明治19)ランバスとデユ-クス、中国から神戸へ−京都・神戸巡回地、琵琶湖巡回地、広島、山口、下関を巡回地)、米国美普教会(メソヂスト・プロテスタント・チャーチ・1880−明治13、横浜、名古屋、静岡、浜松)
ルーテル派系−米国福音ルーテル教会、→日本福音ルーテル教会、1892−明治25→九州で伝道、フインランド派福音ルーテル教会 1905−明治38、諏訪地方、日本ルーテル教団−1948、東京へ、ルーテル・アワー。
日本救世軍、1895−明治28、ライト大佐ラ15名が来る、京橋区新富町、同年、山室軍平が参加、社会活動に参加。築地に婦人ホーム、娼妓廃業運動(日本社会は明治初年の人身売買禁止令を無視、五万人の娼妓解放運動に挺身した。
基督教会、1883−明治16、ガルスト、秋田、米沢、鶴岡、福島、仙台、東京、ヂサイプルと呼ばれた、教会政治は会衆主義、洗礼は浸礼。
基督友会、1885−明治18、コサンド夫妻、普連土女学校を1887−明治20に設立。良心的反戦主義で「平和」を発行
日本ナザレン教団 1908−明治41、ウイリアムス・M・AとプールLがホーリネス教会に援助され、東洋宣教会の宣教師として米国からきた。永松幾五郎が京都で、のちに福知山で伝道。幾多の変遷を経て戦後、日本ナザレン教団を再建。
ホーリネス教会 ウエスレーの影響のもとに「義認と聖化」の二つの恵みに与り聖潔を実現することを重んじる教会、教派を「きよめは(聖潔派)」という。19世紀前半、聖化運動とともに米国で始まり、英国、ドイツ、日本に宣教された。日本では中田重治を中心に東洋宣教会日本ホーリネス教会、その後身の「きよめ教会」「日本聖教会」の流れ。山陰で伝道した聖公会のバックストンの日本伝道隊、自由メソヂスト教会、日本イエス・キリスト教団など、日本福音連盟系の諸教会が「きよめ派」のグループニ当る。
ロシア正教会(ニコライ、1861、日本駐在のロシア領事館付司祭として函館に到着)
3 日本最初の信徒の結束・三バンド
横浜バンド
日本プロテスタント教会の源流として、J・H・バラに導かれ、横浜に1872(明治5)年結成の日本基督公会のメンバー。押川方義、篠崎桂之助、吉田信義、ら9名が信仰を告白、バラから洗礼を受け、先に受洗していた小川義綏、仁村守三の11名で日本基督公会を結成した。単純な福音信仰にたち無教派主義を取った。この福音主義の精神はのちにこの公会に加わった植村正久によって受け継がれた。さらに本多庸一、奥野昌綱、井深梶之助らが参加した。75年に献堂式を挙げ、日本基督横浜海岸教会と称した。無教派で発足した海岸教会の流れは、いろいろなグループの結合で1877年に日本基督一致教会となり、さらに1891年に日本基督教会の成立し、所属した。
熊本バンド
熊本洋学校開校−1871年、ジェーンズが、熊本へ赴任→1876.1.30に35名が「奉教趣意書」に署名した。これが問題となり、洋学校が廃止されると、1876年、主なメンバーは同志社英学校に転学した。横井時雄、宮川経輝、小崎弘道、金森通倫、海老名弾正、徳冨蘇峰(猪一郎)らは同志社に移り、日本組合基督教会の成立と諸活動に貢献した。平民主義、社会主義の紹介や教育活動に尽くし、近代日本の歴史を推進展開した。バンドというのは班というような意味で使った仲間のことを宣教師がバンドとよんだことからはじまる。
札幌バンド
札幌農学校に教師として附にしたW・S・クラークの感化により、キリスト教を信じ、「イエスを信ずる者の契約」に署名した札幌農学校1,2期生らのキリスト者集団につけられた呼称。彼らによって札幌基督教会(札幌独立基督教会)が設立され、札幌における最初のプロテスタント集団が形成された。一部の者は離脱したが、大島正健、内村鑑三、新渡戸稲造らを中心とする青年の活動は注目され、横浜、熊本と並んでプロテスタント・キリスト教の3大基点の一つとなった。集団と教会形成が官立学校でなされたことなどが特筆される。内村鑑三は無教会主義の聖書グループをつくり、日本の知識人に大きな影響を与えた。
(次号以降へつづきます)
『色彩』の美学 (美学シリーズ7)
一色 宏わたしたちの世界はさまざまな色に満ちている。空の青さ、夕陽の赤さ、木々の緑といった自然の色、さらに、衣服の色、信号の色、ネオンサインの色といった人工の色など実にさまざまな色に満ちている。そしてわたしたちは、自然物にせよ人工物にせよ、それらのものが固有の色を持っていることに疑いをはさむことはまずないであろう。ところが現代の色彩学や心理学はかならずしもこのような「常識」を支持しているわけではない。色彩化学の書物として定評のあるH・キュッツバースは、色彩とは観察者の感覚器官によって生じる「感覚」である、と言った。ニュートンの有名な言葉に『光線には色はない』と、彼によると、それは正式には「赤を作る」光線、「青を作る」光線という。この見方のきそになっているのは近代的自然観であった。色彩の存在を『救出』しようとした哲学者E.フッサールによれば「世界」、少なくとも「生活世界」のなかには色彩が存在している、と言って「射映」と「奥行」と言う概念を使って色彩の現象を取り上げている。
有名なゲーテの『色彩論』は色彩現象を生理的、物理的、そして化学的現象の三種類に分類し、それぞれの特徴を具体例を駆使して示している。ゲーテは色を生じさせる物理的条件の記述と統制に関してはニュートンにとてもおよばなかったが、色を見る際の主体的条件については、極めて優れた洞察を示している。特に、明順応、暗順応、色順応、残像、明るさ対比、色と感情などについては自分自身の体験を通して、すぐれた直観的な観察を行っている。このゲーテの「色彩論」はニュートンの色の研究とは全く違った面で、今日の色の科学の大事な土台となっている。いわば、ニュートンとゲーテは相補い合って、今日の色彩学の礎を作ってくれた恩人といえる。
絵画を制作するうえで、決定的に重要な契機となった体験をカンデイスキーは色彩であったという。自伝的「回想」のなかで、夕暮れに沈んでいくモスクワの姿を印象深く描写している。『太陽はすでに低く、太陽が一日を通じて捜し求め、一日中切望していた最高に充実した力をその手にしている。が、この光景は、長くは続かぬ。あと数分で落ちんとする。そしてその陽射しは緊張のあまりくれないに染まり、次第にその濃さが増してゆく、はじめは寒色、やがてしだいに暖色系に変わりつつ、太陽は全モスクワを一色に溶かしてしまう。まるで、内面全体、魂のすみずみまで震撼させる。あの狂おしいチューバの響きのようだ。否、この赤一色が最も美しい時間ではないのだ!それはそれぞれの色彩がその生命のかぎり輝き、全モスクワを大オーケストラの力強いフォルテイッシモのように響かせ、支配するシンフォニイーの終止和音にすぎぬ。バラ色、ライラック、黄色、白、青、浅緑の、深紅の家々や教会・・それぞれが自分達の歌を・・風にざわめく緑の芝生、低いバスでつぶやく樹々、あるいは千々の声で歌う白雪、葉の落ちた樹々の枝のアレグレット、それに無骨で無口なクレムリンの赤い壁の環。・・・このときを色彩で描くことこそ、芸術家 にとって至難の、だから至上の幸福である。』・・・
・・何と美しい「生きる」という色彩体験であろうか!!
教師も見た目が9割
中條利一郎教育改革への提言を、文献に頼るのではなく、私の経験を通じて披露しよう。
私は昭和13年に舞鶴の明倫尋常高等小学校に入学した。その時の第一印象は先生方の折り目正しい服装であった。男女にかかわらず、先生方は皆上下が揃った背広、今で言うスーツを着用されていた。勿論チョッキ(今で言うベスト)も着用されていた。男女で唯一のちがいは男の先生がズボン、女の先生がスカートを穿いていらっしゃったことである。今とちがって、町で背広を見かけることはまだ稀だったので、今の小学生が入学時に同じ光景を見たとしても、それと私が受けた印象とのちがいは比べ物にならない。舞鶴は西と東に分かれており、西は城下町であると同時に、陸軍要塞司令部がある陸軍の町であった。東は当時新舞鶴と呼ばれていたことからも想像されるように、新興の町で、海軍鎮守府がある海軍の町であった。従って、町で見かける服装の一つは制服であった。私の父は鉄道省(今のJR)の出先機関に勤務しており、軍服ではなかったとは言うものの、やはり制服で、朝、家を出て、夕方には制服を着て帰宅していた。一般の市民はと言えば、町の商店の主人はあつしと呼ばれる和服系のものを着て、前垂れをかけ、客に対応していた。女性は殆どが和服で、洋装(今では死語?)を見るのは稀であった。父が父親参観日に背広を着て来たことがある。級友たちに君のお父さんは先生かと言われた記憶がある。
そういう雰囲気での背広姿である。以後、先生はエライ人という気持ちで接する人になった。ここでいうエライ人というのは権力のある人ではなく、権威のある人を意味する。先生の言うことはすべて大切なことで、その教えを守らねばならないということになる。先生といえども、人間である。その言の中に間違いがあることもある。しかし、子供心に間違いがないと確信を持って授業に接しなければ、授業の内容が身につくことはあるまい。
ところがである。子供がまだ小さかった頃、今度は私が父親として父親参観に参加した。なんと子供の担任の先生はトレパン姿で授業をしていた。咄嗟の訪問ではない。参観日とわかっていてのトレパン姿である。果せるかな、授業の進め方も、教えるというよりは、一緒に遊んでいるというスタイルであった。当然、児童も平気で授業内容を混ぜ返す。唖然とした。その驚きは今でも憶えている。時代は移って、孫もすべて小学校は卒業してしまったが、状況はそのままである。
標題は、言うまでもなく、竹内一郎の「人は見た目が9割」のパクリである。著者には申し訳ないが、私はまだこの本を読んでいない。でも、ここで書いたことは、多分、著者が言いたかったことの教師バージョンになっていると思っている。
教育への議論が後を絶たない。その一つとして、私は教師の服装改革を提言したい。そして、児童や生徒が信頼して授業を受けられる環境を作って欲しい。
畏友、菅野禮司氏からいつも「私達の教育改革通信」を送って頂いている。書かれている内容はすべて教えられることが多く、感謝している。しかし、最近教育そのものの通信が少ないように思われる。その指摘に対し、私が書く破目になったのが拙稿である。
「Yes,WeCan!」
海野和三郎オバマ次期大統領のCHANGEの要点は、‘脱温暖化ビジネスの拡充で環境と経済の危機を同時に克服する’(11/25 朝日社説)ということであるらしい。2,30年後に来ると予想される石油ピーク時の更なる大恐慌への予防策として、主たる産業のエネルギー源を徐々にではあるが石油から再生可能なエネルギーへ移行させる決意をしたことは大いに評価出来る。大変な困難が予想されるが、アメリカの活力で乗り切ってもらいたいものである。
それに対し、日本の役割は、まだ余り自覚されていないが、極めて重要である。思いつくだけでも、次の三つの施策が緊急に必要である。一つは、食料の自給率を高めることである。水田は、森林に劣らずCO2を吸収し炭水化物の米を生産する。山元学校の山元さんが力説するように、戦後、アメリカの自由経済大農政策により、休耕田となっている水田を復活させるだけでも、バイオマスを石油代替エネルギーとすることによる世界の食糧問題に対する貢献である。
第2は、世界自由経済の破綻への対処である。今の世界経済は、金融と投機、悪く云えば、金貸しとギャンブルの経済で、それをコントロールしているのは、数十年前の経済学による直感であり、この2,30年IT産業と共に急速に発展した複雑系科学、何10,何100次元のカオス的変動の法則性を追跡する客観的経済学ではない。現在動いている市場経済を変更することは出来ないが、有力な世界経済の一員である日本が、政府機関で経済学や複雑系科学の理論家などを集めて、客観的な短期長期の経済予報をすれば、急激な世界経済の破局を防ぐことができよう。カオス経済の予測は、100年以上は無理であるが、やってみないと分からないが10年オーダーであれば、8割程度の精度で予報可能ではなかろうか。
第3は、いうまでもなく、世界が期待する日本のものづくりの力である。ただ、問題なのは、異常気象の激化など温暖化の影響を除いては、再生可能なエネルギーの量と価格が石油など化石燃料に及ばないので、石油の減少で価格が上がるまでは、石油消費は急には減らないであろうことである。現状では、石油火力に量と価格で太刀打ち出来るのは原子力であるが、これとても有限な資源である。太陽電池パネルの性能を格段に上げ、価格を格段に下げる必要がある。ただし、今の技術でも、安価な辻内式非結像集光装置で太陽光を10倍集光し、太陽電池による発電の余熱を、森の智慧(矢吹機構)に習い、多賀式粘性ソーラーポンドに送って沸騰水をつくり、水蒸気タービンで発電すれば、家庭規模で石油火力発電より安く電力を得ることができる。また、火山島地下1000mのマグマの高温と太平洋深さ1000mの3℃冷水の温度差による地熱・海洋発電を技術開発すれば、殆ど無尽蔵のエネルギー源となるであろう。
カール・ベッカーさんが云うように、人口密度が高く資源小国の日本は、世界で最も苦境に立つ国の代表であるが、その日本がその苦境を自分の持つ技術力で脱却すれば、それが世界に対する最高の貢献であり、人類の未来を明るくすることになる。危機クライシスには好機チャンスの意味もあると、マタイス神父さんも云っていた。
『祈り』
みずきすずこ華やいだ波動にふうっと見上げると、
ホッとして深呼吸です。
老樹はゆったりと大きくうなづき、
花たちはにぎやかにほほえんで、
花の祈りに応えてくれました。
それはそれはやさしい秘密の祈りです