132号,20098

私達の教育改革通信

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もくじ

中島みゆきの教えてくれたこと

〜 「大きな詩人」への返信

長谷川弘基

T. 再会、あるいは「歌」と「詩」

U. 回想  ――間奏曲――

V. 25年後の返信

 

1)「大きな詩人」

2) 叙情詩と演劇性

3) 多様な女

4) ペルソナ・カメレオン・キマイラ

5) 言葉と否定、言語の二項対立的あるいは「弁証法的」性格

6) 観念的恋愛詩

7) 愛の再定義、あるいは気に掛けること

 

 

追従要求型教育の臨界点〜ハインリッヒの警告〜

石川雅章

 

うなぎ川柳

金沢一輝

地球システムの危機への対応

海野和三郎

 

「世界の希望としてのYubanda

日西墨友好400年の思い

`島庸二

 

ひとりでつくる映画の可能性————『精神』

佐々木聖

 

赤ちゃんにとって、「返事をしてくれない」、

「思いを汲み取ってくれない」テレビの危険性

坂本千鶴子


 

 

中島みゆきの教えてくれたこと

〜 「大きな詩人」への返信〜

長谷川弘基

 絵描きの最も確かな批評家はおそらく絵描きであろう。セザンヌの仕事の大部分はモネの絵に対する批評になっていると思われるし、例えばピカソの仕事の一部分はセザンヌの絵の批評になっている。同じように、作曲家の最も確かな批評家は、やはり作曲家であろう。ベートーヴェンの音楽はハイドンやモーツァルトの音楽に対する批評になっているし、ブラームスやワーグナーの音楽はベートーヴェンの音楽の批評になっている。

 

 このようなことは、「伝統」とか「影響」という言葉で言えば済むことかもしれない。つまり、芸術家は過去からの伝統の中にしか存在できず、先行する芸術家の影響下で仕事をするように宿命づけられていると言えば十分なのかもしれない。しかし、「批評」の本質が、批評される対象の顕在的、あるいは潜在的な限界(領域)を示すことであるなら、モネに代表される印象派の自然の描き方に興味と関心を持っていたセザンヌが、単なる自然の模倣に満足できず、自然を画布上に再構成しようと試みたとき、セザンヌの作品が印象派絵画に対する最良の批評になっていたと言うこと、あるいは、モーツァルトの音楽の魅力と限界を熟知したベートーヴェンが、自らの作品を通して西洋音楽の領域を拡大したとき、その音楽がモーツァルトの芸術に対する最良の批評になっていたと言うこと、それは必ずしも無駄な饒舌ではないと思われる。このような意味において、ある詩人に対する最良の批評家はもう一人の詩人であり、ある小説家に対する最良の批評家はもう一人の小説家であるかもしれない。

 

 そうだとすれば、ある歌手に対する最良の批評家は、もう一人の歌手であると言いたくなる。事実、もしも私が歌手だったら、以下のような文章を書く代わりに、中島みゆきの歌を自分の信じるように歌い直すことによって、あるいは、彼女の歌に対する返歌のようなものを自ら歌うことによって、彼女の創造した世界の魅力と限界を明らかにしえたかもしれない。だが、私は歌手ではなく、文章を書いて考えるしかできない人間である。声の代わりに文章を用いるしかない。

 

 しかし、最初に明記しておきたいのだが、以下の文章の目的は、カリスマ的人気を博している中島みゆきというシンガーソングライターの「魅力」を明らかにすることではない。直接面会したこともなく、言葉も交わしたことのない人の「ひととなり」を表す術を私は持ち合わせていない。私が知っているのは、ただ中島みゆきという歌手がこれまで歌ってきた、おそらくは400曲を超える歌だけである。(残念ながら、その全てを聴き尽くしたわけではない。)それらの歌を聴きながら、ときに深く心を動かされ、不思議に思い、その不思議さの正体を知りたいと願いつつ、折につけ考え、そしてわかったこと。それを書き留めておくことがこの文章の主な目的である。

 

 

I. 再会、あるいは「歌」と「詩」

 

 比較的最近、2009年の桜がまだ咲き誇っていた頃、普段は全く聴かない日本語の歌が、ほとんど偶然のように耳に飛び込んできた。「普段は全く聴かない」と言っておきながら、最初のものの数秒で、それが中島みゆきの声であることは簡単に知れた。25年前までは、その時点で手に入る彼女の全てのLPレコード(まだCDは主流でなく、すでに35枚のアルバムを出している彼女の作品中、せいぜい10枚に過ぎなかったにしても)を所有して、友人や隣人が辟易とするほど繰り返し彼女の歌を聴いていたのだから、その声を忘れるはずはなかった。

 

 懐かしさもあり、ぼんやりと、聴くともなしに聞いていた。そして、その歌が終わる頃には、単に驚きというには不十分なほど強い衝撃を受けていた。その衝撃の直接の理由は、おそらく三つあり、その一つは、私の知っていた25年前の中島みゆき(その頃すでに彼女は卓越したシンガーソングライターであり、谷川俊太郎や天沢退二郎などの著名な詩人たちからも認められるような存在であった)と比べて、彼女が歌手として「成長した」と直感されたこと、もう一つは、その歌詞の含んでいる内容が、少なくとも私には「驚くべきこと」と思われたこと。そして、最後の、三つ目の理由については、ここでそれを明らかにすることは、不可能ではないにしても、あまりに個人的なことなので、とりあえずは先送りしたいと思う。

 

 一つ目の、「歌手として成長した」という思いは、プロの歌手に向かっては失礼千万かもしれないが、かつてのファンの一人としては、単純に感動的なほど嬉しい発見だった。声量も以前より豊かになり(年齢と共に衰えるのではなく)、昔から定評のあった表現力は、増したと思うことはあり得ても、衰えたとは決して言えない安定感を示していた。かつての歌手が「変わらない」どころか、「良い方に変わっている」ことを知って、自らも加齢の重荷を徐々に痛感しつつあるとき、その積み重ねられた研鑽を想像すると、一握りのスポーツ選手たちの努力に対して感じる驚きと似たものを感じたと言えば、そのときの感慨に近いだろうか。

 

 二つ目の、その歌詞の中に表されていた驚くべき内容とは、以下に記すようなことである。かなり長い分析になるが、それが同時にシンガーソングライターとしての中島みゆきの高い技量を如実に示すことになるので、煩瑣になることを厭わずに述べてみたい。

 

 そのとき耳にした歌は「二隻(にそう)の舟」という歌だった。実際には、この歌は決して最新のものではなく、資料によれば1989年の作品であったが、そのときの私は中島みゆきの「新しい歌」だと思って耳を傾けていた。これは今思えば「幸せな誤解」でもあった。直ちにその歌を手に入れ、魅入られたように執拗に繰り返し聴いてみたが、最初に感じた驚きは深まるばかりだった。最も端的に耳と心を刺したフレーズは、歌の最後に繰り返される「わたしたちは二隻の舟ひとつずつの そしてひとつの」というものである。これがなぜそれほど「驚くべき」ものなのか?

 

二隻(にそう)の舟 

(以下の引用中、数字と起承転結の文字、強調は筆者による)

 

(1)起          時は 全てを連れてゆくものらしい

                      なのに どうして 寂しさを置き忘れてゆくの

                      いくつになれば 人懐かしさを

                      うまく捨てられるようになるの

 

                      難しいこと望んじゃいない

                      有り得ないこと望んじゃいない

 

                      時よ 最後に残してくれるなら

                      寂しさの分だけ 愚かさをください

 

(2a)承      おまえとわたしは たとえば二隻の舟

                      暗い海を渡ってゆく ひとつひとつの舟

                      互いの姿は波に隔てられても

                      同じ歌を歌いながらゆく 二隻の舟

(2b       時流を泳ぐ海鳥たちは

                      むごい摂理をささやくばかり

                      いつかちぎれる絆 見たさに

                      高く高く高く

 

(2a       敢えなくわたしが 波に砕ける日には

                      どこかでおまえの舟が かすかにきしむだろう

                      それだけのことで わたしは海をゆけるよ

                      たとえ舫い網は切れて 嵐に飲まれても

(2b       時流を泳ぐ海鳥たちは

                      むごい摂理をささやくばかり

                      いつかちぎれる絆 見たさに

                      高く高く高く

 

(3a)転     おまえの悲鳴が 胸にきこえてくるよ

        越えてゆけと叫ぶ声が ゆくてを照らすよ

        きこえてくるよどんな時も

(3a      おまえの悲鳴が 胸にきこえてくるよ

        越えてゆけと叫ぶ声が ゆくてを照らす

 

                      難しいこと望んじゃいない

                      有り得ないこと望んじゃいないのに

 

(4a)結      風は強く波は高く 闇は深く 星も見えない

                      風は強く波は高く 暗い海は果てるともなく

                      風の中で波の中で たかが愛は 木の葉のように

(4a       わたしたちは二隻の舟 ひとつずつのそしてひとつの

                      わたしたちは二隻の舟 ひとつずつの そしてひとつの

                      わたしたちは二隻の舟

 

 最初聴けば、この歌はどうやら愛し合う二人の強い絆と、潜在する別離を歌っているように思われる(少なくとも、私は最初はそのように聴いた)。そのときでさえ、「わたしたちは二隻の舟ひとつずつのそしてひとつの」と言われると、ただそれだけで、愛と孤独、宿命的共感と、それにもかかわらず人間存在に必ずつきまとう絶対的孤立(人は誰もが、どうしようもなく個人であるという意味における絶対的孤立)の「同時性」が一行の中に、つまり一瞬の内に表現されていることに驚くしかなかった。「一つであること」と「二つの孤独(一つ)があること」という一種の矛盾が鮮やかに乗り越えられ、強い緊張を内在した、したがって大きなエネルギーを内に秘めた均衡が達成されている。単純な比較は軽率の誹りを免れないが、それでも、例えば、芭蕉の辞世の句「旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる」が、エネルギーの低減(病む、枯れる)と増大(夢、かけめぐる)という矛盾の統合を軽々と達成していることにも共通する完成度を示している。あるいは、全くの偶然ながら、これも25年くらい前に見て大きな衝撃を受けた、ムンクの『病める子ども』や『孤独な人々』という絵画を、見当違いと思いつつも、連想せずにはいられなかった。ムンクの『病める子ども』は、病死したムンクの姉を描いたそうだが(だとすれば、ムンクは自らが子どものときに夭逝した姉の姿を後年回想するようにして描いたのだろう)、たった一人で死んでいかねばならない少女の孤独が、恐ろしい叙情と非常に強い共感で描かれていた。『孤独な人々』という絵では、恋人同士と思しき男女が、暗鬱な空気の漂う戸外に立ちすくんでいた。愛し合っていても人はどうしようもなく孤独だ。その絵はこうした思いの苦しい吐露のように感じられた。そして、中島みゆきの歌詞も、ムンクの絵よりは遙かに肯定的表現であるにしても、「強い絆で結ばれた私たちは二人で一つだ。けれども、同時に、私たちはそれぞれに孤独だ。だからこそ、私たちは同じだ」と告げていた。この明らかな矛盾を、その歌詞は見事に解決し、表現することに成功している。それは、ただ第一級に優れた詩にのみ可能な表現である。(というか、それこそが詩の言語の特徴である。)そう直感した私は、すでに第二の天性となりつつある詩句の分析検討を始めていた。この歌詞は、結論を先取りして言えば、その構成の巧みさにおいて、内容と表現の一致において、最も優れた詩の一つだと言える。

 

 しかし、最初から、心構えはしていたが、最大の難関が行く手を阻もうとしている。歌と詩は、いったい何が違うのだろうか? 歌を全く詩として扱うことには、何か深刻な問題が潜んでいるのではないのか? 歌詞を詩として読んでしまうと、心ならずも足下を掬われてしまわないだろうか?

 

 歌と詩が本質のおいて何も違わないと言い放つことができれば話は早い。確かに叙情詩に限れば、日本語でも西洋語でもその語源において、(少なくとも私の理解するところでは)歌と詩は不可分な関係を持っている。ギリシア語起源のlyricという語は、リラと訳されもする竪琴lyreと関係するし、短歌や長歌が歌であることは見ての通り。詩は、歌われ、吟じられ、朗唱されてきたはずである。しかし、歌われるものとしての「歌詞」と、活字となって読まれる「詩」は、事実として乖離している。何がこの二つを切り離しているのか?

 

 この問いに対する最も単純で最も直截な答は、「歌は歌われる、詩は読まれる」に尽きよう。一つの同じ表現が特定のメロディーを伴って歌われるとき、それは歌詞となり、声に出して、あるいは無言のままに読まれるとき、それは詩となるのではないか。詩が歌われるなら、それは歌だ。もしも歌が読まれるだけなら、それは詩だ。いわゆる現代詩は、歌われることを断固拒否した詩とでも言えようか。それがはたして賢明な選択であったかどうかは別問題である。

 

 このように考えると、歌詞は劇の台本に似ている。台本は単に読まれるだけでも相応の意味を持つことはできるし、人を感動させることもできるだろう。しかし、台本は実際に上演されて、初めてその真価を示す。同様に歌詞も、単に活字となって読まれるだけでもそれなりの意味を持つことがあるとしても、歌われてこそ本領を発揮するにちがいない。

 

 歌における声の重要性は絶対に無視できない。声、そして喉の存在感が歌という芸術にとってどれほど決定的な意味を持つことか。同じ歌でも別の歌手が歌えば全く別の歌になってしまうことを思い出せば、このことは自明となる。まして中島みゆきのように特徴的な歌唱であれば、ただ文字上だけでその意味や魅力を検討してみても、非常に大切なものを取りこぼしてしまうことはおそらく避けがたい……

 

 しかし、とりあえずは歌詞を「読む」ことにしよう。

 

 「二隻の舟」は「時は全てを連れてゆくものらしい」という一行で始まる。「時」は、中島の最も本質的なキーワードの一つである。実質的なデビュー作でもある「時代」の、そのタイトルにもすでに「時」が含まれているが、その中心的主題は「まわるまわるよ 時代は回る 喜び悲しみ くり返し」であり、時の変遷(回帰)である。また、三枚目のアルバムとなる「あ・り・が・と・う」の最後の曲(中島のアルバムの掉尾を飾る曲は、ほとんど例外なく、熟読玩味ならぬ傾聴玩味に値する)でもある「時は流れて」にも明らかな通り、彼女の歌の中から時の推移に関連する歌を拾い出せば、枚挙に暇ない。時の流れの中で変化するものと変化しないもの、この対比が中島の全創作を通して重要なテーマを構成しているが、「時」は残酷な一面を持っているので、この歌では「時」が現れた途端に「老残」も顔を覗かせる。それは一人残された者の「寂しさ」として表される。

 

           難しいこと望んじゃいない 

           あり得ないこと望んじゃいない

 

           時よ 最後に残してくれるなら

           寂しさの分だけ愚かさを下さい

 

この願いの提示が、見事な(いささか出来過ぎと思われる程に見事な)起承転結を構成しているこの歌詞の起部になっている。

 

 この起部に続いて、「おまえとわたしはたとえば二隻の舟」という、この歌のメインモチーフが登場する。中島の個々の歌における絶妙な言葉遣いに関しては、逐一指摘していたら、それだけで一冊の分厚い注釈書が出来てしまう。端的にその労には切りがない。が、二隻をわざわざ「にそう」と読ませることに関しては、このような「流用・濫用」に眉を顰める向きもあると耳にするので、ここで簡単な「弁護」を試みておきたい。

 

 一般に詩の中で一見風変わりな言葉遣いが用いられたとき、その「正当性」を証すのは、国語審議会ないしは類似のアカデミーではないし、分厚い辞書でもなく、また広く一般の慣用でもない。詩の中の言葉遣いが正しいか否かを判断するものがあるとすれば、それはただその詩を措いて他にはありえない。それはちょうど、ある絵の中の描写や色遣いの正邪を判断するものがあるとすれば、その絵の出来具合を措いて他にはあり得ないのと同断である。つまり、「二艘の舟」ではなく「二隻の舟」と記し、かつそれを「にそう」と読ませることで(歌うことで)、もしもいっそう豊かな意味が生まれるのであれば、「二隻(にそう)の舟」という表現は成功した表現であり、その意味において「正しい」表現と言わざるを得ない。

 

 では、「二艘」の代わりに「二隻」と記す効果は何か? 先ず、歌われるためには、「にせき」ではなく、「にそう」という「音」が必要であっただろうことは、自らの口でこの歌を実際に歌ってみれば一瞬にして了解できる。最初に、漢字に先行して、「にそうのふね」という音の列があったということはほぼ確実であろう。その次に「二そう」の漢字を探る作業が始まる。「艘」は舟の総称であり、舟・船の数を数えるときに使う。一方、「隻」は、これも舟・船の数を数えるときに使うが、対を成すものの一つを指すときに使うと辞書にある。これだけでもすでに、この歌詞においてはこの漢字の方が明らかに好ましい。加えて、「隻」は、船や車だけではなく、「人」を数えることもできると辞書は続く。これですでに勝敗は決した感がある。しかし、ダメ押しとして、「隻」の第一義は「鳥一羽」であると辞書は宣言する。舟=木の葉=(小鳥)のイメージ連鎖が、この歌にどれだけ豊かな深みを与えることになるか。鳥のつがいの強いパートナーシップはほとんど伝説的と言えるし、鳥が人の魂を運ぶ、あるいは人の魂そのものという連想も強い。さらに、嵐の海を進む小舟の映像は、同時に嵐の空を渡る小鳥の映像に重なる。加えて、舟と鳥の連鎖が、例えば「宙舟(そらぶね)」という中島の歌に明らかな通り、彼女の歌世界、世界認識にとって、その意味の追求はさておき、非常に重要な要素となっているらしい事実も確認しておきたい。つまり、語の持つコノテーションを考慮したとき、それだけで「二隻(にそう)」である他はなかったことを理解することは、それほど難しいことではない。加えて、孤独な舟と孤独な鳥のイメージを重ねることができるのであるから、この「隻」という語を選択したことは、十二分に正当化できるだろう。

 

 「二隻(にそう)の舟」という表記の正当性を確認した上で、承部では、「おまえ」と「わたし」の宿命的ともいえる絆が描かれる。この二人は、恋人でもいいし、親子でもいいし、同志でもいい。ともかく「同じ歌を歌い」「暗い海を渡ってゆく」二人である。しかし、時流(文字通りに、時の流れとも理解できるが、第一義的には『流行』であろうし、従って『時流を泳ぐ水鳥たち』とは、『流行に乗じているものたち』であろう)の中で、その絆(舫い綱)はいつか切れてしまう。「時流を泳ぐ水鳥たち」は、小舟と違い、とりあえずは難破の厄災とは無縁の安全な地点に自らは留まり、「いつか絆は必ずちぎれる」という「むごい摂理」を「高く高く高く」ささやく。しかし、はたして「『高く』ささやく」ことが可能なのだろうか? 「高く高く高く」は何を意味しているのか? 海も空も自由に行ける水鳥が、しかも時流に乗った水鳥が「高所から」眼下で繰り広げられる苦闘や悲劇を見下ろす? そして、自らの観察から得た知識を「高らかに」そしておそらく冷ややかに呟く? ここで、私に詩を読む手ほどきをしてくれたイギリス人恩師Roger Matthewsの言葉を思い出したい。「詩においては、全ての or and であり、全ての and or である。」今もって至言だと思う。詩の世界の公理は「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」である。そしてさらには、「あれかこれか」なのかそれとも「あれもこれも」なのかという問いそのものを、宙づりにして無効にする。かくて、「暗い海」は今や海を離れ、「時の流れ」となり、人の世となる。

 

 いや、「暗い海」が人の世を表すことなど、特に言葉を費やして論じることではなく、最初から自明であったともいえよう。起部から承部への移行に関して真に興味深い点は、年老いて一人残された、あるいは一人で残されることを恐れつつある、おそらくは孤独な女性が、いったいいつ、どうして「おまえとわたしはたとえば二隻の舟」という自覚・認識を獲得できたのかという点にある。事実、歌の中の声は

 

           敢えなくわたしが波に砕ける日には

           どこかでおまえの舟が かすかにきしむだろう

           それだけのことで わたしは海をゆけるよ

           たとえ舫い綱は切れて 嵐に飲まれても

 

と歌う。この声の主にはすでに暗い海を一人で渡る「覚悟」ができている。今や海鳥たちのお節介なささやきは、その強い覚悟の前ではただのささやきに過ぎない(彼らは「ささやくばかり」で、事実としてはいかなる影響力も、プラス、マイナスを問わず、持ち得ない)。そのささやきは、遠い彼方の、極めて卑小なものに過ぎなくなる。

 

 しかし、この「覚悟」は、いつ、どこから与えられたのだろうか? ここで、今度は私のイギリス人師匠ではなく、日本の詩人・立原道造の「教え」を思い出すことにしたい。立原によれば、詩とは「すべての『なぜ?』と『どこから?』との問ひに、僕らの『いかに?』と『どこへ?』との問ひを問ふ場所〔中略〕、僕らの言葉がその深い根源で『對和』となる唯一の場所」とされる。これを私なりに言い換えることが許されるなら、「生産的な問いを魅力的に(つまり、ついついその問いに対する答えを探したくなってしまうように)提出する詩こそが良い詩といえる」となる。さもなければ、詩は説教や人生訓、あるいは単なる嘆き節と大差なくなってしまう。つまり、「二隻の舟」の起部から承部への移行部分には、立ち止まって考えるに値する問い・謎が潜んでいる。逆に、もしもこの謎が問うに値する謎でないのなら、この歌詞はまとまりを欠いた、相当に情動的ではあるにしても、致命的な過誤を内包した「詩もどき」になるしかない。詩中に問うべき謎を見つけ、自ら問い質したとき、それが優れた詩であるなら、極めて興味深い返事を必ず送り返してくる。たとえそれがデルフォイの神託に似た、もう一つの謎かけという形式の答であるとしても。

 

 しかし、謎のような問いに対して一刀両断的な答えを期待することも、詩の本性(あるいは、芸術作品の本性というべきか)に反した行為である。芸術作品が提出する問いは、言うなれば無限の生産性を秘めた問いであるのだから。さもなければ、その作品はいつか「消費し尽くされ」、「解決済み」の印を付され、やがては忘却される。古典が長く存続する理由の一つは、それらの作品が今なお決して解かれることのない永遠の謎に守られ、それゆえに次から次へと新しい問いを産出し続け、それに応じるように、今なお新しく興味深い解釈が呼び出され続けるからである。そう、優れた詩はいつもアポロンの神託にどこか似ている。それをイギリス・ロマン派の詩人ジョン・キーツはギリシアの古甕に喩え、「決して汚されることのない静かな花嫁、沈黙と時の養い子」と美しく呼んでいる。詩はアルカイックな微笑を浮かべ、いつまでも静かに佇む。

 

 ところで、こう書きながら、私は内心では小さな不安を感じる。年老いて一人残された、あるいは一人で残されることを恐れつつある、時に向かって「寂しさの分だけ 愚かさをください」と懇願しなければならない人物が、いったいどうして「おまえとわたしはたとえば二隻の舟」という自覚・認識を獲得できたのかという問いは、私以外の聴き手にとっては、最初から謎でも何でもなかったのではないだろうか? というのは、私が「見つけた」と感じている「答え」は、気がついてみればあまりに当然なことなのだから。起部から承部への移行に伴い、声の主が入れ替わっているかもしれないことなど、多くの人々には、この歌を耳にした途端から自明だったのではないか。起部の声の主が女性的であることは、語尾と全体の調子から感知できる。一方、承部の冒頭「おまえとわたしは」の言葉遣い、特に相手を「おまえ」と呼ぶことには、その声の主を簡単に女性的と見なすことを難しくする要素が認められる。むしろ、相手を「おまえ」と呼ぶ主体をあっさりと男性と見なしてみれば、「おまえ」という言葉遣いも、そして、強い覚悟の由来も納得がいく。承部で語られていることは、例えば、起部の語り手(女性)の半身ともいえる人物(男性)が以前に彼女に向かって語った中身ではなかったのか? もちろん、この承部においても、語り手は決して「オレ」でもなく「ボク」でもなく「わたし」である。したがって、この語り手を簡単に「男性的」と見なしてしまうことは軽率かもしれない。歌詞の言葉遣いはこの種の単純化を強く拒絶している。だが、この歌の中に複数の語り手が存在しているかもしれない可能性が早くも提示されている事実を確認しておくことは決して無駄ではない。

 

 なぜなら、歌が転部へ進むと、とりわけアルバム『EAST ASIA』に収録されたバージョンではいっそう明らかであるが、歌い手の声がコーラスを伴い、事実として複数化されている。つまり、3人の歌い手によって

 

           おまえの悲鳴が 胸に聞こえてくるよ

           超えてゆけ と叫ぶ声が ゆくてを照らすよ

 

というフレーズが交互に、それこそ繰り返し押し寄せる波のように、そして重なって、歌われる。それはあたかも「おまえ」と「わたし」の二人が交互に、お互いに向かって「おまえの悲鳴が 胸に聞こえてくるよ」と言い交わしているかのようである。とは言うものの、『10 WINGS』というアルバムに収録された別バージョンでは、この箇所はコーラスではなく、一人の歌い手の多重録音によって歌われている。このような仕掛けは、起部から承部への移行に伴う歌い手の変化が、登場人物の変化というよりも、一人の歌い手にとっての時間の推移、つまり、老女が若かりし頃のことを回想している可能性、つまり、「おまえとわたしは たとえば二隻の舟」と言って(歌って)いるのが「彼」ではなく、「昔の彼女」だという可能性を示しているのかもしれない。しかし、いずれにしても、声が複数化されている事実には相違ない。

 

 それにしても、「胸に聞こえてくる」と言わざる得ない哀切! もとより叫ぶ方にとっても断末魔の悲鳴であろうが、聞く方にとってもそれはまさに胸を切り裂くようにして飛び込んでくる悲鳴であるに違いない。その悲鳴は、決して言葉では表すことのできない悲鳴であろうし、おそらくは音にさえならない悲鳴であろう。(だからこそ、耳には聞こえない。)

 

 二つの存在を結びつける絆の強靱さを示すもう一つの生々しい表現は、すでに承部の後半にも認められる。

 

           敢えなくわたしが 波に砕ける日には

           どこかでおまえの舟が かすかにきしむだろう

           それだけのことで わたしは海をゆけるよ

 

「きしむ」という表現は、先の「胸に聞こえる」と同様に、二つの存在の間のコミュニケーションが単に言葉の上でのことではなく、(大げさな用語は使いたくはないが)メルロー=ポンティならば「共鳴する身体」と呼んだに違いない、他者の痛みを自らの痛みとして感じずにはいられない、正にそのような身体の存在を表していると感じられてならない。そして、そのような他者がどこかに存在していると信じることができるなら、「それだけのことで わたしは海をゆける」のである。二人を結びつける絆は、確かに「愛」と呼ばれているものであるが、それは端的に、無条件の信頼と言うべきものであり、ただそれっきりで、他には何もないのだと信じられる。

 

 起部から承部への移行に伴って、声の主が変わる可能性については前述の通りであるが、承部から転部への移行ではこの可能性はいっそう確実なものになる。承部で「わたしが波に砕ける日には/どこかでおまえの舟が かすかにきしむ」と歌われたのに対し、転部では「おまえの悲鳴が 胸に聞こえてくるよ/越えてゆけ と叫ぶ声が ゆくてを照らす」のである。つまり、転部における「越えてゆけ と叫ぶ声」の主が、承部での「敢えなく波に砕けた舟」でなくて何であろう? 転部において、一人残された(自らの半身に先立たれた)小舟は、拒むことのできない委託を「敢えなく波に砕けた」半身から受け取り、その責任を引き受ける(「聞こえてくるよ どんなときも」)。無条件の信頼は無条件の責任を、それこそ切っても切れない絆で結びつける。自らの最期の声を相手が聞くであろうという信頼、自らの破滅を悲しむ存在がこの世にあるという信頼、しかも一人残されたその相手がなおも進み続けるであろうという信頼、これら絶対的信頼は全て同時に、それと正確に釣り合うだけの絶対的責任の存在を語る。

 

 そして、私たち聴き手はこの歌のクライマックスを迎える。コーダへ進む直前に、ある意味では十分人間的といえる、弱気ゆえの不安を示していた起部のフレーズが再び顔を覗かせる。どれほど強靱な魂であっても、一種の退行の時を免れることはない。いや、むしろ退行の生じることの方が自然であろう。歩き続けるためには、人は眠り、ときに夢見る必要があるのだから。

 

           難しいこと望んじゃいない

           有り得ないこと望んじゃいないのに

 

だが、この嘆きは、今度は微妙な「のに」を伴い、すぐさま力強く否定される。(この部分の真の巧みさは、もはや歌を聴いてもらう他にはない。「望んじゃいないのに」の「のに」は、単に諦めの詠嘆を表すのではなく、「有り得ないこと望んじゃいないのに/風は強く…」と切れ目なくひと続きに歌われることで、非常に強い逆接となり、それゆえに、まるで強風の中で嘆き声が吹き飛ばされるかのように、諦めはかき消される。)しかし、単に否定と言っては正確を欠く。敢えなく先立った他者からの「越えてゆけ」という委託ゆえに、「わたし」は一人でも暗い海を渡らねばならない。風と波と闇がこの嘆きさえをも飲み込んでしまうのだが、その無情さゆえにこそ、ひとは一人でこの暗い海を渡ることができるのである。寂しさや人懐かしさを捨てたいという願いは、にべもなく否定される。が、この否定が強力な肯定を導き出す。風の「強さ」も、波の「高さ」も、海の「暗さ」、したがっておそらくは「深さ」も、ここに至っては不思議なことに全てどこか逆説的に肯定的な価値を反映し始める。つまり、この自然の脅威と向き合い、正しく(危うく)均衡を保っている人間の「強い」「高い」「深い」思いや志しが存在してこそ、「木の葉」に過ぎない小舟は進むことができるのだから。この「木の葉」をパスカルの一本の葦と重ねても決して的外れではないだろう。この脆弱な一本の葦は、今や「存在しなければならない」という命令にも似た委託を全身で受け止め、その覚悟と共に立っているのである。そのような存在が「一つで二つ」「二つで一つ」でなくて何であろうか。そして、これこそがこの歌の歌としての、あるいは詩としての、非常に高い完成度を示しているのだが、「複数の声」、つまり「わたし」と「おまえ」の二つの声を混ぜ合わせて一つの歌にすることによって、この歌がそのまま「二つで一つ」と言われる「二隻の舟」の姿を体現している。この歌が二隻の舟なのである。中島の切実な、しかし朗々とした声の流れは、そのまま荒れた海を進む小舟の姿を髣髴とさせる。言葉による造形の非常に美しい手本がここにある。

 

 ここで表現されている尋常でない強さが、主に曲調と歌声に由来することが確かだとしても、上述の「のに」(起部で最初に登場したときにはなかった「のに」)の絶妙な使用に加え、さらには、「私たちは二隻の舟」という「宣言」が、今度は、承部で提示されたときと異なり、「たとえば」という遠慮がちな留保をかなぐり捨てている点にも注意したい。コーダにおける「わたしたちは二隻の舟」という表現は、単なる叙述ではなく、願望でもなく、強い覚悟の表明に他ならない。それは価値の根本的な逆転を意味する。一人残された孤独な小舟が決して「孤独」ではなく、あの遙か遠くからの「委託」を受け取る限りは、逃れようもなく必ずや二隻なのだという自覚。この覚悟の強さこそが、聴き手の胸に迫ってくるものの正体であろう。

 

 また、この結部(コーダ)は、単なる詩では表現できない、メロディを伴った歌ならではの絶妙な効果を生み出している。というのは、結部の前半の3行は、風や波、そして闇に象徴される進路の困難さと危険を表し、後半の3行は、それにもかかわらず、「わたしたちは二隻の舟」という断固とした全肯定的表現になっており、その限りでは対照的である。しかし、メロディは完全に同一のフレーズが反復されており、前半も後半も全く同じである。つまり、詩や歌の宿命としてこのように時間的に前後して表現されてはいるが、実質的にはこの3行+3行は、同時に、重なって響くものとなる。(同じメロディであるがゆえに、一方の言葉を聞けば他方が響く。)風が吹き荒れ、波の高い、暗い海を、木の葉のような舟(ここでは「愛」、「たかが愛」と正体を告げられている)が進むイメージが克明に描き出される。

 

 しかし、ついに「たかが愛」と呼ばれた小さな舟は、ただ一隻である。固い絆で結ばれていたもう一隻の舟は、すでに海の藻屑となり果てているのだから。だが、それでもやはり、この愛の舟は二隻なのである。行く手を照らすおまえの悲鳴は、どんな時も闇を越えて聞こえてくる、とっくの昔に難破してしまっているとしても。このような奇跡は、ただ記憶によってもたらされるのだと言ってしまうのは、あまりに私の独断であろうか? そうでないという確かな自信は、残念ながらない。残されるものは「寂しさ」と「人懐かしさ」、そしてこの歌の中に明記されていないからこそ浮かび上がってくる「思い出」だけだという推察は、冒頭の老残のイメージを通して誘導される。歌詞を通して、愛の別名が無条件の信頼と責任だということは明らかにされている。さらに、この歌の中には複数の声が確かに響き渡っている。しかし、この三点から、この歌の隠れた主題が記憶だと主張するのは、私の単なる思い込みに過ぎないと言われても仕方があるまい。そして、これは十分にありえることだが、私が「二隻の舟」を聴いて、すぐさま「無条件の責任」と「記憶」を考えた背景には、およそ25年前に最後に聴いた中島みゆきの歌が「忘れてはいけない」という歌だったという、極めて個人的な事情が作用しているのかもしれない。私は、より正確には24年前のある日、その歌を聴き、それを深く心に刻み込んで、それ以後中島みゆきの歌を固く封印した。

 

 

忘れてはいけない

 

           忘れてはいけないことが必ずある

           口に出すことができない人生でも

           忘れてはいけないことが必ずある

           口に出すことができない人生でも

 

           許さないと叫ぶ野良犬の声を

           踏み砕いて走る車輪の音がする

           認めないと叫ぶ少女の声は細い

           いなかったも同じ少女の声は細い

           でも忘れてはいけないことが必ずある

           口に出すことができない人生でも

           忘れてはいけないことが必ずある

           口に出すことができない人生でも

 

           泥だらけのクエッションマーク心の中にひとつ

           なまぬるい指でなだめられて消える

           争わないように嫌われないように

           歌う歌はキャンディソングだけどだけどだけど

           忘れてはいけないことが必ずある

           口に出すことができない人生でも

           忘れてはいけないことが必ずある

           口に出すことができない人生でも

 

 

II. 回想  ――間奏曲――

 

 『予感』という、今思えば意味深げなタイトルのアルバムが発表されたのが19833月である。当時私は大学2年生から3年生になるところだった。そして、おそらく3年生に進級した頃には、その新譜に聴き惚れていたことと思う。しかし、それが私が購入した中島みゆきの最後のアルバムであり、そればかりか、『予感』以前の全てのアルバムとほとんど全てのシングル盤を所有していた私が通して聴いた最後のアルバムだった。唯一の例外は、先に引用した「忘れてはいけない」という、『miss M』(198511月)に収録された歌で、この歌だけが、まるで飛び地のように例外的に存在するが、大体において、この25年間、中島みゆきの歌は長く「封印」されたままだった。

 

 それにしても、いったいどういうわけで、一時はあれほど心酔していた詩人=歌手からこれほど見事に、残酷に訣別してしまったのか、することができたのか、今考えても不思議でならない。事実、1982年の私は、英文学を専攻するか、それとも国文学を専攻するか、あるいはもっと大胆に、いっそのこと社会学専攻に転科するかを真面目に考えていて、もしも国文学か社会学を専攻することになれば、卒論のテーマに中島みゆきを選ぼうとまで真剣に考えていた。その時点では、リルケとハイネ、そして宮沢賢治を除けば、中島みゆきほど強い影響力を私に与えた詩人を思い浮かべることは難しい。その証拠として、一つのささやかなエピソードを記憶から取り出してみよう。人並みに就職活動をして、結果として内定通知を受け取ることになったある出版社(しかし、結局その出版社には就職しなかったのだが)の作文試験の課題に「座右の銘」というタイトルが与えられたとき、私が迷わず選んだ言葉は、「生きていてもいいですか」という、中島みゆきのアルバムタイトルだった。(そして、この語句は今なお私にとって、宮沢賢治とドストエフスキーから学んだ類似の思想と重なり合いながら、最も大切な言葉の一つになっている。)

 

 それほどに強く、決定的な影響を受けたにもかかわらず、1984年以降、つまり大学3年生のある時期(それがいつだったのか、どうしても思い出せないのだが、『予感』の次の『はじめまして』が198411月に発売されているので、「絶縁」は1983年3月から198411月の間に起こっていたものと推測される)から、私は中島みゆきの歌を全くと言っていいほど聴かなくなっていた。「地上の星」さえこの文章を書こうと思うまでは聴いたことがなかったと言えば、この奇妙な徹底振りが理解されるだろうか。

 

 しかし、誤解のないように急いで記すのだが、確かに奇妙なほど徹底した「絶縁」であったにしても、就職試験のエピソードが端的に示すように、私は中島みゆきと彼女が創り出す作品世界を否定しようとしたのでもなく、演歌風フォークから演歌風ロックへの変化にアレルギーを起こしたのでもなかった。まして、彼女の歌に食傷したのでもない。その歌から得たいくつもの「ことば」は、私にとって他には代え難く貴重なものになっていた。

 

 それでは、なぜ?

 

 この春に偶然「二隻の舟」を聴き、その歌に心を刺し貫かれるにように感動して以来、「なぜ25年もの間、彼女の歌を遠ざけてきたのだろうか?」という問いが、頭から離れなくなってしまった。そこには単なる懐古趣味やノスタルジーを越えた、真剣に考えるに値する、何か知的な問題が潜んでいると直感された。

 

当時大学生だった私が最後に聴いた『予感』というLPの中には、今なお中島の代表作と見なされている「ファイト!」が収められている。しかし、当時の私は、「中島みゆきの最高傑作は『臨月』か、そうでないとしても『寒水魚』だ」と考えていた。つまり、『予感』というアルバムに対して、私は一種の違和感を、それこそ「予感」していた。

 

           あたし中卒やからね 仕事をもらわれへんのやと書いた

           女の子の手紙の文字は とがりながらふるえている

           ガキのくせにと頬を打たれ 少年たちの眼が年をとる

           悔しさを握りしめすぎた こぶしの中 爪が突き刺さる

           〔中略〕

           ファイト! 戦う君の唄を

           戦わない奴らが笑うだろう

           ファイト! 冷たい水の中を

           ふるえながらのぼってゆけ

          

 この歌を聴いたとき、確かに良い歌だと思った。「ファイト」という語が、専ら格闘技を強く連想させて困るという極めて個人的な気分を度外視すれば、今でも感動的で、中島みゆきの代表曲になっていることも当然だと思う。しかし、この歌を耳にして、何にも増して強く感じたことは、「とうとう中島みゆきが他人のために、他人に向かって、歌い始めてしまった!」という、かすかな悲しみ、あるいは戸惑いに似た感慨だった。

 

 中島みゆきという歌手は、歌手として世に出た最初から、自らの歌を通したコミュニケーションを強く信じる、あるいは切望する、そのような歌手だった。そして、彼女が信じていたコミュニケーションは、現代の音楽産業やポップ歌謡に普通に期待されているコミュニケーションとは著しく性格を異にしていた。コンサートやレコード(CD)の発表に典型的に示されるように、通常、歌手とファンの間のコミュニケーションは、必然的に一種のマスメディア・コミュニケーションであり、その意味で「粗雑な」意思伝達である他はない。歌は切実なメッセージであるかもしれないが、同時に、消費される商品でもある。1960年代から顕著になったいわゆる「フォークソング」や「シンガーソングライター」の潮流は、自分たちの歌から「消費される商品」の性格を削ぎ落とそうとする歌手たちの運動だったとも理解できるだろう。歌手中島みゆきの存在もこうした潮流の中に定位することが可能かもしれない。

 

 しかし、中島みゆきが表現していた世界の手触りは、同時代の他の歌手と比べて、明らかに違っていた。当時人気を二分していた松任谷由実とは比べるまでもなく、「ネクラ・ソング」として一括りにされていた山崎ハコや谷山浩子と比べても、あるいは、明らかに独特の世界を築いていた森田童子と比べても、中島みゆきが表現しようとしていたものは、大きく異なっていた。その正体を正確に言い当てる適切な言葉が見つけられず、我ながらもどかしいのだが、とりあえず、「表現という行為に対する尋常ではない真剣さ、切実さ」と言っておきたい。他の歌手たちの真剣さを疑っているのではない。そうではなく、中島みゆきの切実さが尋常ではなく、次元を異にしているのである。

 

 後年、中島自身が述懐していることであるが、まだ大学生だった頃に音楽コンテストの本選で上位入賞し、いつでもプロとしてデビューできる機会を得たとき、彼女はその作曲課題として提示された谷川俊太郎の「私が歌う理由(わけ)」という詩を見て大きな衝撃を受け、そのせいでレコードデビューの話を断ったという。

 

           私が歌うわけは/いっぴきの仔猫/ずぶぬれで死んでゆく/いっぴきの仔猫//

 

           私が歌うわけは/いっぽんのけやき/根をたたれ枯れてゆく/いっぽんのけやき//

 

           私が歌うわけは/ひとりの子ども/目をみはり立ちすくむ/ひとりの子ども//

 

           私が歌うわけは/ひとりのおとこ/目をそむけうずくまる/ひとりのおとこ//

 

           私が歌うわけは/一滴の涙/くやしさといらだちの/一滴の涙

 

 そのときの衝撃を中島は「谷川俊太郎という名を聞いただけで土下座したくなるような思い出」と表している。けれども私としては、「私はその時、もう一度初めから考え直したいと決めていた。『私が歌う理由(わけ)』を」と言う彼女に対してこそ、感動に近い感慨を覚えずにいられない。谷川俊太郎の詩の何が彼女をそれほど動かしたのかは、粗雑な推論は可能かもしれないが、私の語れる範囲を遙かに逸脱している。しかし、彼女がレコードデビューを辞退するほどの衝撃を、一つの詩から受け取ったという事実、これは確かな事実であり、決定的に重要なことである。たった一編の詩、わずか100文字程度の言葉が、彼女の生き方を変えたのだから。一つの詩に自分の生き方を変えるような力を見出し、それに従うことをごく当然のように考えている人間、それが当時の中島みゆきであったということ。これが、中島みゆきという歌手=詩人を考えるときの私の出発点であり、基準とする座標軸である。

 

 「私が歌う理由」をもう一度初めから考え直した彼女は、それから数年後に『私の声が聞こえますか』というタイトルを冠したアルバムでデビューする。そのライナーノーツに、「速達」と記された肉筆と思しき(もちろん印刷だが)手記が載せられている。その一部を引用したい。

 

今、私は自分の声を聞きたくてならないのです。自分が生きているかどうかを確かめなければ恐くて仕方ないのです。だから、〔中略〕私は今、私の声を、詞に、曲に、歌にして、果てしのないあなたへ向けて、投げ上げます。それがあなたの返事となって帰って来るか、私の孤独になって帰ってくるか、わからない。けれど、力一杯投げ上げます。

ちっとも完全じゃないけれど、けっして嘘じゃない私の声として。

いつか、私の声が聞こえてくれるでしょうか。そしたらあなたはどうやってあなたの声を聞かせてくれるでしょう。

 

また、このアルバムには「歌をあなたに」という曲が入っている。

 

           あんまり淋しくて 死にたくなるような日は

           この手の中の歌声を 受け取って歩くのよ

           いつか夢みたような いつか忘れたような

           夢を たずねる人に 今、贈る

           歌おう 謳おう 心の限り

           愛をこめて あなたのために

 

 彼女の歌が体現しているこの種の切迫した「切実さ」を「単なるポーズ」、「単なるスタイル」と言い捨てる蛮勇の一片をも、かつての私も今の私も持ち合わせない。彼女が「あなた」と呼びかける対象が何なのか、それを言い当てる読心術は私にはない。亡父を筆頭にした、永遠に失われてしまった存在かもしれないし、まだ見ぬ遠い未来の存在かもしれない。あるいは、心ならずも破れて消えてしまった愛かもしれない。あるいは、少なくとも「あなた」の一部としては、デビューアルバムを買ってくれたリスナーたちであったかもしれない。しかし、「あなた」が誰であれ、『私の声が聞こえますか』、『みんな去(い)ってしまった』、『あ・り・が・と・う』、『愛していると云ってくれ』、『親愛なる者へ』、『生きていてもいいですか』という初期のアルバムタイトルを並べるだけで、この歌手が執拗に「話しかけている」ことは明らかである。そして、手紙のように響くライナーノーツも5枚目のアルバムとなる『親愛なる者へ』まで一貫して続けられている。(『愛していると云ってくれ』では「元気ですか」という手紙風の朗読がアルバムの冒頭に置かれている。)

 

 極めて重要なことであるが、中島みゆきが「自分が生きていることを確かめるために歌う」と言って、さらに「私の声を果てしのないあなたに向かって投げ上げる」と最初に語ったことは、この歌手=詩人の、詩人としての誠実さ、真正さを明確に物語っている。詩人のリルケは、彼に向かって自作の詩の批評を求めてきた詩人志望の若者に対して、「他人からの評価を求める前に、『その詩を書かなかったら、はたして自分は生きていけないかどうか』を自問しなさい。そして、もしもその詩を書かなくては君は生きていけず、そのようにしてその詩が生まれたなら、他人が何と言おうと、君はすでに詩人だ」という意味のことを語っている。もっと遙かに洗練された口調と形式で、T・S・エリオットは「詩の三つの声」というエッセイの中で、詩を

1)       自分自身に対してのみ語られた詩、

2)       他者に向かって語られた詩、

3)       劇中人物の口から語られた詩、

の三つに分類し、大半の詩が「他者に向かって語られた詩」であるものの、ゴッドフリード・ベンに言及しつつ、詩の本質は「自分自身に対してのみ語りかける」ことにあるだろう、仮にそれをそのまま純粋に追求してしまえば、その詩が世に現れることはないとしても、と明言している。仮にエリオットの分類に従うなら、中島みゆきの歌は「自分自身に対してのみ語られた詩」と「他者に向かって語られた詩」の絶妙なバランスの上に成立していると言える。これは結局は、彼女の歌が真正で純粋な詩であるということを別の言葉で言い表しているに過ぎない。確かに中島みゆきはデビュー当時から、自分の声がはたして聞き届けられるか否かを強く意識していた。けれども同時に、おそらくは遙かにそれ以上に、彼女にとっては自分の声をともかく発することの必要性・必然性が痛感されていた。彼女自身の言葉を再び借りるなら、「私は自分の声を聞きたくてならないのです。自分が生きているかどうかを確かめなければ恐くて仕方ないのです。だから…」少なくともこれが彼女の「歌う理由」の一つであったと考えてよいだろう。

 

 このような歌手、歌を通して自らの存在の証しと共に「あなた」と親密に呼びかける対象とのコミュニケーションを切実に求めている歌手=詩人に対して、私を含め多くの若者たち(当時中島みゆきのファンの中心は、高校生、大学生、若い社会人、つまり彼女自身よりも幾分年少の層だったのではないだろうか?)が強い共感を示したのである。もちろん、相当に「おめでたい」自意識過剰気味なファンであっても、最近の歌手で言うならば絢香や宇多田ヒカルに匹敵するような人気歌手であった中島みゆきが、一介のファンに過ぎない自分に向かって歌っているとは、まして自分の返答を求めていると信じることは難しい。いや、面会したことも、言葉を交わしたこともない仲であれば、そう信じることは、歌い手と聴き手の双方にとって、一種の錯乱であっただろう。だが、繰り返すが、一読者であった中島みゆきは、谷川俊太郎の詩を読み、自らの人生に関する重大な決意をしたのである。その同じ人物が、今度は自ら歌を作るときに、その歌が誰か他の人の人生を左右しかねないことを、どうして予想し、ときに期待しないことがありえようか?

 

 その頃実際に、中島みゆきは深夜ラジオの人気パーソナリティーでもあり、当時「ネクラ」と言われていた若者たちの単なるアイドルに止まらず、強い信頼の寄せられる稀有な相談相手でもあった。事実、ある夜の放送の最後に彼女が紹介したリスナーからの葉書は、「ファイト!」に出てくる中卒の女の子のエピソードを髣髴させるような内容だった。中卒ゆえに浴びせられる差別を嘆く若い女性に対して、「周囲の全ての人があなたを理解してくれるなんてことは、確かにないのかもしれない、でも、この世界にはあなたを認めてくれる人が必ずいる、そしてその人に認めてもらえるように努力することは素敵なことではないか、云々」という意味の励ましのコメントに続けて、小さな声で「ファイト!」と呼びかけていたことは、熱心なファンの間では当時から話題になっていたと聞く。中島みゆき宛の厖大な数のファンレターがあり、その中には単にファンレターと呼ぶにはあまりに微妙な、親密な言葉で綴られたものが決して少なくなかったはずである。その一端は、中島の著した『伝われ、愛』(1985)という書物にも示されている。

 

 そして、彼女の歌を熱心に聴く人が増えるに従い、反響も次第に大きくなる。主に紙媒体ではあるにしても、マスコミへの露出の機会も多くなる。歌以外での発言も興味深げに取り上げられる。著名な詩人や作家たちが、それぞれ賛辞の形式を借りているとはいえ、彼女の作品を好き勝手に論じ始める。こうして、小さいながらも「中島みゆき産業」が成立する。「自分が生きていることを確かめるための歌」、「果てしないあなたへ向かって投げ上げた歌」がこれほどの反響を招き寄せたとき、戸惑わない人がいるとは、私には決して信じることができない。

 

 ――だが、こんなことは全て無責任な憶測に過ぎない。私は自分が確実に知っていること、少なくとも自分の本心で本気で考えたことだけに戻るべきだろう。「ファイト!」という歌を聴いたとき、25年前の私はそれを「素直」に「自分(たち)に向けられた言葉」だと受け取った。もちろん、その時点で振り返ってみても、実に多くの言葉を私はすでに彼女から受け取ってきていた。中でも私にとって最も決定的だったのは、先にも言及した『生きていてもいいですか』というアルバムに表現された彼女の言葉と考え方だった。アルバムのタイトルからして破格なこのアルバムは、現在から振り返っても、中島みゆきの全キャリアを通して非常に重要な作品であり、ポップスとしては今なお空前無比な作品だと思う。一面真っ黒な下地に「生きていてもいいですか」と白く薄い文字で記されたジャケットデザインはそれだけで死を強く連想させた。また、冒頭に置かれた「うらみ・ます」は、本当に泣きながら「うらみます、うらみます、あんたのこと死ぬまで」と歌われており、悪趣味と言われても仕方ないほどの情念を表していた。しかし、このアルバムの真価は全く別のところにある。

 

25年前にもしかしたら卒論に書くかもしれないと書き留めた昔のノートの中に次のような断片が混じっている。

 

 ――LP『生きていてもいいですか』は、彼女の作品の中では例外的存在である。そこでは、タイトルの示すとおり、主役は愛ではなく生(死)である。冒頭に置かれた「うらみ・ます」(ふられたての女くらいおとしやすいものはないんだってね/ドアに爪で書いてゆくわやさしくされて唯うれしかったと/うらみますうらみます/あんたのこと死ぬまで)は、愛の世界と生(死)の世界を繋ぐ扉である。

 

 ――彼女の本質的特異性:被害者の側面と加害者の側面の同居。生存することがただそれだけで罪であるという意識(原罪意識)。これは『生きていてもいいですか』のテーマである。

 

当時の私が驚いたのは、この原罪思想の明確な表明と、それが作品として目の前にある事実だった。

 

エレーン、生きていてもいいですかと誰も問いたい

エレーン、その答えを誰もが知っているから誰も問えない

(「エレーン」)

 

キツネ狩りは素敵さただ生きて戻れたら、ね

[中略]

君と駆けた君の仲間は

君の弓で倒れてたりするから(「キツネ狩りの歌」)

 

思春期の若者であれば誰もが一度ならず苦しむことだと思うが、私もその例に漏れず、心ならずも自分の存在が他人を傷つけている事実に直面し、その重さに戸惑っていた。パスカルを読んでも、ドストエフスキーを読んでも、彼らが原罪について語るたびに、「さて、恥知らずになることもなく、いったいどうしたら『生きていてもいいさ』と言えるようになるのだろうか?」と考え込まずにはいられなかった。そして、中島みゆきの「生きていてもいいですか」という言葉もパスカルやドストエフスキーと全く同じ影響を当時の私に与えた。違いといえば、彼女がそれを歌=詩という形で表したことと、パスカルやドストエフスキーと違って、中島みゆきが同時代の歌手=詩人だという事実だった。彼女の歌を聴きながら、ここにも「私ははたして生きていてもいいのか?」と真剣に、切実に自問している人間がいることを知った。そして、彼女の問いの切実さは、例えば、「泥海の中から」の次のような言葉を発した同じ口が「生きていてもいいですか」と自問しているという事実に明らかだった。

 

       ふり返れ 歩きだせ 悔やむだけでは変わらない

       許せよと すまないと あやまるだけじゃ変わらない

      

       おまえが殺した 名もない鳥の亡骸は

       おまえを明日へ 連れて飛び続けるだろう

      

       ふり返れ 歩きだせ 忘れられない罪ならば

       くり返す その前に 明日は少し ましになれ

 

つまり、自分と似たような悩みや苦しみ、悲しみを、自分と同じように、あるいはもしかしたら自分以上に感じつつ、それらの問題にかろうじて、しかし勇敢に向き合っているモデルを私は中島みゆきの中に見出していたのだと思う。

 

 この点で、当時の私は、中島みゆきを「失恋歌の女王」と捉え、自らの失恋体験を彼女の歌に重ねて聴いている人々と大同小異であった。ただ、私にとっての中島みゆきは、「わかれ歌」や「時代」の歌手ではなく、「エレーン」や「キツネ狩りの歌」という空前絶後の歌を歌った歌手であったということだけだった。

 

 そして「ファイト!」は、私の耳には、極めて微妙なことではあったが、それ以前の彼女の歌と決定的に違って響いた。いや、そうではなく、「ファイト!」というフィルターを通して見た中島みゆきは、それ以前の中島みゆきと微妙に、しかし本質的に違って見えた。「ファイト!」以前の歌では、「主人公」は基本的には中島みゆき本人であろうと素朴に信じることができた。どれほど脚色された物語であっても、「酒とクスリで体はズタズタ」になったのも、「途に倒れて だれかの名を呼び続けた」のも、「おじさん トラックに乗せて」と言うのも、それは全て中島みゆきの分身のようなものであり、分身が分身に向かって歌っている、叫んでいるようなものだと思うことができた。しかし、「ファイト!」では、中島みゆきは最早自分自身にではなく、彼女の後ろ姿を追いかけてくる、彼女に憧れ、彼女に信頼を寄せる「小魚たち」のために歌っていると思われてならなかった。それを当時の私は「他人のために歌い始めた」と感じたのである。

 

 詳しくは後述に譲るが、25年前の私のこの理解は、今では完全な大間違いだったと実感している。しかし、今はこの大間違いの理解が、間違いは間違いとして、なぜそれほど重大な変化と感じられたのかを記し、この長くなった「回想」を終えることにしたい。

 

 中島みゆきの歌の特徴は、人によって色々に指摘することが可能かもしれないが、私はそれを「真剣さ」「真面目さ」「切実さ」「必死さ」といった言葉で表せると考えている。基本的に彼女の歌に「遊び」や「おふざけ」はない。他の場面では周囲の人間を唖然とさせるような奇想天外な言動をすることもあると聞くが、彼女の歌は全て生真面目と言えるほどに真剣なものである。この真剣さ、真面目さこそが彼女の叙情詩の、ときに雪のような、ときに氷のような美しさの核であり、それは彼女の詩の本質がエリオットの言う純粋な叙情詩、つまり、「自分自身に対してのみ語られた詩」であることを示していた。

 

 けれども、このように真面目で真剣な歌手=詩人であればなおのこと、彼女自身に対して多少なりとも信頼を示した存在からの「委託」を無視できるはずがない。批評家や研究者の言葉であれば、それに対して耳を閉ざすことは遙かに容易である。しかし、自分よりも年少の者からの、自分よりも非力な者からの、願いにも似た委託に対して耳を閉ざすことは難しい。彼女は彼らが望むように、彼らが期待するように歌う必要を感じてしまうだろう。彼らを励ますような歌を歌いたくなるだろう。そして彼らはその歌を聴いていっそう喜ぶだろう。だが、それは彼女から真正さを奪い去ることにならないだろうか? いや、彼女が本心からそうなることを願っている限りにおいては、その真正さを疑うには及ぶまい。人はいつかは変わるものだから、彼女も人々からの期待という重力の作用を受けて変わる、ただそれだけのことなのかもしれない。しかし、それではまるで彼女のファンが彼女にしがみついて、彼女が飛び立つことを妨げているだけではないのか? そして、私自身も一人の年少のファンとして彼女にしがみつき、彼女にぶら下がり、こんな優しい歌を歌ってもらって、喜んでいるだけではなかったか? そして、一方、もしもかつては「自分が生きていることを確かめるために歌う」と言っていた少女が、「あなたを慰め、励ますために歌う」と言い始めるのは、この「あなた」が彼女にとって真に必要な対象でない限りは、決して喜ぶべき変化ではなく、何か惨たらしいものを感じさせる変化ではないのか? これは、大西巨人であれば「俗情との結託」とでも呼びかねない、一種微温的な心理的癒着ではないのか? 

 

 時流に乗った売れっ子芸人は、毎度お馴染みの芸を繰り返す。物見高い人々は、その芸人が型通りの、決まり切った素振りさえすれば、まるでプログラムされたかのように、やはり決まり切った笑い声で応える。テレビの馬鹿馬鹿しいバラエティー番組でさんざん見せつけられた一幕だ。もっと遙かに真面目で真剣であったとしても、この醜悪な「共謀」、「お約束事」と同じ性質のものが、中島みゆきの歌にも感じられるような気がした。しかし、いっそう恐ろしかったことは、そうしたことを醜悪と感じる一方で、同時に他ならぬ私自身が、彼女がそう歌い、そう演じることを期待していたことだった。自分が思い描いていた通りの歌、自分が予想していた通りの歌を聴けば喜ぶ自分自身が、何にも増して醜悪に感じられた。

 

 「私の歌が聞こえますか」と歌い始めた人に対して、さらには「いつか、私の声が聞こえてくれるでしょうか。そしたらあなたはどうやってあなたの声を聞かせてくれるでしょうか。……」と書き綴らずにはいられなかった人に対して、当時の私はテープレコーダーの仕組まれた木偶人形か、あるいは単なる鏡像に過ぎず、その本人の言葉をそのままに真似て、ただ繰り返すことしかできなかった。そして、この種の、純然たる反響、不毛な反映のうねりこそが、中島みゆきをスターダムに押し上げているのだと感じられた。私が切実に求めなければならないものは、もはや彼女の声ではなく、自分自身の声でなければならなかった。

 

 「あなたの声はもう十分に、暗唱できるほどまでに聞いた。だから今は、いつか本当に返事ができるように、自分自身の声を捜しに行かなくては。ぼくにはまだ自分の声がないのだから」。こうした考えの下に中島みゆきの歌を封印したのだと今さらに言うのは、当時の自分を、例えばリルケやヘッセにかぶれた、いささか時代がかった若者になぞらえているに過ぎないのかもしれない。確かに、25年前を追想するのは思っていた以上に難しい。しかし、これだけは確実に言える。25年間の空白は、決して無駄ではなかった。25年前にはわからなかったこと、わかっていなかったことが、今なら少しはわかるような気がする。再会のためには、不在が先行していなければならない。そして、不在が長ければ長いほど、もしもその再会が望むべきものであったなら、喜びも大きい。

 

 

(注記)

 25年前を回想しつつ、上記の文章を書いているとき、比較的簡単に集められる「参考書」にも目を通してみた。その中に、評論家・呉智英の「中島みゆきは中山みきである」という文章(『中島みゆき ミラクル・アイランド』、新潮文庫、1986年)があった。すでに呉のこの記事を知っている人が私の上記の文章を読み、共通点を感じ取るかもしれないので、呉の文章の一部を引用した上で、若干のコメントを加えたいと思う:

 

            今、中島みゆきは絶大な人気の中にある。

それは、「狂女」でありながら「狂女」を超え得た「教祖」として当然のことだろう。だが、この後、中島みゆきに不安の翳を感じないでもない。あらゆる教祖が、自らの誠実の故にかかえ込んだ、これも誠実である信徒によって裏切られたように、中島も、そうならないという保証はないのだ。

第十番目のLP『予感』のラストには、大曲「ファイト!」が入っている。他の八曲が主に恋の歌であるのに較べ、この曲だけは少し異質である。第四番目のLP『愛していると云ってくれ』に収録された「世情」に近いようにも思えるが、ここには「教祖」の「信徒」への直截的な共感が表明されている。(以下、原文では「ファイト!」からの引用が続くが、それは略する。)

この直截的な共感は、信徒にとっては「秘蹟」である。秘蹟は、それを受けるだけで誰もが教祖に限りなく近づくことができる。いわば、狂女であることを経ずして、教祖と同じ位置に立ちうるのだ。やがて、福音と激励の足下から、裏切りが始まる。自ら狂女であったことのない信徒たちが、秘蹟を受けることによって教祖と同格に並び、そしりが始まる。

 

「ファイト!」が、それ以前の中島みゆきの歌と性格を異にしていることを指摘する点では、25年前の私の直感と共通している。ある種の気懸かりを感知している点でも同じかもしれない。しかし、「狂女」「教祖」「信徒」「秘蹟」という比喩を、たとえ比喩であっても、使用する軽薄さからは、私自身の文章は無縁であると信じたい。いや、断固信じる。中島みゆき本人が天理教信者であるという噂は耳にする。真偽は定かではないが、たとえ信者であっても、それだけで「狂女」「教祖」という大仰な表現をあえて用いる理由にはなるまい。狂気からほど遠い教祖、信者は少なくないのだから。

 この種の評論を生み出す空気。25年前の私はそれからも逃れたかったのだと思う。自分の口から万が一にもこのような言葉が飛び出すようになること。それが怖かったのだと思う。語りは、自分の本当の声を見つけ出さない限り、あまりに容易に騙りに堕してしまう。

 

 

III. 25年後の返信

 

1)「大きな詩人」

 

 中島みゆきという歌手=詩人の作品(歌)を語るとき、多くの人は意識的、あるいは無意識的に、彼女の複数の歌を互いに関連づけて考える。例えば、「ファイト!」という歌は、

 

           暗い水の流れに打たれながら 魚たちのぼってゆく

           光ってるのは傷ついてはがれかけた鱗が揺れるから

           いっそ水の流れに身を任せ 流れ落ちてしまえば楽なのにね

           やせこけて そんなにやせこけて魚たちのぼってゆく

 

と歌うことで、その前年の『寒水魚』というアルバムタイトルとの強い関連を明示するし、さらに遡って、川の流れの中で次第に削られていく小石を歌った「小石のように」を思い出させる。また、「冷たい水の中を/ふるえながらのぼってゆけ」という語句は、比較的近年の作品である、「重き荷を負いて」(『ララバイSINGER』、2006)とも繋がり、「重き荷を負いて」を聴いた人が、後日、「ファイト!」や「小石のように」を耳にすれば、これらの歌に共通する特徴的なイメージや思想(考え方、価値観)に気付くはずである。

 

           重き荷を負いて 坂道を登りゆく者ひとつ

           重き荷は重く 坂道は果てもなく続くようだ

           がんばってから死にたいな がんばってから死にたいな

           這いあがれ這いあがれと 自分を呼びながら 呼びながら

 

さらに例を重ねるならば、「サーモンダンス」(『転生』、2005)では、

 

           生きて泳げ 涙は後ろへ流せ

           向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ

 

というフレーズを聴くことができる。

 これはほんの一例に過ぎないが、中島みゆきの歌は、それぞれが他の歌と関連し、一つの歌は、ときには同じアルバムの隣接した歌と、ときには遠く離れた、思いもよらぬ歌と反響し、その意味を豊かにする。中島みゆきの歌を論じる人たちは、有名無名を問わず、彼女の歌が持つこうした特徴を意識しているし、それを当然のことのように考えている。 

 

 ところが、そのことの重要性、特異性についてはほとんど言及されない。ある作品が遠く離れた作品と反響し合うこと、それも一つ二つではなく、ほとんど全ての作品に共通する基本的な特徴としてこの種の反響・共鳴が認められること、これは現代の歌手=詩人としては非常に稀有な現象であり、中島みゆきが「大きな詩人」、つまり「全集を必要とする詩人」に属しているという事実を示している。

 

 「全集を必要とする詩人」という一群の詩人の存在を知ったのは、またしてもエリオットの “What is Minor Poetry?という評論の中だった。恥ずかしながら、Minor Poetryを適切な日本語に移すことができないので、このまま横文字を使うことにするが、注意すべきことは、minor poetryが決して「二流」とか「劣った」という意味を含意しないという点である。むしろ「小さな」とか「目立たない」という意味に近い。エリオット自身は「どんな詞華集にも必ず収められているが、しかしその詩人の全集を読む必要はない、そのような詩」をminor poetryの特徴としている。そして、「大きな詩人」と「小さな詩人」の違いを、

 

その詩人の全作品、少なくともその大部分の作品を知っていることが、個々の詩をより深く理解することにつながり、それゆえに、その詩をいっそう楽しめるようになるか否かということである。「大きな詩人」であることは、その詩人の全作品を通して意味のある統一が達成されていることを示している

 

と説明している。

 

 このような意味で、中島みゆきを「全集を必要とする詩人」、「大きな詩人」と見なすことは、決して一人の熱心なファンの酔狂と一笑に付することはできない。エリオットの言に従うなら、中島は「全作品を通して意味のある統一を達成している」歌手=詩人である。少なくとも私はそう信じている。彼女の歌は、それだけで聴いても十分感動的で面白いかもしれない。しかし、彼女の歌を多く知れば知るほど、個々の歌の意味合いはより豊かになり、より明らかになる。そして、そうして獲得された知識=経験は、別の歌を理解する際に大いに役に立つ。個々の詩における言葉遣いの巧みさ、面白さならば、例えば井上陽水や松任谷由実、桑田佳祐、先日惜しまれつつ亡くなった忌野清志郎なども、おそらくは傑出しているのであろう。しかし、彼らには、中島みゆきの世界にあるような「全作品を通して感じられる統一感」はないでのはないだろうか。言い換えれば、中島みゆきの歌には、明らかに思想と呼べる一つの価値観・世界観が一貫して表現されており、人々は大なり小なりその思想を感じ取り、それに反応しているのである。これが彼女が熱烈に支持される大きな理由と思われる。(誤解のないように、急いで書き足すのだが、ここで私が「思想」と呼ぶものは、歌として伝えられる、中島自身の言葉を借りれば「歌でしか言えない」ような、主に情感、体感に直接訴えかける「思い」や「感情」を主に意味している。)

 

 ほんの手始めに、試しに「地上の星」を取り上げてみよう。この歌は、中島みゆきの歌の中では最もシングル盤向きの、つまり、単独で聴いても十分な魅力を発揮する歌の一つである。数年前の「紅白歌合戦」で披露したのもこの歌であったし、それゆえに、普段は中島の歌と無縁の人々にも強くアピールした。しかし、その抜群に説得力ある歌唱を度外視すれば、中島の作品としては意外にも凡庸な作品と言わざるを得ない。内容の面から考えた場合、言葉の使い方として唯一注目すべきフレーズは、

 

           名立たるものを追って 輝くものを追って

           人は氷ばかり掴む

 

くらいであろうか。輝きを共通項として、星と氷を結びつけ、しかしその対照によって、「氷ばかりを掴む」冷たさ、もろさ、はかなさ、酷薄さ、空しさを鋭く描き出し、結果的に輝くものが氷に過ぎないことを暴く。確かにこの表現には、いかにも中島らしい、体感に直接に訴える怖いほどの力がある。しかし、こんな例なら、彼女の歌の中にはそれこそ星の数ほど無数にある。例えば、次のような歌詞がすぐに脳裏に(唇に)浮かぶ。

 

           抱きしめれば2人は なお遠くなるみたい

           許し合えば2人は なおわからなくなるみたいだ

           ガラスならあなたの手の中で壊れたい

           ナイフならあなたを傷つけながら折れてしまいたい

                   (「あした」、『夜を往け』、1990;強調筆者)

 

 おそらく「地上の星」が大ヒットした大きな理由は、語句とイメージの使い方の絶妙さというよりも、タイアップしたテレビ番組との絶妙な組合せ、つまり、無名な巨人たちを地上の星として称えるコンセプトにあったと考えるべきなのであろう。しかし、実際は「地上の星」の歌としての完成度は非常に高い。楽譜と共に解説すれば、この歌詞とメロディ、リズムの組合せの妙は、中島みゆきが単なる「優れた詩人」ではなく、また単なる「優れた歌手」でもなく、優れた「シンガーソングライター」であることを雄弁に語るはずである。が、今は、歌詞だけの分析で簡単に済ませたい。(それだけでも、事足りると思われる。)

 

 冒頭の「風の中のすばる」に関して、なぜ「風の中」なのか、また、なぜ「すばる」なのかについては、どれほど詮索しても意味はない。ありとあらゆることがその根拠になりうるから。(私の個人的な連想は、「すばる」が星団であることから、地上の星の典型は、単独の巨人であるよりは、小さなグループなのだと言いたいのだろうか、ということであるが、これもただの連想に過ぎない。)しかし、この冒頭の一行が「地上の星」のいわば構成原理として、歌全体を支配している事実は注目に値する。第一に、「風の中の」という音の連鎖に含まれる[k/g]音の効果を確認しよう。

 

           風(ぜ)の中(な)のすばる

           砂の中(な)の銀河(

           みんな何処(ど)へ行った 見送(お)られるともな

           草原(そうん)のペサス

           街角(まちど)のヴィーナス

           みんな何処(ど)へ行った 見守られるともな

 

特に、「みおく〜られることもなく〜」と歌われるとき、音声学的には軟口蓋破裂音という、文字面からもいかにも迫力のある[k/g]の音(口の奧でいったん息を詰めて、それから息を勢いよく吐くときの音)の持つ劇性が存分に発揮される。「地上の星」が力に満ちた感じがする一因は、この[k/g]音の多用と、その劇的な使用にあると思われる。第二に、「すばる〜」という音列が、「人は空ばかり見てる〜」の「みてる」、「人は氷ばかり掴む〜」の「つかむ」と綺麗な韻を踏み、特にその母音の連鎖に注目すれば、「すばる」と「つかむ」は同一である。さらに「すばる」という音は「見送られる」や「見守られる」とも音韻的反響を作り出している。第三に、「すばる」の[s]音が、次の「砂の中」を頭韻で結びつけ、「銀河」は、やはり音韻的連鎖によって、「草原」を引き寄せる。さらに関連して、「草原」にも「ペガサス」にも「ヴィーナス」にも[s]音が含まれている。また、「みんな」に始まる[m]音の頭韻は、「見送られる」、「街角」と続き、「ペガサス」と「ヴィーナス」が再び見事な脚韻を作っていることは言うまでもない。(日本語の詩で美しい脚韻を作ることは、ただそれだけで名人芸と言える。)「なぜ『すばる』だったのか?」には答えられないとしても、「なぜ他の星ではなく、『銀河』、『ペガサス』、『ヴィーナス』、『ジュピター』、『シリウス』だったのか?」については、かなり確信を持って答えられる。一つは、言うまでもなく、メロディ(むしろリズムであろう)に合う言葉でなければならない。そして、次に、上記の簡単な解説が示すとおりに、隣り合った言葉が互いに引き寄せるのである。「ジュピター」は、「みんな何処へ行っ〜た〜」がある限り、半ば必然であっただろう。

 

 このように理解すれば、「地上の星」がどれほど精緻・精妙に創り上げられているか、あらためて驚くほかはない。いったん歌えば、誰もが音韻的に気持ちよく感じ、したがって、一種の幸福感を覚える。カラオケ・バーで歌いたくなる。しかし、実際に検討してみたわけではないので、これは単なる憶測に過ぎないが、この程度のことであれば、他のシンガーソングライターも大なり小なり同じことをしているはずである。良い耳を持った詩人にとっては、この程度のことはそれほど難しいことではない。イギリスの詩人であるジェイムズ・カーカップ(James Kirkup)は「詩を声に出して読むと、口と唇に強い身体的快感を覚える」と書いていたが、一般に良い歌と言われるものはこれと同じ性質を持っているはずである。単に口調のいい歌、歌って気持ちのいい歌なら、他にもいくらでも見つかることだろう。

 

 もしも中島みゆきを「全集を必要とする詩人」と見なすことが正当であるなら、この「地上の星」もまた、「全集」の中に位置づけることによって初めて浮かび上がってくる興味深い特徴を備えていなければならない。はたしてそのようなものがあるのだろうか?

 

 私見では、無数にある。もう一度、歌に戻ってみたい。

 

           風の中のすばる

           砂の中の銀河

           みんな何処へ行った 見送られることもなく

           草原のペガサス

           街角のヴィーナス

           みんな何処へ行った 見守られることもなく

           地上にある星を誰も覚えていない

           人は空ばかり見てる

           つばめよ高い空から教えてよ 地上の星を

           つばめよ地上の星は今 何処にあるのだろう

 

           崖の上のジュピター

           水底のシリウス

           みんな何処へ行った 見守られることもなく

           名立たるものを追って 輝くものを追って

           人は氷ばかり掴む

           つばめよ高い空から教えてよ 地上の星を

           つばめよ地上の星は今 何処にあるのだろう

 

           名立たるものを追って 輝くものを追って

           人は氷ばかり掴む

           風の中のすばる

           砂の中の銀河

           みんな何処へ行った 見送られることもなく

           つばめよ高い空から教えてよ 地上の星を

           つばめよ地上の星は今 何処にあるのだろう

 

 劇的な曲調と相俟って、この歌詞は巷でしばしば言われているような「人生の応援歌」や「技術者の賛歌」であるよりも、一種の哀歌であることが感じられる。「みんな何処へ行った 見送られることもなく」が、野辺の送りを暗示しているとしても曲解ではあるまい。無名のままに、当然受け取って然るべきだった敬意も関心も払われることなく、人知れず旅立った魂への挽歌とみなしたとき、「地上にある星を誰も覚えていない」は、淡々とした叙述では決してなく、悲嘆と義憤の色合いを強く帯び始め、「忘れてはいけない」という馴染みのテーマが現れる。「覚えていることの責任」に我々の注意を向けさせる。さらに、「風の中のすばる」が人知れず遠く旅立つというイメージは、例えば暗い海を進む「二隻の舟」にも繋がり、そうであれば、「名立たるもの」「輝くもの」は「時流を泳ぐ海鳥たち」を連想させるだろう。

 

 「地上の星」を聴いて「二隻の舟」を連想することが重要なのではない。他のどの歌を連想してもかまわない。例えば、「崖の上のジュピター」(この『上』は、英語で言えば、aboveではなくonであろう。さもないと、この『ジュピター』は、空の星になってしまう)から、「断崖〜親愛なる者へ」を想起し、

 

           生きる手だては あざないものと

           肩をそらして 風を受けながら

           いま 崩れゆく崖の上に立ち

 

というフレーズを思い出すことがあるかもしれない。そして、この歌が入っているアルバムに付された「手紙」の中の

 

           [……]まるで真っ白な霧の中、いつだって、いまにも断崖に向かって踏み出しているかもしれないんだね。

           けど、まっすぐに空を見て踏み出せたらって、

           なかなかできそうもないけどさ、だから、さ、なおさら、そうしたいと思うんだ。

           たとえばあんたもひとりぼっちなら、あたしはきっと そうやって あんたに手を出すよ。きっと そうやって 本気で あんたに手を出す。

 

を思い出すかもしれない。その途端に、「地上の星」は、それまでとは全く違った相貌を示すことになる。テレビ番組のコンセプトから解放されれば、「地上の星」が必ずしも「無名の偉人」たちでなく、むしろ「平凡な個人」である可能性が現れる。「風の中のすばる」も「砂の中の銀河」も「草原のペガサス」も「街角のヴィーナス」も、全て「何か偉大なことを成し遂げた無名の人々」ではなく、「他に人々にとっては無名であっても、私にとっては他に比較しようもない、比類なき存在」のことであろうと思われてくる。「街角のヴィーナス」が、街角の娼婦でないと誰が言えるだろう、中島みゆきは、自らのデビュー曲(シングル盤)に自身を娼婦にも模した「アザミ嬢のララバイ」を歌い、街娼の死を

 

           流れて来る噂はどれもみんな本当のことかもしれない

           おまえは たちの悪い女で

           死んでいって良かった奴かもしれない

 

           けれどどんな噂より

           けれどおまえのどんなつくり笑いより、私は

           笑わずにいられない淋しさだけは真実だったと思う

       (「エレーン」、『生きていてもいいですか』、1980

 

と歌った歌手であるのに?

 

 「地上の星」が、単に「縁の下の力持ち」のための歌(中島には「誰にも誉めてはもらえない石の下の石」という、印象的なフレーズがある)ではなく、較べようもなく大切な存在の消失を悲嘆する歌という側面もあるとしたら、「人待ち歌」の中の

 

           荒野を越えて 銀河を超えて

           戦さを越えて 必ず会おう

 

という歌詞も思い起こされ、だからこそ

 

           つばめよ高い空から教えてよ 地上の星を

           つばめよ地上の星は今 何処にあるのだろう

 

というリフレインがいっそう哀切に響くのである。

 

 「地上の星」が平凡な人でありえることを示すために、念のために「流星」(『Love or Nothing1994)という歌の一節も引いておこう。この歌は、演奏旅行中の歌手と長距離トラックの運転手との束の間の交流を点描した小品であるが、中島の「演歌風ロック」に関する少々ひねった見解が聞かれる点においても興味深い。

 

           どこまで行くの 何しているの

           歌を歌っているんです

           そうかい、おいらは歌は知らねえな

           演歌じゃねえんだろ、そのなりじゃあな

           香川 新潟 大阪 宮城 姫路 山口 袖ヶ浦

           流れる星よ いつか最後にどこへたどりつこうというのだろうか


 このように、「全集」の中に置くことで「地上の星」はいっそう興味深い作品になる。とは言うものの、「地上の星」は決して中島みゆきを代表する歌ではない。彼女の歌手=詩人としての大きさを最も端的に示すキーワードは、「時」や「海」、「雪」、そして「月」などであり、テーマは愛と死であるだろう。「地上の星」は、中島みゆきの歌世界が築く中央山脈からはやや離れたところで輝く一つの星に過ぎない。一方、例えば「海」が彼女の歌の中に現れるとき、その検証をするだけでおそらく一冊の本ができるほどに豊饒な意味とイメージを創り出さずにはいられない。デビューアルバムに収録された「海よ」に始まり、「海鳴り」(『愛していると云ってくれ』1978)、「船を出すのなら九月」(『生きていてもいいですか』1980)、「砂の船」(『寒水魚』1982)、「歌姫」(『寒水魚』1982)、「愛から遠く離れて」(『月‐WINGS1999)、等々の海を主題とした歌を、海や水の象徴性を踏まえて論じれば、極めて興味深い世界が現れることだろう。だが、個々の詩と詩の間のイメージや思想の交響については、不十分ながらも「地上の星」の分析で我慢することにして、中島みゆきが「大きな詩人」「全集を必要とする詩人」であるとひとまず認めた上で、さらに彼女の歌手=詩人としての、極めて興味深い特徴について述べてみたい。そして、これこそが私が他の大詩人たちからではなく、中島みゆきから学んだことでもある。

 

 

2)叙情詩と演劇性

 

 言葉を使って、いったい人は何をどこまで、どれだけ正しく、他人に伝えることができるのだろうか?思いは本当に言葉に表すことができるのか?世界は本当に言葉で表すことができるのだろうか?言葉を通して経験を共有することが可能なのだろうか?文学の究極的問題はこのようなことに尽きるだろう。そして、このような一連の問いに対して、少なくとも一部の詩人たちは自らの作品を通して肯定的な返答を体現していると確かに感じられるし、それを信じることもできる。すでに25年前から、中島みゆきもそのような詩人の一人だと私は思っていた、いや、感じていた。しかし、当時の私には、叙情詩(日本語で考える限り、詩は例外なく叙情詩である)の持つ「演劇性」の意味・意義が全くわかっていなかった。全ての言語芸術の母胎が劇であることは、文学の発生の歴史からも、また文学の構成原理の考察からも、確実である。だからこそ、詩にしても小説にしても、劇に対して奇妙な(しかし、よく考えれば、極めて当然な)コンプレックスを持っているように、少なくとも私には思われる。叙情詩は、演劇性を求めつつ、演劇性に反発もする。叙情詩に演劇性が生半可に持ち込まれると、最悪の場合、その詩は嘘くさくなり、偽物の臭いを放ち始める。中島みゆきの歌=詩との25年前の絶縁は、演劇性への(しかし、多くは私の誤解と理解不足にもとづいた)反発も、ある程度関係していたように思う。

 

 叙情詩が「表面上」演劇的になることは決して珍しくない。いや、厳密には、演劇的ではない叙情詩を見つけることの方が難しい。二人の登場人物が出会えば、必然的にドラマが生じるのだから。たとえ独り言でも、その中に他者が存在すれば、ドラマが生まれる。詩の中に一切の他者が存在しなくても、その語りが少しでも聴き手の存在を示すなら、やはりドラマが生じる。言葉はその本質において劇的なのである。したがって、問題をこのように言い換えた方が、問題の本質が見えやすくなるかもしれない。演劇的叙情詩が劇に成りきれないのはなぜなのか?

 

 勿体ぶった設問の割に、とりあえずの解答は月並みである。演劇的叙情詩が劇に成りきれないのは、作者と登場人物の距離による。演劇では、通常、作者の声ははるか後方に退き、直接に聞き取ることは難しい。マクベスの台詞の中にも、ハムレットの台詞の中にも、コーディリアの台詞の中にも、確かにシェイクスピアの思想の反映があるのかもしれない。しかし、どの人物を取り出しても、それがシェイクスピアの思想を独占的に代表しているとは、おそらく誰も考えない。もしも、劇中の人物が作者の思想を朗々と語り始めたら、その劇は十中八九失敗作になるだろう。作者の思想、作者の思いの丈は、特定の劇中人物に代表されるのではなく、その作品世界全体を通して表現される。

 

 対照的に、演劇的叙情詩では、作者の思いが詩中の人物の口を通して語られる。だからこそ、しばしば詩人たちは「腹話術師」と揶揄される。どんな人物を作り出しても、詩中の人物はみな腹話術師の人形に過ぎず、真の語り手は腹話術師である詩人一人ということになる。

 

 叙情詩の核は、心の内奥で長く密かに抱かれ続けた、言葉にもならない思いであり、あるときにその思いが抑えようもなく溢れ出し、必死で「ことば」を見つけようとする。「ことば」は「ことば」である限り、「私」と「あなた」を繋ごうとする。こうして詩が生まれる。詩とは、「私」が「あなた」に向かって語りかける親密な言葉であり、詩を読む人、聴く人は、その親密な言葉をふと立ち聞きする人に喩えられる。もちろん、その親密な言葉を耳にした人が、「私」あるいは「あなた」に自己同一化することは十分にありえる。いや、通常叙情詩はそのように受容されていると言っても良いだろう。例えば、啄木の

 

           かの時に言ひそびれたる 

           大切の言葉は今も 

           胸にのこれど

 

という歌を読み、失恋を経験した男の読者は自分自身の言葉を見つけた気がするかもしれないし、悲しいすれ違いの恋を経験した女性の読者であれば、この歌をそのまま自分自身に向けられた言葉だと感じるかもしれない。しかし、肝心なことは、いずれの場合でも、読者はこの啄木の書いた語句を「私」(おそらくは啄木本人)が「あなた」(おそらくは特定の女性)に向かって差し出した「大切の言葉」の残照として受け止めていることである。

 

 中島みゆきの歌の場合も仕組みは同じであろう。彼女が失恋の歌を歌うとき、そこで歌われている内容がそのままに事実を反映しているはずなく、彼女の個人的伝記とは直接には関係がないと思っていても、その歌の中に「中島みゆき」の親密な声を自然に聞き取っていることは疑えない。彼女が「アザミ嬢」のような娼婦でないことは誰もが承知しているし、彼女の心通わせた人が、二人の新居の屋根を塗り直すときに転落して落命したとは、誰も信じない。しかし、歌の中の「私」のモデルが中島みゆき本人であり(遠く離れたモデルであっても)、「あなた」と呼ばれている存在が、愛する男性か、あるいは恋敵の女性か、いずれにしても特定の人物がモデルとして(再び、遠く離れたモデルであっても)想定されていること、こうしたことは彼女の歌を聴くときの自然な前提になっているのではないだろうか?

 

 したがって、中島みゆきの歌=詩世界にあっても、「気丈な女」「母性的女」「酔いどれ女」「蓮っ葉な女」「捨てられた女」「頭の軽い女」「恨む女」「妬む女」「前を向く女」「自殺しようとする女」、等々、極めて多様なタイプの女性たちが登場するが、全ては「中島みゆき」の変装=変奏=ヴァリエーションであることは、ほとんど自明なことだと、私は思っていた。この理解は25年前も、その前も、それ以後も、ほとんど変わらない。けれども、その理解の「深さ」に関しては、雲泥の差があったようである。同じ言葉で理解しても、理解の内容や深さが全く違うということが少なくないが、私自身の例などもその最適(最悪)のものである。中島みゆきも彼女なりの流儀に従って、自分の作品に演劇性を持ち込もうとした歌手=詩人であり、彼女が「大きな詩人」になる必然性も、彼女の創作に関わる演劇性と大いに関連していたのだと、今になって私はつくづくと思う。

 

 

3)多様な女

 

 中島みゆきの歌世界は基本的には、1)「恋愛に関するもの」、2)「生きることに関するもの」、3)「世相批判的なもの」に大別されるが、その中でもっとも広くかつ強く支持されたものは、二人の女と一人の男の間での三角関係的状況における女の心理を主題にしたものだった。そのために彼女は「失恋歌」の女王とも見なされもした。その歌に情緒的に共感する人は、その歌を聴いてさめざめと泣き、その歌に見られる自己省察の深さ、厳しさに驚く人は、中島の自我の強さに感心する。しかし、中島の表現している問題を単に男女の三角関係に還元してしまうと、彼女の本質を見失うことになるだろう。確かに彼女は愛を歌い、別れを歌う。けれども、彼女の歌に並外れた力が宿るのは、彼女が愛に内在する孤独と死を強く意識し、この問題を間歇的ではなく、あたかも逃れることの出来ない中心的課題として扱っているからに他ならない。中島みゆきの世界では、失恋は一つの死であり、絶対的孤独への回帰であり、それゆえに、再生の機会でもありえる。(中島は再三にわたって、「生まれ変わり」、輪廻の可能性に言及する。)彼女の愛の主題が真剣で切実に感じられるのは、それが人間にとって最も切実な問題である生死に直接に関わっているからである。失恋して、その悲しみのために自殺を考えるという話では全くない。そんなことは問題にもされない。失恋がすでにそのままで死なのである。

 

           肩に降る雨の冷たさも気づかぬまま歩き続けてた

           肩に降る雨の冷たさにまだ生きてた自分を見つけた

 

           あの人なしでは1秒でも生きてはゆけないと思ってた

           あの人がくれた冷たさは薬の白さよりなお寒い

 

           遠くまたたく光は遥かに私を忘れて流れてゆく流れてゆく

 

           幾日歩いた線路沿いは行方を捨てた闇の道

           なのに夜深く夢の底で耳に入る雨を厭うのは何故

 

           肩に降る雨の冷たさは生きろと叫ぶ誰かの声

           肩に降る雨の冷たさは生きたいと迷う自分の声

 

           肩に降る雨の冷たさも気づかぬまま歩き続けてた

           肩に降る雨の冷たさにまだ生きてた自分を見つけた

 

 引用した歌は「肩に降る雨」(『miss M.1985)であるが、この歌が表面上は「失恋して、死の淵を彷徨った女が、『まだ生きている』、『まだ生きたいと思ってしまう』自分を発見する過程を描いている」ことは明らかである。しかし、最初に確認しておきたいことは、この声の主が「まだ生きてた自分を見つけた」と述懐している事実である。つまり、この女性は、こう語る寸前までは自分自身を「死んでいる」と思っていたことになる。このような意味で、失恋はそのまま一つの死なのであるが、この歌の持つ真の「冷たさ」は、死としての失恋によっては、人が死ねないことを明らかにしている点にある。死んでもまだ人は生きているのである。

 

 肩に降る雨の「冷たさ」が、単に物理的な、空から降る雨の冷たさではなく、絶対的孤独の中で気がついた「冷たい」認識を示唆していることは、「幾日歩いた線路沿いは行方を捨てた闇の道/なのに夜深く夢の底で耳に入る雨を厭うのは何故」という表現から明らかであろう。蛇足ながら、「なのに夜深く夢の底で耳に入る雨」という表現が如何に秀逸であるか、一言記しておきたい。このフレーズによって、「肩に降る雨」が文字通りの意味ではなく、象徴的表現であることがさりげなく示唆されるのであるが、同時に、雨が物理的な意味を強く保持していることにより、「夜深く夢の底で」という表現の方が、字義通りの意味ではなく、象徴的意味を持つようにもなる。物理的な雨が「夢の底」に届くことはないので、この場合は、愛を亡くした女が一人歩く闇の道を「夢の底」と呼んでいる、すなわち、生きていることそのものを、まるで胡蝶の夢のごとくに、「夢の底」と言っているのだろうという思いがしてくる。そうすると、「所詮一夜の夢に過ぎないこの人生の中で、どうしてたかが雨を厭うのか?」という声も聞こえてくる。夜更けのこの「冷たさ」には、全くの偶然に過ぎないが、私には、アイルランドの詩人であるイェイツの墓碑銘、

 

           Cast a cold eye

           On life, on death.

           Horseman, pass by!

             生にも死にも

             冷たい視線を投げよ。

             馬上の人よ、通り過ぎよ!

 

を思い出させるものがある。イェイツの「男性的」な命令文に較べ、中島の歌の述懐は、遙かに「女性的」で、か弱く響く。しかし、中島のか弱さは、ほとんど例外なく、「一本の葦」のか弱さであり、ダイヤモンドのような硬さの偽装、擬態に過ぎない。この強さの正体は、真実の詩、詩の真実が持つ強さである。真実の表現は、たとえそれが「1+1=2」ほどににありきたりのものであってさえも、それが真である限りにおいて、一種の強さを獲得する。逆に、どれほど口当たりの良い美文であっても、それが詩の真実から遠ければ、表現として十分な強さを持つことはない。(だが、それなら、はたして何が「詩の真実」とやらを作り出すのかという問いに答えるのは、決して簡単ではない。ここでは、少なくとも「肩に降る雨」の体現している強さの源に、「どんな絶望的孤独の中にいると思い込んでいる人でも、人は生きなければならないし、生きていたいと思ってしまう」という、冷たい真実のあることを指摘しておきたい。)

 

 失恋の中で「それでも生きている、生きていたい」という思いを表現するこのような歌が片方の極にある一方で、中島には「うらみ・ます」のような歌もある。

 

           ふられたての女くらいおとしやすいものはないんだってね

           ドアに爪で書いてゆくわやさしくされて唯うれしかったと

           うらみますうらみます

           あんたのこと死ぬまで

 

「ドアに爪で書いてゆくわ」という表現は極度に体感的で生々しく、いかにも中島の面目躍如たる表現だが、ここでの女は、行き場を失った想いを「うらみ」という形で残すことを、それが本当に可能かどうかはさておいて、決意している。この点で、「肩に降る雨」の女とは著しく対照的である。ここにあるのは、死にも等しい孤独の中での「目覚め」ではなく、どうしても死ぬことさえできない妄執に似た強い執着である。もちろん、考えようによっては、この強い執着がついに切れたとき、女は茫然自失となり、薬を飲むか、線路沿いを何日も彷徨い歩き、その挙げ句に、「まだ生きている」自分に気づくのかもしれないし、逆に、もしかしたら、「まだ生きている自分に気がついた」後に、「死ぬまでうらむ」ことを決意するのかもしれない。ということは、これらの歌の間に共通のキャラクターを探し出すことは、完全に不可能というわけではないかもしれない。しかし、それでは、もう一つの例を見てみよう。

 

           もう うらみごとなら 言うのはやめましょう

           あの日 出会った 思い出までも

           まちがいに 思えてしまうから

 

           ねぇ 出会いの言葉を 忘れないでいてね

           だれかに ほめてもらったことなど

           あれきりのことだもの

 

           時計の針なら戻る

           枯れた花でさえも 季節がめぐれば戻る

           でも 私たちの愛は

           Good-by Good-by 明日からひとり

           どんな淋しい時でも 頼れないのね

           Good-by Good-by 慣れてるわひとり

           心配なんかしないで 幸せになって

 

           ねぇ 歳をとったら もう一度会ってよね

           今は心が まだ子供すぎます

           謝ることさえも できぬほど

             (「ひとり」、『はじめまして』1984

 

 この歌の女は、別れた相手を「死ぬまでうらむ」どころか、「歳をとったらもう一度会って」、「幸せになって」と願う女である。その理由は、もしかしたら、この別れの原因が相手の男の不実にあるのではなく、その非が自分にあることを自覚している(「今は心がまだ子供すぎます/謝ることさえできぬほど」)ためかもしれない。しかし、それならばなおのこと、この歌の中の女は、「うらみ・ます」や「肩に降る雨」に歌われる女とは全くの別人であろう。

 

 つまり、中島みゆきが歌の中で実践していることは、別れという状況において考えられる様々な可能性を一つずつ、微に入り細に亘って描き出すことに他ならない。男女の別れに際しての女の様々な心理を描き分ける、それも非常に生々しく描出することから、中島みゆきはときに巫女と呼ばれ、憑依体質とも言われる。「元気ですか」(1978)の朗読やそれに続く「怜子」の叫び、本当に泣きながら歌っているのではないかと思われている「化粧」(1978)や「うらみ・ます」(1980)の絶唱などはその典型であろう。近年では、かつてのような生々しい感情表現に代わって、数種類の特徴的な声色と歌い方、あるいは曲調を使い分けることで、「強がりを言う女」、「けなげな女」、「寂しい女」などを巧みに表現し分けている。いずれにしても、中島みゆきの歌には全く異なった相貌の女が次々に現れる。彼女の歌が、まるで小さな物語のように感じられるのは、おそらくはこうした特徴のためである。

 

 三角関係の中で、裏切られ、捨てられ、それを恨む女(「うらみます」)、自分が選ばれないことを知っても、まだ愛を諦められない女(「捨てるほどの愛でいいから」)、自分が選ばれないことを知って、泣きながら去っていく女(「慟哭」)。寂しく笑って、あるいは強がりを言い残して去る女(「ご機嫌如何」)。自分の立場を知って、身を引くことを決意する女(「悪女」)、恋敵に愛する男を委ねようとする女(「気にしないで」)、等々。このリストに欠けているのは、愛されて、たとえ束の間でも、十全な喜びを感じ取る女の姿だけである。

 

 

4)ペルソナ・カメレオン・キマイラ

 

 叙情詩の核を形成するものが、自己が自己に向かって呟く声、自己が他者に向かって囁く親密な声だとすると、それならば、一人の詩人の作品世界にこのように多様な女の相貌が現れることを、どう理解すればよいのだろう? もっと端的な疑問として、近年の中島みゆきに顕著な、明らかに異なった声色の使い分け――頼りない少女のような可憐な声から、嗄れて押しつぶされたような、凄味を利かせた声まで――の意味をどう考えればよいのか? いや、さらにもっと単純に、彼女の歌に「ぼく」や「俺」という男の声が混じっていることをどう考えればよいのか?

 

 ごく単純に考えるならば、歌手である中島みゆきが、歌の中の劇中人物にそのたびに成り変わり、一つの役を演じているということになるだろう。そして、その演技があまりに真に迫っているために、前述の通り、憑依体質とも評されるのだろう。それを例えばユング風に「ペルソナ」と呼び、仮面劇よろしく、怖い女や寂しい女の仮面=マスクを付けた中島みゆきが変幻自在に歌っていると考えることは、それほど不自然なことではないかもしれない。実際、「夜会」と呼ばれるミュージカルのようなステージも中島みゆきの中心的活動の一つであり、事実として彼女は半ば役者でもあるのだから。また、通り一遍の心理学においても、さらには非常に素朴な一般的理解においても、人はしばしば仮面(ペルソナ)を被っていた方が日々の営みをいっそう容易に遂行できるとさえ考えられている。社会生活においても複数の仮面を使い分けることは決して珍しいことではない。

 

 けれども、仮面=ペルソナという概念には、どこか虚偽の匂いがどうしてもつきまとう。その変幻自在ぶりは、自由よりも放埒を暗示し、責任よりも無責任を示唆しかねない。考えようによっては、複数の仮面=ペルソナを適切に使いこなせる能力こそが社会性を意味しているともいえるが、「仮面」は言うに及ばず、「ペルソナ」という言葉でさえも、その気になればまるで服でも着替えるかのように、自由に脱ぎ捨て、別の仮面=ペルソナに変わることが可能であるかのような「錯覚」を与えかねない。このような、簡単に取り替え可能な仮面であるなら、本人にとっても、周囲の人間にとっても、取り立てて真剣に考えるまでもない。所詮はアクセサリーに過ぎないのだから。問題とされなければならない仮面=ペルソナは、むしろalter ego(もう一人の私)とも呼ぶべき、強固で、確実な存在、自我と並び立つほどの力を備えたペルソナである。さもなければ、詩の中の声が強いリアリティを持つことなどありえない。ユングの「ペルソナ」という概念はこのような意味で用いられていたはずだが、いつの間にか、「ペルソナ」は「仮面」に近い意味で使われるようになってしまったようである。ともかく、中島みゆきが様々な女を「演じる」ことについては、仮面=ペルソナの概念ではなく、もっと別の、もっと適切な概念を用いて考えるべきであろう。彼女がときに両極端の女を「演じる」とき、それらの対立的な女性像は、決して取り替え可能な任意の存在、主体が自由に選択できるような、「あれかこれか」的な存在ではなく、一つの存在の本質的二面性、決して分離することのできない多面性を示しているのであるから。考えるとき、可能な限り適切な言葉で考えることは、しばしば軽視されているが、非常に重要なことである。間違った言葉を使えば、対象は歪んで見えてしまう。間違った言葉に頼る限り、対象を正しく捉えることは決してできない。

 

 中島みゆきの使い分ける複数の声色の意味や、彼女が表現する極めて振幅の広い女性像を正しく捉えようとして、仮面=ペルソナ以外の適切な言葉を探すために、まさか25年もかかったと言いたいわけではないにしても、「詩人とは本質においてキマイラ的存在である」ということに私が思い至るまでには、やはり相当な時間が必要だったと実感する。

 

 キマイラとは、ギリシア神話に登場する、「ライオンの頭、山羊の身体、蛇の尻尾を持つ怪物」である。詩人を怪物に喩える是非はともかく、詩人が、変身や変装を生業とする人間ではなく、あえてセンチメンタルな言い方をするなら、半ば宿命的に複数の視点、つまりは複数の相貌、複数の人格を委ねられている人間であることを「キマイラ」という概念は照らし出してくれる。詩人は、自らの好みに合わせて、どんな声でも自由に使いこなせるわけではない(中には、そうした器用な詩人もいるのかもしれないが)。オペラ歌手の声質がその役柄を限定するように、詩人も、たとえ複数の声を持つとしても、結局は限定された主題と限定された態度を示さざるを得ない。

 

 しかし、「ペルソナ」から「キマイラ」へ移る前に、「カメレオン」についても触れておきたい。少なくとも英語圏では、詩人はしばしばカメレオンに喩えられる。このことを最初に知ったのは、詩人ジョン・キーツの書簡集を通してだった。まとまった詩論を著すこともなくわずか25歳でこの世を去らねばならかったキーツは、友人に宛てた手紙の中で、詩人の特徴について次のような意味のことを語っている。詩人とはそれ自体として存在するものではなく、個性を持たず、どんなものにもなることができて、しかもどんなものでもない。詩人とは、個性に秀でた存在ではなく、共感する能力に秀でた存在であり、確固とした性格さえ持っていない存在である。キーツと同時代の詩人であるシェリーも、詩人=カメレオン説に言及しているし、20世紀のアイルランド詩人W.B.イェイツも、詩人になるための修業時代を、自伝の中で「カメレオンへの道」と呼んでいる。

 

 ロマン派の詩人が「カメレオン」に惹かれた背景には、詩人をエオリアン・ハープ(吹いてくる風に合わせて自らを理想的にチューニングし、妙なる音楽を勝手自在に奏でる風琴)に喩える詩的伝統があったにしても、詩人に確固たる個性は無用だと断言するキーツには、それからおよそ50年後に、今度はもっと露骨に反抗的な口ぶりで、「私とは、一人の他者である」と言ったランボーを思い起こさせるものが確かにある。

 

 周囲の色に合わせて自らの色を様々に変えるカメレオン。吹き寄せる風に合わせて様々な音調で鳴り渡る風琴。これらの比喩は、いくつかの点では仮面=マスクの比喩に似ているが、比喩としての「カメレオン」や「エオリアン・ハープ」には、「本当の自分」というものの入り込む隙間のないことに注意しなければならない。カメレオンや風琴の比喩によれば、詩人とはそれ自体では無個性なのである。これは「仮面」による変装とは対照的でさえある。仮面はその下に隠れている素顔をいつも暗示する。言い換えれば、仮面の下に本当の顔があるかのように私たちは思わされる。他方、詩人=カメレオンの比喩は、詩人の真正さを示す点では「仮面」の比喩とは比較にならないにしても、詩人がどんな色にも染まることができる(キーツは、少なくとも友人宛の手紙の中ではそう信じていた)との「誤解」を与えること、さらには(結局は同じことであるのだが)詩人に特有の個性がないという極端な主張にまで進展してしまう点において、たとえその主張が仮面=ペルソナの比喩に伴う欠陥を補うものだと認めたとしても、必ずしも適切な比喩とは思えない。事実として、全ての詩人は、語彙においても、扱う主題においても、それぞれに固有の傾向を確実に示しているのだから。

 

 しかし、キーツの名誉のために急いで書き足すと、キーツが「詩人=カメレオン説」に言及した手紙の前段は、当時一世を風靡していた詩人であるワーズワースの自我があまりに強すぎる、彼の詩があまりに自己中心的に過ぎるという批判に割かれており、理想的詩人をワーズワースではなく、「千の心を持つ詩人」と評されるシェイクスピアに求めた結果、「詩人はどんなものにも感情移入できなければならない」という結論に至ったわけである。実際、もしも詩人が本当に「無個性」であったなら、一編の詩も生まれないだろう。詩人という風琴は、確かに外界からの刺激に非常に繊細に、絶妙に反応する楽器かもしれないが、その楽器は自ずと、知らず知らずのうちに、自らに相応しい風だけに反応できる楽器でもあるだろう。

 

 しかし、それならばこそ、今一度よくよく省みる必要がある。

 

 詩人たちが、誠実さを維持しつつ、同時に多様性を獲得していること。詩人たちの他者に対する共感が、気取りでもなく、偽りでもなく、真正なものでありえること。腹話術師と揶揄される詩人の言葉が嘘偽りでなく真実だと信じられること。中島みゆきに話を限れば、失恋における女の様々な心理を、手を変え品を変えて描き分け、全く別様な女に成り変わり、しかも抒情的詩人=歌手であり続けられること。あるいは、自らを第三者、ないしは傍観者の立場に置いて、他者――多くの場合は聴き手――の悲しみに共感を示し、その共感が通り一遍の紋切り型に終わらず、つまりは単なる共感ではなく、彼女自身の自発的・内発的叫びへと転ずること。このような矛盾の統合、奇跡にも似た止揚が、どのようにして可能になるのだろうか?

 

 

5)言葉と否定、言語の二項対立的あるいは「弁証法的」性格

 

 25年前に「ファイト!」を初めて聴いたとき、中島みゆきが他人のために、聴き手という他者を明確に意識して、いわば自覚的に「メッセージソング」を歌い始めたと直感した。そして、その変化は、彼女の歌が純粋な叙情詩から何か別のものに、つまりは不純な叙情詩へと変わってしまう兆候と感じられた。くり返すが、そのときの私は詩人たちが「キマイラ」であることを十分には知らなかった。彼ら彼女たちは、ライオンと山羊、肉食と草食の、考えようによっては正反対の性格を一身に備えた存在であり、本質的に「あれかこれか」という問いを無効にしてしまう存在なのである。「ペルソナ」も「カメレオン」も「キマイラ」も、詩人特有のこの複数性(ジャン=リュック・ナンシーの極めて興味深く、示唆に富む概念を借用するなら、「複数にして単数の存在」、「単・複数性」とでも言うべき特性)を問題にしている点においては、完全に同一である。詩人とは、「あれもこれも」を必然的に実践する人である。

 

 なぜ必然と断言できるのか。それは、詩人たちの手段が言葉であり、その言葉が、つまり全ての言葉が例外なく「キマイラ的」であるからに他ならない。いや、ここでは「キマイラ的」という表現は最早決して正確ではない。言葉は自らの内部に(仮に内部と呼べるようなものがあるならば)自らを打ち消す「否定の原理」を備えており、自らの成立の基盤を二項対立に置いていると言うべきである。

 

 アメリカの批評家(と呼ぶには、少々巨大すぎる存在と思われるのだが、おそらくはそれゆえに、日本での紹介が遅れている)ケネス・バークは、「人間の定義」というエッセイの中で、言葉が否定の原理によって成立していることを明らかにしている。

 

全ての道徳的語彙は二項対立的両極性を備えている。そして、事実として、正の価値を示す言葉も負の価値を示す言葉もお互いを含意する。

 

つまり、YESNOを、NOYESを、あたかも潜像のように含意するように(YESがあるところ、必ずNOがある、逆もまた然り)、「真」は「偽」を、「秩序」は「無秩序」を、「正義」は「不正」を、それぞれ潜像として含意する。これらの二項対立は、言葉とその認知のシステムの中で、一枚のコインの両面、常に一対となって機能している。

 

 バークは専ら道徳的語彙について語っているが、一般に一対となって機能する言葉には同様の特徴が認められる。「上」といえば同時に「下」が思い浮かぶし、「右」といえば直ちに「左」が導かれる。そして、「好き」といえば「嫌い」が即座に顔を出す。「愛」と聞けば、その対極に何があるかを定めることが難問だとしても、例えば「憎しみ」や「裏切り」、「別れ」が瞬時に連想される。

 

 こうした仕組みは言語に刻印されたものであり、(バークによれば、それは結局、言語というものが「否定の原理」によって支えられている、言語の隅々に否定の原理が染み渡っているためである)、従って、人間の認知システムにとっても、ほとんど先天的と言っても過言ではない特性になっている。光があれば影があるように、そして影のあるところには必ず光があるように、言葉は自らとは正反対のものを内包している。詩人たちがキマイラになるのは必然であろう。

 

 中島みゆきの作品も、こうした言語=人間の特性を意識的・無意識的に、しかし極めて効果的に利用している。最もわかりやすい例として、「あした天気になれ」(『臨月』1981)の一節を引用しよう。

 

           雨が好きです 雨が好きです

           あした天気になれ

 

           愛が好きです 愛が好きです

           あした孤独になれ

 

通常この歌は、歌の主人公の屈折した心理、天邪鬼的心理を反映していると理解されており、ときには中島の分裂病的言動の反映とさえ思われているようである。しかし、この歌=詩が効果を発揮する根拠は、「雨が好きです」と耳にした途端に、「雨は嫌いだ」という正反対の命題が陰画として浮かび上がり、そのとき、間髪を入れず、「あした天気になれ」と畳み掛けることによって生じるカタルシス、さらには、「愛が好きだ」と聞いた途端に、「別れ」が浮かび上がり、その上に「孤独になれ」という言葉が塗り重ねられ、そうなると今度は、この「孤独」が正反対の「愛」をあたかも補色効果によって照らし出す点にあると考えられる。

 

 もう一つ、同じくらいにわかりやすい例として、再度「うらみ・ます」(1980)の場合に言及したい。

 

           ドアに爪で書いてゆくわ やさしくされて唯うれしかったと

           あんた誰と賭けていたの あたしの心はいくらだったの

           うらみますうらみます

           あんたのこと死ぬまで

 

確かに「死ぬまでうらむ」と、しかも本当に泣いているのかと思われるような声で歌われ、これほど怖ろしい「ポップス」が今後も登場するとは思われないほど、強烈な印象を残す作品である。しかし、ここでの「うらむ」が「愛する」と同義であることは、今さら言うまでもないほどに明白である。この歌が熱烈なラブソングであること。それにもかかわらず、この女性は「愛している」、「死ぬまで愛し続ける」と言えないのだという点にこそ、このドラマのクライマックスがあるのではないだろうか。この女性が、後日、

 

           女のつけぬ コロンを買って

           深夜の サ店の鏡で うなじにつけたなら

           夜明けを待って 一番電車

           凍えて帰れば わざと捨てゼリフ

          

           涙も捨てて 情も捨てて

           あなたが早く 私に愛想を尽かすまで

           あなたの隠す あの子のもとへ

           あなたを早く 渡してしまうまで

          

           悪女になるなら 月夜はおよしよ

           素直になりすぎる

           隠しておいた言葉が ほろり

           こぼれてしまう  イカナイデ

           悪女になるなら

           裸足で夜明けの電車で泣いてから

           涙 ぽろぽろぽろぽろ

           流れて 涸れてから     (「悪女」、『寒水魚』1982

 

のような「悪女」を涙ながらに演じたとしても、私には全く不思議ではない。

 

 正反対の二極が同時に、重なり合うように共存している存在。心理学者のユングは人間(の心)をそのようなものだと考えていた。このユングが「集合無意識」や「シンクロニシティ」といった概念を用い、西洋の個人主義的土壌の中では極めて異端的な、オカルト的仮説を作り出したことは周知であるが、一人の人間の中に正反対が同居するならば、自己と他者の相違など比較的容易に乗り越えられることは、半ば必然である。アニマ・アニムスと呼ばれた、人格化された無意識が、自立性を獲得し、一人の他者となる可能性は、それが健全な状態か病的な状態であるかは別問題として、大いにありえることである。ユングと同じように中世以来の錬金術やネオ・プラトニズムに傾倒した詩人であるイェイツも、人間存在を正反対の二極が同居した存在だと考えていた。従って、イェイツの詩の中には、魂と肉体という正反対のキャラクターによる対話詩や、「キマイラ的」としか言いようのない異様な(端的に二つの対照的相貌が同居した)表象がくり返し登場する。その典型は、「燃え上がる緑の樹」と表現される、片面は燃え上がり、もう片面は水の滴る大樹である。そして、中島みゆきにも、露骨にユング的な、元型的表象を直接題材にした、全く弁証法的な世界を描いた歌がある。

 

           あなたは炎の大地を歩き 途切れた未来へ注ぎ込む者

           けれども情の深さのあまり 己を癒せず凍えゆく者

 

           私は凍った大地を歩き 凍てつく昨日を暖める者

           けれども思いの熱さのあまり 己を癒せず身を焦がす者

 

   Flame & Aqua なんて遠い者たち

   私たちは互いに誰より遠い

   Flame & Aqua なんて同じ者たち

   いちばん遠い者がいちばん近いの

 

           私はあなたを傷つける者 誰よりあなたを傷つける者

           けれども唯一癒せるすべを それとは知らずに持っている者

 

   Flame & Aqua なんて遠い者たち

   私たちは互いに誰より遠い

   Flame & Aqua なんて同じ者たち

   いちばん遠い者がいちばん近い

   Flame & Aqua 互いから生まれあう

   あなたがいなければ

   私はまだ生まれていないような者

 

           あなたがあなたになればなるほど

           私が私になればなるほど

           互いは互いが必要になる 誰から教えられることもなく

              (「炎と水」、『歌でしか言えない』1991

 

火と水という、典型的かつ相補的アーキタイプを男女に割り当てること自体はそれほど珍しいことではないとしても、注目すべきは、中島みゆきの思考に、この例に顕著なように、二項対立をダイナミックに捉え、それを足がかりにして考えを進めようとする傾向が明らかに存在しているという事実である。

 

 両極端を想定して、その対照によって思考を進める、いわゆる「弁証法」的思考法は、ソクラテスの昔から最も哲学的な思考法の一つである。(しかし、そもそも言語の成立が『弁証法的』」であること、ケネス・バークはこのことを指摘していたのである。)そして、哲学とは「徹底的に、とことん考えること」に他ならない。これは、哲学者たちの仕事を、わずかではあるが知るにつけ、私が実感したことである。多くの「非・哲学的」な人々であれば、即座に「わかりきったこと」、「考えても仕方のないこと」、「考えても無益なこと」と切り捨てる当たり前の問題を、執拗に考えなくてはいられなかった人を哲学者=知を愛する人と呼んだのであろう。その典型は、言うまでもなくソクラテスその人である。その彼が選択した思考法が弁証法、あるいは問答法であった。思考は、YESNOとの間で生まれ、育つ。

 

 このような意味で、中島みゆきの仕事は見事に哲学的であると言いたい。これは大袈裟だろうか? しかし、仮にこれが大袈裟な物言いだとしたら、その責任は私ではなく、まして中島みゆきでもなく、「哲学」という言葉と営みが、いつの間にか、不必要なほどに大袈裟な言葉になってしまったからに他ならない。大切なことをいつまでも大切に抱え込んで、じっと考え続けること。思い続けること。育て続けること。これほどに人間的な営み(動物たちは、失礼ながら、哲学とは無縁であろう)を「哲学」と呼ぶのであれば、この本来はたおやかな女性の名を持つ優しい営みを日常の歌の中に見出すことは、謹厳だったプラトンは毛嫌いするかもしれないが、ソクラテスならば、そこからさえも彼の哲学を始めたに違いないと、私は夢想する。

 

 中島みゆきが愛について徹底的に考え詰めていることは間違いない。「別れ」について、死別をも含め、両極端な状況を想定し、その範囲内で起こり得る様々な可能性について考えることを通し、彼女は彼女にとっての愛の意味を探ろうとしている。こうした態度、こうした活動こそが、彼女を「大きな詩人」、「全集を必要とする詩人」にしたのである。当然であろう。「大きな詩人」とは、大地にしっかりと根を張った、自らに固有の声で、自分自身の思想を語れる詩人のことなのだから。(中島自身、「竹の国」という歌の中で、「私がなりたいものはといえば/地下に根を張る あの竹林」と歌っている。)そして、両極端に揺れる中島の歌を聴いているとき、それがどの瞬間かは人により異なるであろうが、人は突然思い当たる、「これは私だ」と。彼女の歌う多様な女の像から適当に気に入ったものを選んでくるという話ではない。そうではなく、「このように矛盾した存在が私だ」と気がつくのである。人は、別れた恋人に対して、他の誰よりも大切だと思っている人に対して、優しくもなれば薄情にも、残酷にさえもなる。今日は泣いても明日は笑う。今は死にたくなっても、次の瞬間には明日を夢見る。「私」が複数であること――。山羊でもあり同時にライオンでもあること――。

 

 今日の「私」は明日の「私」」と、同じではあるが、しかし別物でもあろう。そうでなければ、なぜ愛し合っていた二人が別れなければならないのか、なぜ心変わりがありえるのか、説明がつかない。そして、変わることを可能にするのは時間だけである。いや、時間こそが変化の元凶であろう。したがって、時間もまた中島みゆきにとって重要な主題となる。愛する男を、しかもおそらくは帰っては来ない男を待ち続ける女を想定して、中島はあるところで「待つ」と「待たない」の差は、時間を取り去ってしまえば、全く意味がなくなるという意味のことを言っていた。時間さえなければ、変化には一切意味がなくなる。時間がなければ、存在も意味をなくす。恋の歌は、考え詰めれば、ハイデガーにも近づく。

 

 

6)観念的恋愛詩

 

 執拗に愛の意味を考える歌手=詩人にとって、主題の繰り返しは必然であり、むしろ賞賛されるべき美点であろう。創作家は、気散じ事を売る娯楽のデパートではない。次から次に目新しい娯楽を提供することが彼らの仕事ではない。セザンヌはいつもサント・ヴィクトワール山を描いたし、ゴッホは向日葵を何枚も描いた。彼らには、何としても掴み取りたい問題と対象があったから、飽くことなくその主題に取り組んだ。そしてやがて、セザンヌの画面は色のパッチワークのようになり、ゴッホの画面はいっそう光り輝くようになっていった。同じ主題を扱いながら、彼らは、自分自身に誠実である限り、確実に変化していく。人は、たとえ望んだとしても、一所に留まり続けることは決してできない。全く同じように、中島みゆきも、執拗に愛と別れを歌いながら、いつしか決定的な変化を示し始める。それを私は、彼女が観念的恋愛詩ともいうべきタイプの歌を創るようになったことに認める。あるときから中島みゆきは、愛を語るに際して、恋愛の仮想的状況を必要としない、ある意味では観念的ともいえる歌を書くようになる。歌の主題が三角関係の現場を離れ、個々の具体的な状況や心理ではなく、愛そのものが主題とされる。『グッバイガール』(1988)という、象徴的にも響くタイトルを冠したアルバムに収録された「愛よりも」が、その端緒だったかもしれない。

 

           人よ信じるな けして信じるな

           見えないものを

           人よ欲しがるな けして欲しがるな

           見果てぬものを

           形あるものさえも あやういのに

           愛よりも夢よりも 人恋しさに誘われて

           愛さえも夢さえも 粉々になるよ

 

           嘘をつきなさい ものを盗りなさい

           悪人になり

           傷をつけなさい 春を売りなさい

           悪人になり

           救いなど待つよりも 罪は軽い

           愛よりも夢よりも 人恋しさに誘われて

           愛さえも夢さえも 粉々になるよ

 

           星を追いかけて 月を追いかけて

           どこまでも行け

           黄金を追いかけて 過去を追いかけて

           どこまでも行け

           裏切らぬものだけを 慕って行け

           愛よりも夢よりも 人恋しさに誘われて

           愛さえも夢さえも 粉々になるよ

 

 この詩の「難しさ」は、「愛」「夢」「人恋しさ」の比重関係(どちらがより大切なのか、あるいは両方ともが大切なのか、等々)と、「悪人になれ」という逆説的勧告の理解にかかっている。しかし、書かれた(歌われた)言葉を「素直に」受け取る限り、必ずしも難解な作品ではない。

 

 「愛」と「夢」に対立するように「人恋しさ」が並べられていること、それがこの歌=詩の前提である。そして、「愛」「夢」は「見えないもの」「見果てぬもの」であり、第一連では、こうしたものを追求するなという勧告がなされる。リフレインの意味は、この段階ではかなり曖昧で、仄めかされていることは、「愛や夢は極めて儚い」ということであろうか。が、ともかく、「愛」「夢」に対する「人恋しさ」の引力の強さが示されていることは確かである。

 

 第二連になると、語句の過激さは増し、「悪人の方が、救いを待つよりも、罪が軽い」という、かなり「難解」な教義が示される。しかし、「愛」と「人恋しさ」が対置されていることを前提にしてこの教義を読めば、「傷つけ合うかもしれない愛の方が、誰かと奪い合うことになってしまう愛の方が、人恋しさ(差し伸べられる優しい手)よりも、ずっと望ましい」と言っていると理解される。人は、愛や夢ではなく、人恋しさゆえに誘い出される、人が愛や夢と信じているものは、しばしば単なる人恋しさに過ぎない、だが、「人恋しさ」は「愛」や「夢」を台無しにする。「人恋しさ」が「愛」や「夢」を粉々にしてしまう理由は依然として謎めいているものの、第二連で否定されるのは、このような可能性である。

 

 とすると、第三連は「対象はとりあえず何でもいいから、ともかく、自分の信じるものへ向かって、それが星だろうと月だろうと、黄金だろうと過去だろうと、自分の求めるものに向かって、たとえ孤独になろうと、突き進め」というように読めはしないだろうか。このように読む限り、この世界は、一見どんなに過激な表現が散りばめられていても、「ファイト!」で表現されていた世界からそれほど遠いわけではない。

 

 しかし、なぜ星や月、黄金や過去が「裏切らぬもの」なのだろうか? 第三連を見る限り、星、月、黄金、そして過去が、「裏切らぬもの」と言い換えられていることは確かである。ならば、この「裏切らぬもの」と「愛=夢」との関係はどうなっているのだろうか? はたして、星や月、黄金や過去は、本当に「裏切らない」のだろうか? そもそも、星や月、黄金や過去は、愛と夢の典型的対象であるにしても、同時に極めて両義的表象である。星や月は、報われないかもしれない献身的愛情を傾けるべき対象の象徴であるが、だからこそ虚しさの象徴にもなる。黄金は、少なくともある人たちにとっては、愛する人からの愛情よりももっと欲しいものであるだろうが、虚栄の典型的象徴でもある。過去が夢見る対象としてしか存在し得ないことは言うまでもないが、それゆえに夢の儚さを前提として過去の虚しさを表すこともありえる。なぜこのように曖昧で両義的な表象が「裏切らぬもの」と見なされるのか?したがって、「愛よりも」が表していることに難しさがあるとしたら、「愛」と「裏切らぬもの」の関係をどう理解するかにかかっている。

 

 「裏切る」という言葉を中島みゆきから聞くと、私はほとんど条件反射のように「キツネ狩りの歌」を思い出す。この歌を通して、大学生になったばかりの私は、裏切りと信頼の意味を自分なりに悟ったように思う。

 

           キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ

           キツネ狩りはすてきさただ生きて戻れたら

           ねぇ空は晴れた風はおあつらえ

           あとは君のその腕次第

 

           もしも見事射とめたら

           君は今夜の英雄

           さあ走れ夢を走れ

 

           キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ

           キツネ狩りはすてきさただ生きて戻れたら、ね

 

           キツネ狩りにゆくなら酒の仕度も忘れず

           見事手柄たてたら乾杯もしたくなる

           ねぇ空は晴れた風はおあつらえ

           仲間たちとグラスあけたら

 

           そいつの顔を見てみろ

           妙に耳が長くないか

           妙にひげは長くないか

 

           キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ

           グラスあげているのがキツネだったりするから

           君と駆けた君の仲間は

           君の弓で倒れたりするから

 

 友人たちとキツネ狩りに行き、競い合う。しかし、最初からこのキツネ狩りには、何か奇妙な不安がつきまとっている。生きて戻れない可能性が示されるのだから。そして、いつしか隣の友人がキツネに見えてくる。しかし、この歌の真に怖ろしいところは、そのキツネ=友人を自分が射殺してしまうところにある。「君と駆けた君の仲間は/君の弓で倒れてたりするから」。この悲劇は、決して単なる誤射ではない。あるとき、キツネ狩りというゲームの中で、友人の顔がキツネになっているのである。だから、人はそのキツネを勇んで射る。仲間が敵に見える。だから傷つける。そして、これが相互に生じる。つまり、仲間の目には自分の姿がキツネに見えているのかもしれない。だから、キツネ狩りに出かけるのは危ない。生きて戻れないかもしれないから。

 

 この寓話的歌詞に「裸足で走れ」や「友情」、あるいは「僕は青い鳥」を並べたとき、暗鬱たる気分に襲われる人が必ずいることだろう。

 

           裸足はいかがと すすめる奴らに限って

           グラスを 投げ捨てる

           〔中略〕

           ここまでおいでと 手を振り手招き

           背中へ ガラスを降り注ぐ  

             (「裸足で走れ」、『親愛なる者へ』1979

 

           救われない魂は

           傷ついた自分のことじゃなく

           救われない魂は

           傷つけ返そうとしている自分だ

           〔中略〕            

           背中にかくしたナイフの意味を

           問わないことが友情だろうか

             (「友情」、『臨月』1981

 

           幸せを追いかけて 人は変わってゆく

           幸せを追いかけて 狩人に変わってく

             (「僕は青い鳥」、『はじめまして』1984

 

「中島みゆきは暗い」と言われる所以である。しかし、この同じ歌手=詩人が「二隻の舟」のような歌を歌っていたことも忘れてはならない。

 

 絶対的盲目的信頼とそれに正確に均衡する絶対的盲目的責任だけが、二隻の小舟を繋ぐ絆だった。そしてそれは、「たかが愛」と呼ばれ、一本の葦のようにか弱く、しかし同時に宇宙にも比較し得る驚くべき存在であった。しかし、もしもその信頼と責任のバランスが崩れてしまうようなことがあれば、愛も崩れるしかあるまい。「裏切る」とは、相手からの信頼を、そして自らの責任を裏切ることに他ならない。


 もし友の顔がキツネに見えるとしたら、その変化はどのように始まってしまったのだろうか? キツネ狩りを怖いと思ってしまう不安はどのように生まれてしまったのだろうか? 盲目的信頼はどうして消えてしまったのだろうか? 友の、あるいは恋人の、冷たい、心ない言葉や態度がその原因なのか? だが、もしもそれ以前に絶対的信頼というものが確かに存在していたならば、冷たい、心ない言葉はいかなる意味においても存在し得ないはずである。絶対的信頼に不信の差し込む隙はない。


 「キツネ狩りの歌」は私にはまるでシェイクスピアの、例えば『オセロー』や『マクベス』の世界を表した小唄のようにさえ感じられる。オセローは、かつては愛と純情の象徴であったハンカチーフを不倫と裏切りの象徴と勝手に思い込み、愛するデズデモーナを自らの手で殺める。愛を裏切ったのが、愛を信じられなかったオセローであることは明らかである。マクベスもまた、魔女の言葉に唆され、主君と友人の信頼を裏切り、彼らを謀殺する。魔女がマクベスの隠された野心を象徴するにしても、マクベスが主君と友を裏切ることを決意するのは、友の野心を疑った瞬間でもあっただろう。


 信頼と不信(疑い)は奇妙な関係にある。両者はもちろん正反対の関係にあるのだが、決して単純な対立関係になっているわけではない。信頼は免疫系を備えた健康体のようなものであり、疑いはその免疫系に侵入するウィルスのようなものに喩えられる。信頼が十分に行き渡り、健全な免疫系が維持されている限り、たとえ不信や疑いのウィルスが蒔かれたとしても、不吉な侵入者はたちどころに一蹴される。もしかしたら、ウィルスとの対決で一時的に免疫の衰えることがあるように、一時的に信頼が傷つくこともあるのかもしれない。しかし、その生命体が十分に健康である限りは、免疫系はすぐに自己修復する。同様に、信頼も、それが信頼である限り、必ず自己回復する。

 

 もしも、オセローに十分な勇気と優しさがあったなら、オセローはもっと大胆に、そしてもっと直截にデズデモーナを問い質し、その結果、イヤーゴの企みに気がついて、悲劇は喜劇に変わっていたはずである。つまり、友の顔がキツネに見えたとしても、そのキツネを信頼する気持ちがまだ少しでも残っていたなら、その次の瞬間には、キツネの顔は雲散霧消し、以前よりもいっそう明るい笑い声が戻ってきたことだろう。だが、友をキツネだと思い込んでしまった瞬間に、キツネを射る矢、即ち不信の矢はすでに放たれている。その不信の矢は、信頼の絆を切り裂かずにはいられない。つまり、友をキツネに変え、その友を殺めるのは、自らの内部に芽生えた不信以外の何ものでもない。不信によって信頼が損なわれてしまえば、その瞬間に愛は滅びてしまう。その瞬間に、友の顔がキツネに変じる。それはちょうどウィルスによって免疫系が破壊されてしまえば、生命体が、最悪の場合には、滅びる他ないことと似ている。

 

 愛するとは、この意味で、不信を乗り越えること、不信の魔を追い払うことであり、裏切るとは、この不信の魔に蝕まれることである。しかし、「キツネ狩りの歌」の真の凄みは、不信の相互作用、相乗効果を指摘している点にある。「君と駆けた君の仲間は/君の弓で倒れたりする」とは、つまり、君が弓を発射することである。しかし、このキツネ狩りでは、君自身が殺される可能性も言及されていた。つまり、友の発射した矢で君自身が倒れる可能性である。そもそも、友の顔がキツネに変じるとき、それは友の側に理由もなく生じた不信、疑念だったかもしれない。君に対する猜疑心が友の顔つきをキツネに変え、その猜疑心が君に伝染し、君の目に友の姿がキツネに映るのかもしれない。これはまさに悪の連鎖である。そして、この悪の連鎖を止められるものがあるとすれば、それは無条件の信頼しかあるまい。相手が決して裏切らない、裏切るはずがないと信じることができるなら、たとえ疑念や不信が芽生えても、それを払拭することは可能である。そして、これこそが愛と呼ばれるものなのではないか。

 

 「愛よりも」の主題は、たとえ信じる対象が何か誤ったもの、無価値なものであるときでさえも、「信じること」の意味を肯定的に追求することにあったと思われる。星も月も黄金も過去も、それらを信じることができる限りは、裏切りの介入する余地はない。その対象を「裏切らぬものと信じること」こそが愛の本質であり、逆に「人恋しさ」は、愛には不可欠であった絶対的信頼を欠いている点において、愛を踏みにじるものと捉えられているのである。中島みゆきにとって、愛はつねに能動的なものである。「愛する」ことの意味のみを彼女は追求する。「愛される」ことに関して彼女が直接話題にすることは極めて珍しい。「愛ではない」(『パラダイス・カフェ』、1996)もまた、能動的愛に関していっそう観念的な議論を展開した歌である。

 

           あてもなく自分を休みたい日がある

           弱音を少しだけ解き放ちたい日がある

           強がりを続けてどこまでも走るだろう

           けれどふと黙りこむ時もあるのだろう

           たとえばこんな満天の星の夜

           たとえばここで討ち死にをしたくなる

           砂に倒れる虚しさよりも

           ひとときの人間の心に倒れこみたい

           愛ではない それは愛ではない

           愛ではない それは愛ではない

 

この歌の中で「愛ではない」と否定されているもの、それは再び「人恋しさ」である。どうにも疲れ切ってしまったとき、思わず弱音を吐きたいと思ったとき、そんなときすぐ傍らにいてくれる優しい心を求めること、それが「愛ではない」と否定されているのである。引用にはない後段では「他人(ひと)からの恵みには後ずさる」、そして「なにもかも行き先を誰かに委ねたくなる」ことが「愛ではない」と拒絶されている。慰めとしての愛、与えられるものとしての愛を中島はほとんど(あるいは全く)評価しない。愛は、ひたすら愛することとしてしか存在しない。

 

 だが、注意しなければならない。中島みゆきは決してこのような意味での「愛だけの詩人」、「愛至上主義の詩人」ではない。愛だけが大切であり、「人恋しさは不純なものとして捨ててしまわなければならない」などと主張しているわけでは決してない。そんなことを考えているとしたら、「アザミ嬢のララバイ」は決して生まれなかっただろうし、ある意味では「うらみ・ます」よりも大胆な歌とも言える「わたしの子供になりなさい」(1998)を歌うこともなかったはずである(あなたが泣くときは わたしは空を見よう/あなたが泣きやめば ふたりで空を見よう/もう愛だとか恋だとかむずかしく言わないで/わたしの子供になりなさい)。人が生きていくためには、他人からの慰めも優しさも、人恋しさをほんの一時紛らしてくれる「パラダイス・カフェ」や「ミラージュ・ホテル」も必要である。一緒に泣いてくれる人も必要である。そんなことはむしろ当然のことなのであろう。中島がここで問題としていることは、愛を何か他のものと混同してはならないということに尽きる。愛は、混同されるにはあまりに貴重なものであり、特別なものである。それは、結局は、絶対的盲目的信頼という他はないものである。しかも、それは同時に「たかが愛」とも呼ばれる。それは、ある意味では、全く何の役にも立たないのだから。

 

           傷つきあったさよならだけが形に残るものだとしても

           たしかにあったあのときめきがいつか二人を癒してくれる

           あぁ この果てない空の下で

           独りでも寂しくない人がいるだろうか

           何故にたかが愛に迷いそしてたかが愛に立ちどまらされても

           捨ててしまえないものがまだあるの

           僕はたかが愛に迷いそしてたかが愛に立ちどまらされても

           捨ててしまえない たかが愛

            (「たかが愛」、『パラダイス・カフェ』1996

 

どうしても捨てられないもの、たとえ何の役に立たなくても、それでも捨ててしまえないもの、それを中島みゆきは愛と呼ぼうとしている。

 

 

7)愛の再定義、あるいは気に掛けること

 

 20096月現在、中島みゆきの最新作は200710月に発売された『I Love You, 答えてくれ』というアルバムである。彼女の長いキャリアの中で、一年以上のブランクがあったことは、他にはただ一度だけであり、その空白の一年(198688)の意味はおそらく今後も色々と取り沙汰されることであろう。いずれにしろ、一年以上もの間、新しいアルバムが発表されないことは、彼女の活動歴では非常に珍しい。(もっとも、中島みゆきは、アルバム制作と平行して、ライブ活動(今なお彼女は全国ツアーを行っている!)と「夜会」と呼ばれる一種のミュージカル公演を行っているので、この空白が活動の中断を意味しているわけではないことは付言しておく必要がある。)

 

 この最新アルバムのタイトル名を知り、タイトル曲を聴いて、古くからのファンはいったい何を思っただろう? 最初に聴いたとき、正直に言えば、「これで彼女は引退するのかもしれない」という思いが私の脳裏をかすめずにはいられなかった。これはほんのかすかな予感に過ぎず、この予感の外れることを私は大いに信じてはいるが、(付記:この文章を書いている間に、どうやら今年中には36枚目のアルバムが発表されるらしいというニュースを知った)万一このアルバムが最後のアルバムになったとしても、中島みゆきが非常に大きな仕事をしたことを私は確信する。

 

 考えてもみて欲しい。「私の声が聞こえますか」と言う言葉で自らの仕事を始めた人間、「いつか、私の声が聞こえてくれるでしょうか。そしたらあなたはどうやってあなたの声を聞かせてくれるでしょう」と気にかけていた人間、その人が紆余曲折を経て「I Love You, 答えてくれ」と言うのである。これは単なる符合ではなく、その人の半生を真っ直ぐに背負った言葉であろう。

 

           何か返してもらうため 君に愛を贈るわけじゃない

           あとで返してもらうため 君に時を贈るわけじゃない

           君はひどい目に遭いすぎて 疑い深くなってしまった

           身を守るのはもっともだけど 世界全部毒だなんて悲しいよ

           愛さずにいられない馬鹿もいる

           気にしないで受けとればいいんだよ

           愛さずにいられない馬鹿もいる

           受けとったと答えてほしいだけさ

           I Love You, 答えてくれ I Love You, 答えてくれ

           I Love You, 答えてくれ I Love You

 

 ここでの中島みゆきは、いつにも増して直截に、素朴と言ってもいいような言葉で、返報返礼を期待しない愛を主張する。30年以上も前に「私の声が聞こえますか」とおずおずと尋ねた声は、今や確信と共に「I Love You, 答えてくれ」と言う。この確信の根拠が「私は確かにあなたを愛している、何があっても」という自信であることは言うまでもあるまい。「答えてくれ」という命令が嫌みに聞こえずにすむのは、信頼が責任を必然的に伴うことによる。ここに響いているのは、「私は信じる、私を信じるあなたを」、「私は信じる、あなたが私を信じることを」という、信頼の(一方的)双方向性である。

 

 さらに、同アルバムには「惜しみなく愛の言葉を」と「一期一会」という、これらの歌を書き残せば、やはりいつ引退しても不思議ではないような作品が並んでいる。

           
愛を表わす言葉の綾を 私は多く持ちえないから

           聞き飽きられてしまわぬために 寡黙であれと風は教える

           いいえ私は 明日をも知れず 今日在るだけの1日の花

           いいえ私は 明日を憂えず 今日咲き尽くす1日の花

           惜しみなく愛の言葉を 君に捧ぐ今日も明日も

           惜しみなく愛の言葉を 君に捧ぐあらん限りに

                  (「惜しみなく愛の言葉を」)



           
人間好きになりたいために

           旅を続けてゆくのでしょう

           忘れないよ遠く離れても 短い日々も 浅い縁も

           忘れないで私のことより あなたの笑顔を 忘れないで

                  (「一期一会」)



これらの歌に関して、作詩上の技巧云々を語ることにほとんど意義を見出せない。ここには、虚飾や衒いは言うまでもなく、言葉による最低限の武装さえも解除してしまった想いがそのままに、ほとんど無防備といっていいような形で差し出されている。かつて、例えば「二隻の舟」に表現されていたような絶対的信頼は、あくまでも特定の二者の間に想定された、特定の関係であった。しかし、今や、愛と信頼の関係は、明らかに逆転している。愛があるところに信頼があるのではなく、信頼があるところに愛が随伴しているのである。そして、この信頼は、相手が寄せてくれる愛に均衡しているのではなく、自分が確かに愛しているという揺らぐことのない確信に均衡している。惜しみなく、あらん限りの愛の言葉を捧げた相手に期待することは、愛の言葉を返してくれることではなく、「受け取った」という短い、簡単な返事だけである。しかし、それならば、愛は究極的にはやはり一方通行である他はないのだろうか?


 この問いに対して、「一期一会」という歌は、ほとんど奇跡のような(詩=歌という言語芸術においてのみ可能と思われる奇跡)答えを提出している。歌の声は「忘れないよ遠く離れても 短い日々も 浅い縁も」と歌う。続いて「忘れないで私のことより あなたの笑顔を 忘れないで」と付け足す。言い換えれば、「あなたが私のことを忘れても構わない、それでも、私はあなたを覚えている」という、中島みゆきに特有の、私たちにはすでに馴染みの一方通行的「片思い」である。しかし、おそらくこの歌の表していることはそれだけではない。そして「奇跡」が生じるのはここからである。もしも、「忘れないで私のことより あなたの笑顔を忘れないで」という言葉が、相手からの返事であったとしたらどうであろう? 別れる人同士がお互いに言い交わしている言葉だとしたらどうであろう? 「忘れないよ、あなたのこと」「いや、むしろ君の笑顔を忘れないで」、「忘れないよ、君のこと」「いいえ、むしろあなたの笑顔を忘れないで」と、お互いにいつまでも手を振り続けているのだとしたらどうであろう? 中島の歌では複数の声が重なり合うことを「二隻の舟」で私たちはすでに熟知している。そして、事実、「忘れないよ」「忘れないで」という部分は男性コーラスが被せられている。歌の事実として、声は複数化されているのである。「忘れないよ遠く離れても」という「片思い」は、「忘れないで私のことより あなたの笑顔を」という、いわば無私の境地を経由して、今やお互いがお互いに無私のままに交感するという、お互いがお互いに与え合うだけの交感として成就する。

 確かに、このような「奇跡」は、もしかしたら単に言葉の上でだけ起こり得るものなのかもしれない。しかし、そうだとしても、詩人にこれ以上いったい何を期待しようというのか? 詩人にとって、たとえそれが一種の倒錯であったとしても、言葉こそが現実であるかもしれないのに。たった一つの言葉が、事実として、詩人の生き方を変えてしまうことがあるというのに。

 すでに2001年に発表された「with」という歌の中で、

          
僕のことばは意味をなさない
          
まるで遠い砂漠を旅してるみたいだね
          
〔中略〕
           with
そのあとへ君の名を綴っていいか
           with
淋しさと虚しさと疑いとのかわりに
           with
そのあとへ君の名を綴っていいか
           with
淋しさと虚しさと疑いとのかわりに
           with


と中島は歌っていた。withの後に記す名前は、恋人の名前であるよりも、端的にloveという語である。つまり、with love。「愛を込めて」。(この歌を聴くと、フランスの詩人、ポール・エリュアールの「自由」Libertéという詩を思い出す。学校のノートの上、机の上、木の上、砂の上、雪の上、いたるところに「ぼくは君の名を書く」のだが、詩の最後になって、「君の名」がぼくの切望する「自由」だということを読者は知る。)愛がなければ、言葉は意味をなさない。すっかり乾き切って、干からびた言葉……その言葉を受け取ってくれる人への愛がなければ、つまり、絶対的信頼がなければ、詩は意味をなさない。歌うことは、淋しさと虚しさと疑いとのかわりに、愛を、しかし極めておずおずと、ためらいがちに差し出すことに他ならない。「with」に表現されている感情や情緒は、ほとんどそのまま「私の声が聞こえますか」に繋がっている。デビューの頃から現在に至るまで、主題も関心も明らかに連続している。ただ、現在の彼女には、以前にはなかった自信、自己肯定が感じられる。それはおそらく、30年を超える経験だけが与えることのできた自己肯定であっただろう。

 25年前、「中島みゆきが、とうとう他者のために、他者に向かって歌い始めてしまった」ことに衝撃を受け、それを一種の堕落と感じ、その共犯関係から逃れるように、私は長く彼女の歌から遠ざかっていた。4半世紀を経て彼女の歌を聴くことは、どこか聖書の放蕩息子の帰還に似ているような気がする。もちろん、自分自身を悔い改めた放蕩息子に喩えるつもりは毛頭ない。そうではなく、25年ぶりに懐かしい故郷を見た馬鹿息子の目に、あれほど懐かしかった風景は、以前と寸分も変わらないにしても、大いに変貌して映っていたに違いない。自分が育った家も、自分が寝起きした部屋も、友と遊んだ庭も、何もかもが以前のままだとしても、やはり全てがすっかり変わってしまったことに、その馬鹿息子は驚いていたに違いない。そのように、かつてあれほど親しんだ中島みゆきの歌を聴き返し、馴染んでいたはずの風景を前にして、私もまた大いに戸惑わずにいられない。25年前、私は何を見ていたのだろう?

 例えば、「ファイト!」を聴き返せば、

 

           ファイト! 闘う君の唄を

           闘わない奴らが笑うだろう

           ファイト! 冷たい水の中を

           ふるえながらのぼってゆけ

 

という言葉を、いったいどうしてあの頃、「専ら他者に向けられた言葉」と受け止め、理解したのか、ほとんど理解に苦しむ。これは詩人が詩人自らに向けて語った、いや叫んだ言葉以外の何物でもないのに。全く個人的な述懐であるが、今になってわかることは、中島みゆきの歌の世界では、「自分に向けて」と「他人に向けて」の区別は全く意味がないのである。例えば、シングル盤としてのデビュー曲であった「アザミ嬢のララバイ」には

 

           ララバイ ひとりで 眠れない夜は

           ララバイ あたしを たずねておいで

           ララバイ ひとりで 泣いてちゃみじめよ

           ララバイ 今夜は どこからかけてるの

 

とあるが、これさえもが自分自身に向かって語られた独り言でなかったとは決して言えない。事実、それから30年後に、今度は「ララバイSINGER」の中で

 

           逃げなさい心よ 怖れの国から 闇色翼に抱き守られながら

           逃げなさい心よ 憂いの国から 時も届かない夢へ逃げなさい

 

           歌ってもらえるあてがなければ 人は自ら歌びとになる

           どんなにひどい雨の中でも 自分の声は聞こえるからね

 

           ララバイ ララバイ 眠れ心 ララバイ ララバイ すぐ明日になる

 

と歌う。まるで30年前のデビュー曲の「種明かし」をしているかのようでさえある。曰く、「誰も私のために歌ってくれなかったから、私は自分で歌うしかなかった」。

 

 仮面も被り、カメレオンにもなり、キマイラでもある詩人は、なるほど、ときにはこちらがうんざりするほどの多様性を示すことだろう。しかし、詩人たちは自らの多様性、「健全な精神」の持ち主たちからは節操がないと思われるほどの多様性を十分自覚している。自分自身の中に、弱さも、強さも、賢さも、愚かさも、正しさも、狡さも、何もかもがあることを知っている。自分の中にイヤーゴもデズデモーナも、ソーニャもラスコーリニコフもいることを知っている。だからこそ、彼らに共感を示すことができる。キーツが、「詩人には個性はない、必要ない」と言ったとき、彼は、「ぼくの声は彼女の声だ、彼女の声はぼくの声だ」と言っていたのだと思う。詩を読むとき、誰もが経験することだが、人は自分の声を聞きつつ、他者の声を聞く。詩とは、たとえ単旋律で歌われようとも、複数の声部が響き合う不思議な音楽である。そして、そのような詩の存在を可能にするのは、たとえこの言葉がどんなにセンチメンタルに響くにしても、「愛」の力を措いて他にはない。愛がなければ、言葉は意味をなさないのだから。

 

 もしも仮に「愛」という言葉があまりに感傷的であり、あるいは、あまりに男女の恋愛を連想させるというのであれば、単なる「人恋しさ」ではない「愛」の別名を「気がかり」と呼んでもよい。愛とは、その人のことを気にすること、気に掛けることである。その存在の大小にかかわらず、まして有益無益にかかわらず、その存在を信じ、その存在を気にすること。それが愛と呼ばれるものであり、それならば、愛はほんの一瞬出会っただけの人に対しても差し伸べられるものであるに違いない。それならば、他者に向けられた言葉の真正さを疑う余地がどこにあるのだろうか? あるとすれば、それは友の顔をキツネに変えたものと全く同じものであるだろう。ある人の存在を気にすること、気に掛けていること。たとえその人がどこにいようと、何をしていようと、誰と一緒にいようと、どんなに遠く離れていようと……そして、そのように気に掛けることは、やはり絶対的信頼や絶対的責任と同質である。

 

したがって、この同じ歌手=詩人が例えば次のような歌を歌うとき、一見(一聴)する限りはありきたりのメッセージソングに過ぎない歌詞が強いリアリティを持ち始める。(それとも、これもまた一人のファンの単なる贔屓目だろうか?)

 

見知らぬ人の笑顔も 見知らぬ人の暮らしも
失われても泣かないだろう 見知らぬ人のことならば
ままにならない日々の怒りを 物に当たる幼な児のように
物も人も同じに扱ってしまう 見知らぬ人のことならば
ならば見知れ 見知らぬ人の命を
思い知るまで見知れ
顔のない街の中で
顔のない国の中で
顔のない世界の中で


見知らぬ人の痛みも 見知らぬ人の祈りも
気がかりにはならないだろう 見知らぬ人のことならば
ああ今日も暮らしの雨の中 くたびれて無口になった人々が
すれ違う まるで物と物のように 見知らぬ人のことならば
ならば見知れ 見知らぬ人の命を

(「顔のない街の中で」、『I Love You, 答えてくれ』)

大切な人を思うことと見知らぬ人を思うことに、その思いに関して確かに量的な差異は認められるだろう。しかし、その存在を気にかけることにおいて、心配することにおいて、質的差異は認められない、いや、認めるべきではない。こう断言することは、自分自身の小さな声を、それが自分が生きていることの証として、誰かに聞き取ってもらいたいと願って歌い始めた詩人の、ある意味では当然の、いや、必然の帰結だっただろう。かつての自分のような「小さな声」は世界中のいたるところにあり、誰もが「私の声が聞こえますか」と、おずおずと、怖れつつ、懸命に投げかけているのだから。しかし、これほど見事に一貫した創作活動の跡を目の当たりにすることは非常に珍しい。自らにとっての必然を、つまりは責任を、誰もが受け止められるわけでは決してない。

 

 中島みゆきという歌手=詩人の大きさと強さは、彼女の全作品を通して見ないと決して正しく理解できない。とりわけ、その詩人としての誠実さと真正さは、彼女がこれまでの創作を通して示してきた、関心の尋常ではない持続、そして関心の継続と矛盾しない漸進的な変化(深化と言うべきかもしれない)に認められる。愛と別れ、そして理解と無理解が彼女の中心的主題であるが、それを執拗に追求することで、何度も篩にかけることを通して、愛の本質が、他者への配慮、気配り、もっと素朴な言葉で「気にしていること」「気に掛けていること」であることを明確に示すに至った。この愛の定義が仮に月並みなものに思えたとしても、そんなことはこの驚くべき達成の意義を少しも損なわない。言い聞かされた当たり前の真実をただ鸚鵡のように繰り返すことと、それを自ら検証し、自らの声で語ることは、全く別物である。詩の美しさは、その詩の表す真実に比例するが、その真実が新奇なものである必要は全くない。30年以上に及ぶ創作を通して中島みゆきが文字通りに体現したこと、言葉や歌、あるいは詩に対する、ほとんど献身といっても過言ではないほど真摯な取り組み、その美しさを私が今さらここで拙く表す必要はないだろう。彼女のファンならおそらく誰もがとっくの昔から承知していることだから。

 

           ああ大事なことに気づくまでに

           みんな私たちは遠回りだけど

           ただ・愛のためにだけ 涙はこぼれても ただ・愛のためにだけ

           これが始まりでも これでおしまいでも

           ただ・愛のためにだけ 生きてると言おう

           ただ・愛のためにだけ 生きてると言おう

              (「ただ・愛のためにだけ」、『ララバイSINGER2006

 

 

 

 


 


 


 

 

 

 

追従要求型教育の臨界点

〜ハインリッヒの警告〜

石川 雅章(フリーエンジニア)

 

 最近,大学で人命に関わる事件が2件ほどあった。ひとつは,中央大学で起きた教授の刺殺事件。もうひとつは,東北大学での学生の自殺事件だ。結果だけを見ると,一見「正反対」のような感じがするが,私はその根底に似た要因があるような気がしている。
 東北大学の事件では,その後の学校の会見で,教員側に不適切な対応があった旨の報告がされている。具体的には,詳しい理由を言わないまま,提出された論文を突き返すことが何度かあったという。
 じつは私も学生時代に何度か似たような経験をしている。卒業論文も,一旦突き返されてきた。ただその時は一応「理由」も告げられた。それは「綴じているバインダーが違う」というもの。「他の提出者と同じでないとダメ」だという。しかし,論文の提出のための手引きには,綴じるバインダーの形式の規定を見た記憶はない。だから私は,手に入れられる最も安価なものを使って提出したのだったと思う。
 他の学生はというと……私以外は,みな同じ形式のものを使っていた。それは,一般に「Zファイル」と呼ばれている,穴をあけずにレバーで紙を挟みつけるタイプのもの。でもなぜ私以外の学生は,揃ってその形式のバインダーで提出していたのか。それはたぶん,先輩から「そうするように」と聞いていたからだろう。たまたま私は,そうした人との付き合い方が「不器用」で,それを知る機会がなく,卒論提出のための手引き「だけ」を判断材料としたために,「不備」のような扱いを受けて突き返されたと思われる。
 しかしそれでは,論文作成に当たって,先輩とある程度「密」な付き合いがあることを「前提」にしているようなもの。「そうした人がいないのなら,論文は評価に値しない」とでも言わんばかりの扱いだ。だったら,そもそも「卒論提出の手引き」のような書面の存在自体無意味で,ただ「提出のし方は,先輩から聞きなさい」と口頭で伝えるだけと,何も変わらない。
 ひょっとすると,その「Zファイル」という名称を知らなかったために,記載しなかったのかもしれない。でも「名称」は分からなくとも,前述のように「穴をあけずにレバーで紙を挟みつけるタイプのバインダー」と書けばいいわけだ。もし,そうした説明文が思いつけない国語力の程度なら,図を描いて「このタイプのものを使ってください」とすれば済んだこと。そんな説明は一切なく,「バインダーが違う」という理由で突き返す。これが,提出を受けて評価する側として「責任ある対応」なのだろうか。そもそも,評価されるべきは「内容」であって,「バインダー」など関係ないのではないか。不信感だけが残った卒論だった。
 その数年前,コンピュータのプログラムの演習があった。FORTRAN77 と呼ばれるコンピュータ言語が課題だった。ところが,学校の計算機室を使うには手続きに手間がかかり,しかもいつも満杯でなかなか使えない。たまたま自宅のパソコンで FORTRAN77 が使えるようになっていた私は,課題について自宅でそれなりの結果を出して提出した。
 評価は「不可」。理由は,「学校の計算機を使う演習の意味もあるから,学校の計算機を使っていないとダメ」というもの。
 「先に言えよ。」……口には出さなかったが,理由を告げた担当の先生の顔に向かってそう思っていた。その「演習の意味」が事前に伝えられていれば,少々面倒でも学校の計算機を使っただろう。
 それにしても,演習で「学校の計算機」を使う必要があるなら,それなりの人数が使えるようになっていてしかるべきであるはず。満席の計算機室の前で,席が空くまで待っている時間は,たいへん無駄になる。だったら,自宅で同じことができて,同じ結果を得ることができる人は,自宅でしたほうが混雑も緩和する。しかしこの時も,結果や内容については一切評価されなかった。
 共通点は「必要な条件が『事前に』説明されていない」ということ。そしてその「条件」とは,内容とは直接関係のないもので,しかもそれが評価されない理由にされているということ。
 東北大学の自殺のニュースを聞きながら,そんな過去のイヤな経験を思い出していた。中央大学の刺殺事件はまだ真相が明確ではないが,報道からは,何らかの「恨み」が絡んでいるような感じを受ける。犯人に同情する気はないが,彼の在学中,東北大の自殺者や私が味わったような,「説明不足」や「内容無視の酷評」,あるいは,それを理由として一方的に「疎外」するようなことはなかっただろうか。
 「学校」では,細かなことは説明しなくても,「伝えた指示に異論を唱えず,従来通りの対応で従ってくれる」学生が,いわゆる「優秀な学生」なのだ。社会に出てからも,詳しい説明のない指示に対して「おっしゃる通りです!」と盲従する者が好まれ,引っ張り上げられていく。しかしそれは結果として,「寄らしむべし,知らしむべからず」といった「トップダウン」行政を助長してはいないだろうか。末端の消費者軽視の制度ばかり作らせる温床になってはいないだろうか。極端な「売上至上主義」を増大させ,状況が苦しくなったら労働者を簡単に解雇する,そうした企業の社会的意義を無視する「経営者」をのさばらせてはいないだろうか。
 世界共通の学力テストで,日本人の子供は「与えられた情報を元にして自分で考えて判断したり,説明したりする能力が低い」といった結果が出て,文科省がアタフタしている。しかし,当の「学校」が,ひいては「社会」が,「キチンと説明して理解してもらおう」といった姿勢に欠け,「そんなことは言わなくても分かるだろう。分からないヤツが悪い。モンク言わずに従がえ。さもなくば評価しない」といった対応を,ずっと続けてきたわけだ。子は親の鏡,人の能力は置かれた社会状況を反映する。私に言わせれば「当然の結果」なのだが。
 早めにそうした「追従要求型教育」を改める必要があるように思う。しかし結局は,「文科省」をはじめとするオヤクショも「追従者の引っ張り上げ」でできあがっている組織。アタフタして制度を少々変えたところで,状況は変わらないだろう。できれば,末端の「教育現場」から,「意識」を変えていって欲しいものだ。
 「ハインリッヒの法則 1:29:300」というものがある。「1つの重大事故の前には,少なくとも 29 件の軽事故と,300 件の『未事故(ヒヤリハット)』がある」という。これを知ったきっかけは,東京の六本木で,自動式回転ドアに挟まれて子供が死亡した事故。その前には,同じドアで負傷事故が 32 件ほど起きていたと言う。その数字が,まさにこの法則とよく合い,存在を浮かび上がらせた。もしそのドアの管理者がこの法則のことを知っていたら,死亡事故が起きる前に何らかの対策を打っていたかもしれない。「モノ作り」に携わる技術者などにとっては,「品質管理」や「安全管理」の観点上,心に刻んでおくべき法則だと思うが,恥ずかしながら工学系である私も,学校卒業後十年以上経って起きたその事件で,初めて知った。残念ながら,工学系の学校でもそんな程度にあまり深く触れられていない。
 一方この法則は,工業製品だけではなく,サービスの「苦情管理」などにも応用的に考えらることがあるようだ。単純に当てはめると,「1つの重大な『不祥事』の前には,関連する『クレーム』や『相談』が少なくとも 30 件ほどあり,その背後には,クレームを出すまでもないものの,不満を感じている顧客が 300 人はいる」というような感じだ。最初に挙げた大学の死亡事件が,その重大事故に当たる「トップ2」だとすると,その「裾野」には,学校の指導のあり方に対して,心理的「もやもや」を抱えた学生が,相当数存在する可能性があると言えるのではないだろうか。今までも似たような事件がなかったわけではないが,最近,立て続けに起きたということは,そうした「もやもや」が,いよいよその「臨界点」を超えつつあるということではないだろうか。「ハインリッヒの法則」は,「29 件の軽事故や,300 件の未事故の段階で,早く気付いて対策をとれよ」という警告でもある。同様な事件が連鎖しないうちに,意識を変える必要があるのではないかと思う。

 


 

うなぎ川柳

金沢 一輝

 

 朝から、昼は鰻と決めていたわけではない。日本橋で友人の個展を見て、さて昼飯、思いついたのが、日曜日もやっている、このところご無沙汰の鰻屋だったという次第。いつも思うことだが、鰻屋に「創作うなぎ料理」などという代物が加わることはなく、メニューは変わりようがない。旨さと値段と客の数だけのこの商売も大変だろうが、変わらず繁盛しているように見えるのは、同慶の至りだ。

 

数年前、神田明神下の鰻屋で見た全日本鰻屋連合の小雑誌「うなぎ百撰」で、うなぎ川柳なるものを読み、そのおかしさがいたく気にいった。以来、鰻の川柳が気になりだして、片っぱしから集めることになったが、一端をご紹介したい。現代ものも鰻好きの面目を伝えて面白いが、鰻は昔から川柳の格好の素材になったようで、なかなかの句が多い。

 

鰻はさばいて料理するには素人には手に余る。その事情は、今はもちろん昔も変わらないようで、天然鰻が獲れてそれからが大変、そこらあたりを活写した句。

 

  「やあ釣れた釣れたと鰻手におえず」(孝三郎)

  「釣ってきたうなぎ是非なく汁で煮る」(川傍柳)

  「悪い思いつき生きたうなぎを呉れ」(やない籚)

  「錐よ金槌よと素人のうなぎ」(柳多留)

  「素人にかかってうなぎ死に切れず」(枯泉)

 

そろそろ土用の丑だが、集中的にさばかれる鰻は災難である。この風習、かの平賀源内が贔屓にしていた鰻屋のために、「本日、土用の丑の日」という張り紙を書いてやったことに始まると聞いたが、本当だろうか。丑の日は江戸前だけでは足りずに、旅鰻という地方産も、土用丑の日にはどっと江戸にやってきたそうだ。

 

  「丑の日に籠でのり込む旅うなぎ」(柳多留)

  「土用丑桶で命がもつれ合う」(定雄)

  「丑の日の鰻ことさら逃げまわり」(菊路)

 

 被害者・鰻と加害者・鰻屋のおやじの関係も、格好の題材となる。鰻屋の生すで鰻がもつれ合い、白い腹を見せながら物凄い速さで泳いでいる。真昼の恐怖というところか。のんびり遊泳している鰻など見たことがない。真実(ここでは残酷さ)を機智と諧謔でまぶしてしまう川柳の本質がもっとも良く出た佳句が多い。鰻を擬人化し、川柳が俳句と異なり、徹頭徹尾人間を詠むものだと言うことがわかる。

 

  「うなぎ屋のうなぎはじっとしておれぬたち」(瓜人)

  「うなぎ屋の手つきに鰻あきらめる」(水笑)

  「包丁を研ぐ音うなぎ聞いている」(芳浪)

  「俎でうなぎ包丁睨みつけ」(露声)

  「鰻また逃げて見習い叱られる」(敏雄)

  「順番がきたとうなぎのあわてよう」(不詳)

  

鰻屋はちょっと高価な庶民の食堂だった。鰻屋のおやじがバタバタ団扇で匂いと旨さをたたき出して、客を誘う。お見舞い、寄席、お参りとかの帰り、「おぅ鰻屋か、ちょっと寄るか」と贅沢しに寄っていく。医者からの帰り、栄養つけるかということもある。五十回忌くらいの法事になると、もはやめでたいと言って、山芋が鰻に化けたこともあったようだ。江戸から明治大正昭和へ、くらしの中のちょっぴり非日常の営みに、贅沢の相棒として鰻がいた。ただし、以下の句、鰻は脇役、主役は人間とその暮らしである。

 

  「江戸前の風は団扇で叩き出し」(不詳)

  「うなぎやの隣り茶漬の鼻で喰い」(柳多留)      

  「お決まりのうなぎ屋へ行く寄席帰り」(三郎)

   「退院後すぐうなぎ屋へ行くつもり」(照子)

   「山の芋鰻に化ける法事をし」(柳多留)

   

 さて日曜日昼どきの鰻屋。やっぱり鰻は座敷で食いたい。お通しで一杯となると、客が出入りする一階より二階の座敷だろう。日曜日の二階は、サラリーマンでごった返す平日の昼とは、雰囲気を変える。どこの帰りか、卑しからぬ老紳士と奥方がぼそぼそしゃべって食っている。デパートから直行の子供連れがいる。こんな見事な句もあった。「丼へ子供顔中入れて食い」(夜舟)。大年増がひとりゆっくり食べている。そんな風情を眺めながら、う巻きとうざくで熱燗。しゃかりきで働いていた頃、友人と飲む蕎麦屋の夕方の酒も疲れた体にしみて、格別だったが、鰻屋の昼の酒もいける。酒と飯で小一時間というのもまたいい。次の川柳、鰻屋の中のお客を描き、どことなくおかしい。

 

   「丁寧に二階に通され並頼み」(平四郎)

   「備長で焼いた鰻を懐かしみ」(不詳)

   「夫婦して鰻を食えばおかしがり」(不詳)

   「待つほどに竹のうなぎも松となり」(不詳)

   「ありえないデートのうな重並なんて」(共水)

 

鰻の食し方は、白焼もたまにはいいが、やはり我らが蒲焼に止めを刺すだろう。いつかニューヨークの立派なレストランで、おいしいからと薦められた、独特のソースがかけられたべた焼きのイールは半分も食べられなかった。何ゆえかくも無残なる食い方なのか。どうせ食べられるにしても米国鰻が哀れ、そんな感じさえしたものだ。蒲焼は、鰻そのもの、焼き方、タレ、もさることながら、大事なのはお米である。飯にタレだけかけて食ってみると、米の微細な感じが分かる。これが駄目だと旨さは半減、大損させられた気になる。

 

  「うなぎ通ついでに米もほめている」(富美子)

 

子供のころから鰻が好きで、蒲焼を半世紀食ってきた経験からの私見であるが、今、東京で2千円以上のうな重を「並」・「竹」で出す店なら、米は無論、鰻も良質、安心できる。むろん、「本当の天然物」(=太平洋マリアナ諸島近海で生まれ、黒潮に乗って徐々にシラスウナギ(稚魚)に成長、日本沿岸域にたどり着き、さらに日本の河川や湖に上り成魚に育った純粋の日本鰻)は流通もしていないし、食べることはまず出来ない。2千円以下では当たり外れが大きい。旧態依然を旨とする鰻屋で、変わったものは鰻の出自だ。今、「本当の天然物」は1%にも満たない。天然の鰻が獲れると地方新聞の記事になる時代で、99%以上養殖物である。これに国内物と輸入物があり、前者がさらに国産稚魚からのものと輸入稚魚からのものとに分かれる。加えて複雑な流通形態がいっそう玉石混交にしている。「氏」入り乱れ、「育ち」さらに入り乱れ、訳がわからない。

 

 「知らぬ間に中国鰻が帰化してる」(春爺)

 「書いてある産地信じずうなぎ食う」(温風)

 「きも吸いの釣へ天然ものと知れ」(真砂巳)

  

スーパーで売っているもののほとんど、また格安のうな丼、うな重に使われる鰻は、大体輸入物である。日本人ほど、鰻を食べる国民はいない。世界の70%を消費するという数字もある。欧州物が中国へ輸出され、さらに日本に再輸出され、どこかの養殖池でひそかに鹿児島産とかに化ける鰻もいたそうだから油断ならない。天然物に勝るとも劣らない養殖物の高級品は、シラスウナギが、日本の良心的な業者によって、時間とコストをかけて丁寧に養殖されたものである。コスト高は、天然池での養殖がすたれ、ほとんどハウス池での養殖になったことにもよる。俳句だが、それは「鰻池いくつ廃れて浮葉かな」(祥子)という光景につながる。しょっちゅう新聞を賑わす偽装鰻だが、需要が強く、流通が複雑、加えて相変わらず国産信仰が強いので、後を絶たない。うなぎの養殖は、精子卵子レベルでのいわゆる完全養殖はいまだ実現していない。とにかく稚魚のシラスウナギを獲ってきて池入れして育てるしかない。完全養殖が実現すれば、事情は大幅に変わるだろうが、残念ながら、現時点においては、旨くて安心できるものかどうかは、プロがつけた末端でのうな重価格2千円以上か否かで見分けるしかないというのが悲しき現実のようである。  

   

 さて、鰻には肝吸い。好きな人は多いものの、自分は苦手である。ある時、肝吸いは要らないと思い切って言ってみたら、露骨にいやな顔をされて勘定書から百円引かれていた。以来、野暮は言わないと決めた。ただこういう肝吸いもある。

 

  「サービスの肝吸い肝が見当たらず」(頑次郎)

 

名古屋に行くと、蒲焼を細切りしたひつまぶし。お茶漬けも楽しめるし、本当によく考えた食の傑作だ。鰻の焼き方の東京風、関西風だが、どちらも旨い。付け加えれば、最後に大事なものは漬物。黄色い沢庵とかは勘弁してほしい。白菜でも胡瓜でもいいから、その店自慢の漬物で満足して〆めたいものだ。そして、これぞ究極の鰻好きの本領。

  

 「一度でいい鰻は飽きたと言ってみたい」(夏海)

   「うな重が空になってもみつめている」(邦夫)

   「口に入る土用は四季にかかわらず」(不詳)

 

 古川柳にも、現代川柳にも、鰻を詠んだ佳句はまだまだあるだろうと思う。うなぎ川柳、さらに集めて楽しみたいものだ。この稿を書きながら、あらためて鰻は日本人の暮らしの中に様々な形で根づいている特別な魚だと感じる。川柳の世界でこれだけ親しまれ、楽しまれている魚はほかにはない。時代の移り変わり、人々の暮らしぶりの変化、その中で鰻はちょっと非日常の感じがする魚として、変わらず愛されてきた。今では贅沢品とも言えなくなり、だからこそ乱獲が横行し、天然物が消え、養殖物一辺倒となってきたのであるが、たとえ養殖物であろうとも、これからも日本人に愛される鰻は非日常性を漂わせながら、人間の日常に、醒めた非日常の視線で切り込む川柳という世界で、格好のお題として詠まれ続けるだろう。

【出典】「柳多留」、「新版川柳歳時記」(奥田白虎:創元社)、「「川柳動物誌」(西村在我:雄山閣出版)、「うなぎ百撰」(うなぎ百撰社)、鰻生産・販売各社ホームページなど

(元JFEホールディングス専務執行役員・中部大学客員教授)


 

地球システムの危機への対処

海野和三郎

 

人類にとって、地球システムは、エネルギー・地球環境・人口(食料)の3問題が複雑に絡み合った未曾有の難局にあることは、皆熟知している。それを、もっと強力にかつ具体的にアピールするために、世界の専門家集団が国連、世界銀行、ロックフェラー財団などのバックアップでまとめたものが、英国インデペンデント紙に載った。その『文明破壊の警告』が、地球システム倫理学会経由のメールとなってきたので、その内容を紹介するのが、ここでの目的の一つであるが、それに加えて、日本的アニミズムのやり方で作った簡便な危機脱却の処方箋を末尾に提案する。

惑星の将来:気候変動は「文明を崩壊させるだろう。」権威ある新研究は不足と暴動の陰鬱な展望を示すが、あらゆる陰惨にも拘わらず幾らかの希望もある。ジョナサン・オウエン、英国インデペンダント紙、2009年7月13日(月)付:人類が気候変動の惨害を生き残る機会を戦い取るには、月に人間を送ったアポロ・ミッション規模の努力が必要である。賭金は高い、維持可能な成長なしには「何十億の人々が貧困に呪われ、文明の多くは崩壊するだろうから。」
 報告書は67百頁にわたり、地球全域から27百人の専門家の寄稿によっている。その検証は国連事務総長バン・キ-ムーン氏によれば「国連、その構成諸国および市民社会にとってかけがいの無い将来への洞察」を提供するものである。
 地球的リセッションの衝撃がキー・テーマであるが、研究者達は地球のクリーン・エネルギー、地球全域の食糧供給、貧困および民主主義の成長がリセッションによって悪化する危険があると警告している。同報告書は「あまりにも多くの貪欲で欺瞞的な決定が世界のリセッションを招き経済と倫理の国際的相互依存関係を見せ付けてくれた。」と言う。
しかし執筆者達は、脅威が又、全てにとって積極的な将来への潜在力をも提供しうると示唆している。「良い報せは、地球的金融危機と気候変動計画は人類がそのしばしば利己的で自己中心的な青年期をもっと地球的に責任ある成人期に移ることを助けることになるかも知れないという事である・・・多くの人々は現今の経済的災難をもっと緑の技術の次の世代に投資し、経済や開発の諸仮定を考え直し、世界をより良い将来の行程に乗せる好機と受け取っている。」
 直接の問題は高騰する食料およびエネルギー価格、水不足および「政治的、環境的、経済的状況による」移住増加であるが、これは世界の半分を社会的不安定と暴力に陥れ得る。気候変動の結果は悪化しており、2025年までに人口がまだ更に増え、適切な水を得られない人々が30億人になりうる。そして巨大な都市化、動物生息域への侵入増加および集中的な家畜生産が新たなパンデミックを引き起こしうる。
 世界はその挑戦に対処する資源を持っているが、一貫性と方向性を欠いて来た。NATOとロシアの会合と共に合衆国と中国の最近の会合、G20の誕生プラスG8の継続的作業は地球の政略的協働の改善を約束するが、「この協力の精神が果たして継続し、決定がこの報告書で議論された地球的挑戦に本当に対処するに必要な規模でなされるかについては、これから見守る必要がある。」
 気候変動の結果の規模は未曾有のものであるが、原因は概して知られているし、その結果は大体において予想され得るものである。しかし、「効果的で適切な行動の為の連携は未だ緒に着いたばかりであり、環境問題は対応や予防政策が採用されるよりもっと早く悪化している」と同報告書は言う。
 
ミレニアム・プロジェクトの長であり報告書執筆者の一人であるジェローム・グレン氏は次のように言っている「我々の地球的挑戦への解答はあるが、それに対処するに必要な規模の決断が未だなされていない。三つの大きな移行が世界の経済とその自然環境の両方の助けになる。即ち、出来るだけ真水農業から海水農業への移行をする事、動物飼育の必要なしにより健康な肉を生産する事、ガソリン車を電気自動車に代える事である。」
 グレン氏の提案は具体的であるが、第3のガソリン車を電気自動車に代えること以外は、もっとよく聞いてみないと分からない。それより、日本的アニミズム方式で、海と森が40億年の進化で会得した太陽エネルギー工学を、家庭規模で取り入れる方がよさそうである。アニミズム方式の良いところは、無駄が殆ど無いことである。木の葉の光合成と太陽電池パネルの発電とは、太陽光のエネルギー利用の効率は、共に、10%のオーダーで、80%以上の熱エネルギーは捨てられる。ところが、森は、打ち水の原理で、その余熱を使って風(対流)を起こし、その風でCO2を運び寄せるばかりか、葉裏での風の流れを乱流にして、CO2の葉緑素への拡散を20倍にもして光合成を促進する(矢吹効果)という。一方、海に入射した太陽光は、数10mから100m以上にも達して吸収される。通常の池や湖では、夜間外が冷えると昼間吸収した熱は対流によって外へでてしまう。季節変化に対しても同じである。しかし、海はこれと異なり、下層ほど塩分が濃く比重が高い傾向があり、そのため対流が起こらず、100mの深さで吸収された太陽熱が熱伝導で外へ出るのに3000年ほど掛かる。海はその間に海流で平均化され、世界中の深海温度は約3℃となり、これが地球環境の基本的平均温度になっている。海の対流阻止機構は、塩度勾配ソーラーポンド機構とよばれるが、海は長年の『塩の指』という二重拡散対流不安定性で獲得したと考えられる。ところで、このソーラーポンド保温は、水の僅かな粘性を利用して、3mm程度のスポンジ状構造で太陽光を吸収するポーラス・ソーラーポンドでも可能であり、この方が家庭規模のアニミズム太陽エネルギー工学に向いている。即ち、太陽電池パネルで発電に使えなかった80%の余熱をポーラス・ソーラーポンドの予備加熱に用い、更に、太陽光で加熱・保温すれば、無駄のない太陽エネルギー利用ができる。ただし、これだけでは、億年地球が貯めた化石エネルギーを100年で使うという逆効率の掛かった化石燃料の価格の安さに勝つことは出来ない。気候変動に対応して衣食住を発明して進化した時と同様に、新たな人類の危機に際して、人知の投入が必要である。家庭規模1kW発電で考えると、口径2.5mの球面鏡を上下左右、(50cm)2の平面鏡20数枚張り合わせて近似したような鏡を、極軸を軸に1日半回転するシーロスタット第1鏡とし、斜め上空適当な位置に固定の平面第2鏡を置くと、地上に設置したソーラー・ポット内の‘第1鏡の固定焦点’の位置に(50cm)2の解像度で太陽の非結像集光ができる。集光度は約20倍。晴天であれば、20kW弱がソーラーポットに入り、その内10kW弱が最下段の太陽電池パネルに達し、1kW弱の発電をする。発電の余熱と上部のポーラス・ソーラーポンドで吸収される太陽熱、合計18kWは沸騰水をつくり、蒸気タービンを廻して、2割程度の効率で発電するとすれば、3.5kW、太陽光パネルと合わせて4.5kW。夜間は働かないからその半分、天候のことなどでの稼動率を考えても、家庭用1kW発電は現在使用されている太陽エネルギー工学の範囲でクリヤーされる。ざっと装置の見積もりを、30万円として、10年使えば、約3000/月。家庭規模で、使用する電気代よりずっと安上がりである。この方式には、太陽エネルギー工学のあらゆる改良が、そのまま、利用可能であろうし、集団住宅用に規模の拡大もできる。また、集光の解像度を上げれば、高温を用いる利用になるが、アニミズムからは遠ざかるように思われる。また、これとは別に、1000mのマグマの高温と深さ1000mの深海水温度3℃との温度差を高圧下で利用する地熱海洋発電を10年がかりで国が開発することを要望する。国防に使う予算と同程度の予算で、世界のエネルギー問題が、未来にわたって解決するであろう。

 


 

「世界の希望としてのYubanda

   ―日西墨友好400年の思い

`島庸二

【400年前に何が?】

 今年は日本とメキシコの友好400年の年に当たるそうで、日本の各地で記念の催しが開催されていますが、

 房総半島の太平洋岸、御宿という町では、皇太子殿下をお招きしたりしてかずかずの記念イベントが大々的に予定されております。その中の一つとして、日西墨友好400年記念の現代美術公募展が開催され、私も審査員の一人として関係しております、400年の友好と聞いて、はて、その頃、両国の間にいったい誰がどのようにして友好関係をつくり出したのか、山田長政?、支倉常長?あたりかといぶかる向きもきっとあるに違いありません。現にいま東京世田谷美術館で開催されている「メキシコ美術展」のオープニング・レセプションでの酒井忠康館長の挨拶も、まずそんなことから始められたくらいです。しかしその立役者は、じつは南房総の一漁村の、名もない漁師たち、海女たちだったのです。

【ロドリゴの遭難】

 ことの発端は、1609年(慶長14年)9月30日、フィリッピンのマニラを出発しメキシコに向かう途中の一隻のスペイン籍のガレオン船サン・フランシスコ号(1000tくらいだそうです)が、房総沖で大しけに遭い、浅瀬に座礁、難破して、373人の乗員が初冬の冷たい海に投げ出され、房総半島のYubandaという、太平洋沿岸の小さな漁村に漂着した、というものです。Yubanda。それは遭難したなかに、任期を終えメキシコへ帰国する途上のドン・ロドリゴ・デ・ピペロというフィリッピン臨時総督が、後にスペイン女王への報告書として書いた「日本見聞記」のなかで、そのとき手厚く救助に当たってくれたYubandaという村の漁師たちの献身によって、乗員の大半の317人もが救助され、その後日本の権力者(家康)によって手厚く保護された経緯をつぶさに報告しているのですが、そのロドリゴというクリオールの耳にYubandaと聞こえた村の名はじつはIwawada、つまり岩和田で、現在の千葉県夷隅郡御宿町岩和田という、この辺一帯は、昔からアワビやサザエを穫る海女の潜水漁をおもにする地域で、私のアトリエもその岩和田とは地続きの小さな入り江の、やはりそうした海女たちの村のなかにあります。

【海女の村に伝わる伝説】

 梅雨があけていよいよ海水浴シーズンになりますが、私のアトリエのあるこの南房総の太平洋沿岸一帯は、さすがに波も荒く、流れも急で、このごろはあまり耳にしませんが、私がこの村に住むようになった50年ほど前には、ちょっとした台風でもよく難破したり座礁する船が、何年に一度かにはあったものです。私も昔この辺で遭難したという外国籍の船の羅針盤を一つもらって持っていますが、晴れた夏の海遊び、サーフィンなどでもよく溺れる事故が後を絶ちません。ですからこの辺の漁師は、浜辺で網の繕いをしたりしながらでも、絶えず沖に注意を向けて、誰か溺れそうにしているとすぐに目の前の船を出して救助にむかうというのです。

 なんでも人間は、中心体温が30℃より下がると意識も脈も触れなくなり、やがては死に至るのだそうですが、長時間冷たい海につかって、凍死寸前で浜に打ち上げられた人々を蘇生させるのには、人の体温でゆっくりと温めてやるのがいちばん効果的なのだそうです。体温で温めるとなると、これはやはり皮下脂肪を豊かに蓄えた女性=海女たちの力に頼る他ないわけで、「間違っても湯に浸けたりしちゃおえねえ(いけない)」と、ここの漁師たちに昔から伝えられている蘇生術のことを、この村の長老である淡路屋さんは、新入りの私たちによく聞かせてくれたものです。

 そしてそのついでに今では伝説となっている、上述の400年前に起こったロドリゴの大遭難事件の昔話を聞かせてくれたものです。難破して海に投げ出された乗員はロープや策具、板きれなどにつかまって10月の冷たい海に一晩中浸かっていたわけですから、体の冷え方も激しかった筈で、何人もの乗員が凍死寸前で浜に打ち上げられたということです。その有様に村の漁師たちは、誰彼無く、先ず濡れた衣服を脱がせて乾いた布でよく拭き取り、その体を、やはり裸になった海女たちが自分たちの定法通りにその体温で直接温めるなどして蘇生させ、結局317人という大半の命を救った、という昔話です。

【海女たちのせつない話】

 体温を奪う海水との戦い。これは遭難者ばかりでなく、海女たちにとっても日常的なものであって、私がこの村で聞いた海女たちの話は、どれもせつない感動的なものでした。産み月になっても海に潜るのは常識で、なかには海の底で産気づいて、そのまま上がった海女小屋で産み落とす、といったことさえあるそうです。そのとき母体はすっかり冷え切っているために、赤ん坊の血色はなく、紫色になって生まれて来るのだそうです。さっそく仲間の海女たちが手伝って、いそいでボロにくるんで抱いたり焚き火で温めるのだそうです。その時も「けっしてお湯につけたりしない」つまり産湯は使わせないのだそうです。

 些か余談にわたりますが、海女にはもう一つ呼吸の戦いがあります。空気を目一杯吸い込んでそのまま詰めて、海底まで一気に潜る “息詰め” の技術はなかなか身に付くものではなく、海女たちの修行の大きな部分を占めている、と、私の村いちばんの海女照子さんはいいます。ときとして息継ぎに失敗して命を落とす海女もあるということです。

 こういう話を聞くたびに私は、目の前の浜に、限りなく打ち寄せる波のうねりを見ながら、かつて海の生物から進化して陸に上がって、以来、すっかり海の中で生きるすべを忘れてしまったわれわれ哺乳類の、遥か太古の昔をおもうのです。

 このあとロドリゴの一行は、江戸におもむき二代将軍徳川秀忠ならびに駿府の大御所家康にまで謁見し、殆ど一年近く豊かな日本体験をした後、日本に対する最大限の好印象を抱いて、三浦按針によって建造された帆船を家康から貸し与えられ、無事、メキシコへ帰国ます。こうして日本とメキシコ、その宗主国スペインとの強い友好関係が始まります。

 そうして書かれたロドリゴの「日本見聞記」。ところがこの「日本見聞記」には、着物や穫れた魚、米・味噌といった必需品を惜しみなく分け与えてくれた村人の献身的な救助の有様は書いてあるのですが、案の定というか当然というか、Yubandaの海女たちに、そのようにして助けられたという肝心なことは書かれていなかったのです。

 書かれた言葉と、音声の言葉。いま私は、案の定というか当然というか、と思わず書いたのですが、自分の体が生み出す体熱を、瀕死の他者の体に限りなく伝導しようとするYubandaの海女たちの、限りない贈与の気持ち、命を愛おしむこころ根=母性の発する熱量は、十七世紀の初め、ポルトガル、スペインに端を発し、世界を席巻していた植民地主義の覇権精神を表徴する言葉に文字化されるには、ついになじまないものがあったのだと思うのです。

 思うにこの事件は、世界を吹き荒れ今もって私達の上に重くのしかかっている植民地主義の覇権争いの頂点に、一時生じた生温かい隙間にあって、西の果てのスペインと東の果ての日本という、遠い遠い他者同士が、遭難という不幸な出来事を介しながらも、極めて幸せな出会いを果たし、ポストコロニアリズムといった現代的な問題に、ひとすじの光を与える事件だった、といえるのではないかと思えるのです。

(画家/編集者)

★ここで、今回編集を担当された茂木先生から以下のような貴重なご指摘をe-mailで頂きました。

 

(e-mail)三浦按針によって建造された帆船でロドリゴらの一行が帰国したとは、

家康あるいは徳川幕府の懐の広さを示すものと言えるのでしょうか。

 

ここは、当時のオリエンタリズムの在り方ないしは鎖国直前の日本の状態を考えるうえで、極めて大切な部分であるので、それにお答えする文章を加えて、補足させて頂きます。(`島)

 

 ここは決して「家康の懐の広さ」というようなものではなく、日本の権力とスペインの植民地主義との間の利害関係の一致によるものなのです。家康にとっては自国が当面する銀の採掘、精錬の効率化を、当時銀の世界的産出国であったメキシコの優秀な技術の導入によって図りたいとする課題があり、「日本見聞記」によれば、実際に家康からロドリゴに対し、スペイン人の銀精錬工派遣の要請、産出した銀の分け分についてまでが話し合われたということです。その他にも武器や、スペインの先進科学技術の導入、また日本産出品の輸出といった問題がありました。

 一方、ロドリゴ側には、まずキリスト教の布教を先立てて、強大な軍事力にものをいわせて、あわよくば他国を植民地化するという大目的があり、当時盛んに使われたガレオン船も海賊からの護りという目的はあるにしても、20門もの砲台とともに多くの兵力を擁していたということです。そのうえに必ずといっていいほど聖職者や銀細工職人、採掘技師、輸出用の武器を、これらは当時列強の植民地政策ツールのワンセットとして、それらのエキスパートとともに必ず乗り込んでいたようです。ですからその事情はロドリゴの船も同じで、ロドリゴにとっては図らずも植民地貿易の対象国としての日本リサーチのチャンスに恵まれた、といったところです。

 しかし彼らにとって日本という国は、貿易の相手国として、それほど魅力的な国ではなかった筈で、つまり、日本には彼らが求めて止まない、そして植民地政策の発端となった香辛料というものが、全くといっていいほど産出されません。したがって当面の目標は銀と、シンガポール、メキシコ、スペイン間の寄港地としての利便性に置かれていました。それと一足早く日本に布教を開始したポルトガルのイエズス会、或はオランダのそれと、遅れて参入したスペインのフランシスコ会との宗教的覇権争いを勝利させる、という役割もあって、実際に家康に先行のオランダの布教を中止させるように請願した旨が「日本見聞記」で報告されています。

 余談ですが、かのグーテンベルク印刷機が最初の活版印刷機を、天正のローマ少年使節団と共に、マカオ経由で長崎に持ち込まれるのが1590年7月21日、(邦暦では天正18年6月20日)つまりロドリゴ漂着のわずか18年前で、となると日本の印刷術は、ポルトガルの植民地政策の先鋒として日本に布教活動を行っていたイエズス会の重要な布教ツールとしてまず始まった、と云えるものなのです。

 

 ところで家康の示した好意については、もうひとつ大切な点がありました。おそるおそる上陸したロドリゴの胸の内には、自分がフィリッピン総督であった去年(1607年)のこと、暴動の罪で囚われていた200人からなる日本人捕虜の弁明の正当性を認めて、彼らを釈放するだけでなく、船と旅費を提供して祖国まで帰国させてやり、その後日本の大御所(家康)から深甚の謝意を伝えられさえしている、という一事があり、「私(ロドリゴ)はこのことをしっかりと心に刻み、この人(家康)の謝意に常に大きな期待を抱いていた。そうして、ようやくその期待に応えてもらう機会が到来した」(大垣貴志郎訳)と「日本見聞記」で述べているのです。つまりわれわれが一方的にロドリゴを助けたわけではなく、その前にロドリゴからも助けられていたのです。とすると恐らく家康とロドリゴの間にはそうした一連の相互的なやりとりが意識されていた筈なのです。

 冒頭にも述べたように、いま私達はロドリゴ一行を「助けてやった」という、自ら発する言葉としては、どことなくこそばゆい感じのお祭りをしようとしています。これはこの地域に住む私の気持ちですが、「助けてやった」という声をもう少し抑えて、「相互扶助」の祭り、といったニュアンスをもっと打ち出せないものだろうか、と思っているのですが、如何でしょうか。

終わり


 

ひとりでつくる映画の可能性————『精神』

佐々木聖

 

■起きていることをただ見よ

 

 ドキュメンタリーといえども、ふつう前もって構成台本をつくる。どんな材料をどんな切り口で料理するかは、あらかじめ決めておくものだ。テレビであろうが映画であろうが、製作費を出すスポンサーに対して、それが商品として成立することを説得するための材料を提供しなければならない。だから企画書というものが存在し、プロデューサーはゴーサインが出た企画どおりに制作が進行するかどうか、構成台本を必ず要求し、チェックする。

 それが必要ないのは、完全なる自主製作以外にありえない。いや、自主製作であろうと、構成台本なしに現場にのぞむのは、よほどの勇気がいる。なぜなら、この材料をこうした切り口で取り上げればこんなふうになるだろうという仕上がりをあらかじめ想定できないところに、創作の動機は生まれにくいからだ。そのためにドキュメンタリーの作者はふつう、対象に対する丹念な取材・調査をもとにした構成台本をつくり、それに沿った映像を撮影しようとする。

 では、そんな手続きをいっさい取り払ったドキュメンタリーは果たして作品として成立するか。それは現在公開中の想田和弘監督『精神』を見ればわかる。取材・調査なし、構成台本なし、ナレーションなし、テロップ(字幕)なし、音楽なし、モザイクなし……通常のドキュメンタリー作品で使われる手法をすべて廃した「ないない尽くし」で、その現場で起こっている事態の推移をただひたすら自分の目で見定めよ、と観客に要求する映画が『精神』である。

 

■映像の多義性を失わない

 

 とりわけこの映画の場合、「モザイクなし」というのに驚かされた。というのも、撮影対象が「こらーる岡山」という精神疾患の診療所で、画面に登場するのは統合失調症や鬱病の患者さんたちだからである。想田監督は映画公開と同時に出版された著書『精神病とモザイク』(中央法規)でこう述べる。

「モザイクが守るのは、被写体ではなく、往々にして作り手の側である。それを掛けてしまえば、できた作品を観た被写体からクレームがつくことも、名誉棄損で訴えられることも、社会から〈被写体の人権をどう考えているのか〉と批判されることもない。要するに被写体に対しても、観客に対しても、責任をとる必要がなくなる」。

 また、ナレーションやテロップや音楽を入れないのは、「本来多義的であるはずの映像を、一義的で平坦なものに変えてしまう」からだという。

「例えば、ある人物をナレーションなしで映し出すとする。観る人は、彼を〈太った人〉と思うかもしれないし、〈笑顔の素敵な人〉と思うかもしれない。ところが、そこに〈躁うつ病を患う○○さんです〉というナレーションを入れたらどうか。その瞬間に、映像からは多義性が失われ、〈躁うつ病患者の絵〉という一義的でフラットな記号に堕してしまうのである」。

 テレビ・ドキュメンタリーの現場で、映像の多義性を作り手の意図した一義性に封じ込めようとする制作方法に疑問を感じた想田監督は、いっさいの予断を排除し事態の推移だけを律義にキャメラが見守ることによって、そこから何を感じとり、考えるかは観客にすべてを委ねるこうした手法を「観察映画」と呼んでいるが、おそらくその元祖はアメリカのフレデリック・ワイズマンだろう。1967年のデビュー作『チチカット・フォーリーズ』以来、ナレーションもテロップも音楽もモザイクもなしで40本近いドキュメンタリーを撮り続けている人だ。『Zoo』(93年)『Domestic Violence(01)、『BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界』(95年)、『コメディ・フランセーズ————演じられた愛』(96年)などの作品がある(後の2本は日本でもDVDが発売されている)。

 ただし、弁護士の資格をもつワイズマンの場合は、モザイクなしでの撮影を許可してくれた被写体のすべての人と契約書を交わしているそうだが(蓮實重彦『映画論講義』東京大学出版会)、『精神』で想田監督が依拠しているのは、山本昌知医師はじめ「こらーる岡山」のスタッフ、患者さんとの信頼関係のみである。むろん、すべての患者さんが撮影を承諾したわけはなく、現場での患者さんの抗議にあわや制作ストップか、と思いきや診療所のスタッフが穏やかなにとりなして撮影が続行できた経緯なども先の著書には紹介されている。

 

■半世紀を経て実現したカメラ万年筆

 

 映画の冒頭から山本医師の診療のようすが映し出されるが、そこで二人ほど続く患者さんの長いモノローグを山本医師と共に聞いていると、「なぜこれほどまでに自分のことを理路整然と語れる人が……」と不思議に思うが、やがて映画の時間が進むにつれ、そんな疑問をもつことは誤りだったことに気づく。きわめて用心深く心の奥底に錨を沈めて自分を見つめ、同じような鋭敏さで他者に接する研ぎ澄まされた精神のありようこそが、ほんの一瞬でも崩れた心のバランスの傾きを次第に大きくしていくのにちがいない。

 病歴を語るうちに、人生の転機となったある深刻な事件をカメラの前で語りだす女性は、その場面が映画に使われることを最後まで逡巡したあげく、結局は承諾した。一般公開に先立って海外の映画祭で上映された際の質疑応答で、同じような精神疾患に苦しむ観客の一人が勇気をもって「あの女性は私そのものです」と発言したという。

 ここで描かれている「精神のありよう」は、モザイクという隔離の壁の向こう側にあるものでは決してない。ほんの少し想像力を働かせれば、誰にとっても他人事ではないことがわかるだろう。「病んでいるのはどっちか?」というのは、よくこのたぐいの問題提起に使われるフレーズだが、それは正確ではない。

境界線を設けること自体、疑ってみてはどうか。そのことにこの映画は気づかせてくれる。孤立を防ぎ、人とのつながりを取り戻すための精神疾患の治療のありかたといった課題を考えるうえでも(もちろんこの映画自体にそうした社会的メッセージがこめられているわけではない)、年間自殺者3万人を超えるこの国で、こうした映画が公開され観客を集める意義は大きい。

 さらに重要なのは、この映画が映像のもつ大きな可能性を示唆していることだ。これはほとんど想田監督一人によってつくられている。カメラの小型軽量化、高性能化が、それを可能にした。被写体との信頼関係というただ一点の前提があれば、わずかの予算で、機動性の高い、制約を免れた作品をつくることができる。前世紀半ば、アレクサンドル・アストリュックというフランスの映画作家が「カメラ万年筆説」を唱えたが、半世紀を経てようやく、テクノロジーの進歩が真の意味での「個人映画」を生みだすかもしれない。とりわけ『精神』のような題材では、一人だけが責任をもつ個人映画の手法によってこそ組み立てられた「ないない尽くし」の映像が大きな価値をもたらしている。

 となると問題はメディア・リテラシーだ。われわれはテレビでも映画でも、あらかじめ「映像とはこういうものだ」という一種のコードに基づいて作品を受けとめる。そこから自由になるのはたやすいことではない。現に、この映画を見終わったあとは、どっと疲れる。あらかじめ作り手の意図にのっとって何かしらの結論に誘導するプロセスをたどらないから、観客はいったい画面では何が起こっているのか、ひたすら凝視することを要求される。

 もちろん、撮影された素材(この映画では70時間分という)から何らかの取捨選択が編集で行なわれているから、作り手の意図が全くないわけではない。そもそも、どこかの放送局が標榜する「中立公正な報道」などというのは絵に描いた餅に過ぎず、「ドキュメンタリーは事実を客観的に描き、フィクションは虚構を主観的に描く」などという図式もありえないことはメディア・リテラシーの初歩の初歩だ。「起きていることをただ見よ」といっても、その映像が取捨選択された時点で、作り手の主観が大きく入り込んでいる。だが、観客の解釈に委ねられた多義性の許容度は通常のドキュメンタリーより遥かに大きい。「映像を見て考える」新たな経験を生きるか、それともそんなことは面倒か。

 現に、この映画を見終わって劇場を出しな、後ろから若い女性二人の「なにこれ?」という、吐き捨てるようなセリフを耳にした。「見たくないものを見てしまった」「わけのわからない体験をした」と感じる人も少なくないだろう。だからこそ一見の価値がある、と言っておきたい。

『精神』公式サイト 

 


 

赤ちゃんにとって、「返事をしてくれない」、

「思いを汲み取ってくれない」テレビの危険性

坂本千鶴子

私は現在、西武新宿線「都立家政駅」近くで、スタジオ・ドリームを経営しています。

洋書絵本と木のおもちゃの輸入販売、小さな英語クラスの運営、学校や英語の先生たちへの洋書絵本コンサルとチャイルドコーチング(認定)を通して、赤ちゃんとお母様たちに日本語の絵本の読み聞かせなどをしています。

一年半前、スタジオ・ドリームを西武線線路沿いの一方通行道路沿いに移転してから、その立地条件のマイナス面が私に発見させてくれたことがあります。それが、テレビを赤ちゃんのときから見ている子と、ほとんど、あるいは全く見ていない子の電車の走行音に対する反応の違いでした。何かに集中している、あるいは集中しているように見えていたのに、電車の走る音に毎回反応する子どもと、ほとんど反応しない子どもです。

移転後、初めて来てくれた赤ちゃんの中には、お気に入りのおもちゃで夢中で遊んでいたはずなのに、電車が通るたびに、反射的に窓の外を見る子どもたちがいるのですが、移転前から付き合いのある子どもたちの大半は、何かに夢中になっているときには、毎回反応するということがないのです。この違いの原因を考えているうちに、思い当たったのがテレビの影響でした。電車の音に毎回反射的に反応する赤ちゃんの保護者の方にうかがうと、ほとんど皆、0歳のときからテレビを見ていました。

移転前からスタジオ・ドリームによく来てくれている赤ちゃんや小さい子どもたちの多くは、日本語の絵本の読み聞かせをしてもらっていて、テレビはほとんど見ていないのです。

このことに気付くまで、私にとって乳幼児にテレビの見過ぎが及ぼす影響の主なものは、「音を選べなくなること」、「集中力に欠けること」、そして「赤ちゃんが必要とするコミュニケーション力の発達や心の発育が、テレビに邪魔される」ことだと思っていたので、ショップに来てくださる保護者の方には、「テレビをやめて、その時間を、絵本を読んだり、歌を歌ったり、お話しながらのお散歩や外あそびに変えてみませんか。」と、お話していたのです。実際にそうすることで大きく変わった子どもたちが何人もいました。

しかし、移転後、電車の通過音への反応の違いで、子どもたちのテレビとの関係が読めたことで、いつの間にか私は、「テレビの影響=音を選ぶ力を奪う、集中力が欠ける」ということにばかり気をとられ、「コミュニケーション力や心の発達の問題」を忘れがちになっていました。

 

ところが、この2ヶ月の間に、それを大きく打ち壊してくれた子どもたちとの出来事がいくつも起きたのです。そして、その都度、「乳幼児期に必要な、基本的な信頼感を身につけることは、自分の思いを何かの形で表現するとそれに答えてくれる人がいると実感することによって培われていく」ということ、「人と人とのやり取りのなかでしか、コミュニケーション力は養われない」ということを思い返し、返事をしてくれないテレビは、乳幼児から信頼感を奪っていると、実感させられたのです。

今回はこの中から2例を、大変長くなりますが、詳しくご紹介します。

テレビを「きらい!」と言った子どもたちの例です。

 

事例1.

Yちゃん 女の子 16ヶ月、お母様は、優しい素敵な方です。

0歳から絵本の読み聞かせを楽しんでいるYちゃん。おとなしくて、人見知り、場所見知りをします。

15ヶ月になって久しぶりに来てくれたとき、以前より生気が無いのが気になりました。

お母様にぴったりとくっついたまま、おもちゃにも手が伸びません。先回まで気にしていなかった電車の音に反射的に反応します。お母様に「テレビを見るようになりました?」と伺うと、図星でした。

週に数回行く児童館で全員揃って踊るダンスが教育番組で放映されているものなのだそうですが、Yちゃんだけがテレビを見ていないので踊れません。それがかわいそうで、その番組の時間だけテレビをかけてダンスの練習をしているとのことでした。

「それで、Yちゃんは楽しそうですか?」と伺うと、「それが、2人で公園で遊んでいるときのような元気がなくて」とお母様。

しばらくして、お母様にくっついたままのYちゃんの肩を抱いて、「Yちゃん、児童館に行ってダンスするの、本当はいやだったの?テレビ見て踊るのもいやだったんだね?」と訊いた途端です。Yちゃんは、大きな声で「うん、うん」と大きくうなずきながら泣きだしたのです。「そうか、お母さんと一緒に公園で遊ぶ方が楽しいんだけど、言えなかったんだね?」と訊くと、私の手を握りしめて「うん」と言って、大泣きになってしまったのです。Yちゃんの様子を見ていらしたお母様の目にも涙が溢れ、「ごめんね、Yちゃん。」と言って、泣かれてしまいました。そこで、私が、「わかった。児童館のダンスに行くの、やめようね。テレビもまた、やめようね。もっとお母様と公園でボール遊びしていただこうね?」というと、「うん、うん」と言いながら、わんわんと声を上げてしばらく大泣きが続いたのです。

長いこと、泣いて泣き止んだその表情があまりに晴れやかなのを見て、思わずお母様と顔を見合わせてしまいました。Yちゃんは、まだあまり声を出しておしゃべりはしません。こんなに声を出して泣いたのも初めてだったそうです。そのあと、その日初めてお母様のひざから、そろーっとフローリングに降りてきました。そこでおもちゃ遊びに誘うと、しばらくはビクビクした感じでしたが、突然、自ら遊びに熱中し始めたのです。「こんなに一つのおもちゃに熱中したのは初めて」と、お母様は驚いておられました。最後には、とても満足そうな笑顔でバイバイをして帰っていきました。

それからしばらくして、またYちゃんがお母様と一緒に来てくれました。その日も少し恥ずかしそうに、しばらくはお母様にくっついていましたが、表情は、前回よりずっと豊かです。あの大泣きした日から、本当にテレビと児童館通いをやめたそうです。その日は、前回とは比べ物にならないほど集中力が増していました。そして、前に遊んだコルクの大きな積木を出してあげると、どんどん高く積み上げたり、円形の積木を転がしたり、様々な遊びを展開していました。「すごい、すごい」と、お母様と私が手をたたくと、Yちゃんも自分で拍手をして嬉しさを体いっぱいに表していました。

お母様が、「実は、Yは本当にテレビが嫌いだったらしくて、歯医者さんの託児室で子ども用のビデオが流れていると、電源を切ってしまうんです」と教えてくださったときには、びっくりしました。

しばらくして、Yちゃんがお母様のバッグに手を入れました。お母様が「のどがかわいたの?」と訊くと、こくんと頷いたのですが、「あっ、水筒忘れちゃった。ごめんね」といわれ、Yちゃんは悲しそうな顔をしました。私のところには、水道水しかありません。伺うと、いつも水道水を飲んでいるから大丈夫とのことだったので、ピンクの花模様のついた透明なプラスティックのカップにお水を入れて「Yちゃん、お水、のむ?」と訊いてみました。すると、「うん」と大きな返事をして私の手から上手にその持ちにくいカップを両手で受け取り、おいしそうに、ゴクン、ゴクンと飲みました。今まで、私に何かして欲しいときには、必ずお母様を通したコミュニケーションだったのに、そのとき初めて、自分のしてほしいことを直接私に伝えてくれたのでした。

コルクの積木を買ってもらって帰り際、「Yちゃん、おくつ自分ではいてみようか?」と言いながら、少し手伝って最後の仕上げを自分で出来るようにしてみました。「できた、できた!おくつはけたね!」というと、本当に嬉しそうに自分でも拍手をしていました。そして、いつもは外に出ても、お母様にぴったりくっついたままだったのに、初めてトットコ、トットコと走ってお母様から離れて走ったのです。それから線路沿いの柵まで戻ってくると、その柵を一段、また一段とよじ登り始めたのです。お母様も私もびっくりです。

私はあわててYちゃんの背中に自分の体をぴったりつけて、支えていました。Yちゃんは嫌がりません。もうこれ以上は危ないというところで、それをYちゃんに伝えました。Yちゃんは私の言うことをしっかり聞いています。

それから長いこと、電車が通るのを二人でくっついたまま眺めていました。

「もう、暗くなったから帰ろうね」と言うと、何回かは首を横に振っていましたが、やがて満足そうに自分で一段一段柵を降り、お母様の自転車に乗って帰って行きました。

Yちゃんとお母様は大の仲良しです。たとえその大好きなお母さんと一緒でも、Yちゃんにとって、テレビは、踊りたくないダンスを強要する、もう一度見せて欲しいと思っても待ってくれない、イライラさせるだけのものだったのかもしれません。

 

★なぜ、「せめて、3歳まではテレビを見てほしくない」のか

絵本のなかに描かれた食べ物の絵を見ながら、「おいしいね」といって摘まんで食べさせてあげるまねをすると、差し出す指をパクッと口に入れたり、絵にかじりついてしまったりするのは、大体0歳から2,3歳までです。

また、赤ちゃんは、自分が興味を持ったものを口でも確かめようとします。おもちゃでも、身近な雑貨でも五感をフルに使って物事を確かめようとするのです。

それ以上の年齢になると、食べるまねを楽しむことが出来るのですが、2,3歳までは、現実の世界から空想の世界へ瞬間に飛び込んでいきます。

この年齢は、「すべて、本気なのだな」と、感じさせられることがよくあるのです。

そんな年齢のときに、赤ちゃんにテレビは見て欲しくないと思うのです。

また、実際には、2〜3歳までテレビを見ていない子どもには、見たくないテレビを見ない能力が備わっていくようです。

実は、個人的な経験からも、3歳までの「実感」の強さを根拠としているところがあります。

私には、本来忘れなければならないといわれている、0歳から3歳までの記憶が、部分的なものですがいくつもあるのです。3歳になってから引越しをして、とても寂しい思いをしたので、それまでの楽しい記憶が忘れられなかったのだと、最近になって思います。

私の一番早い記憶かと思えるものは、0歳のころ、母親に「おんぶ」されていた時に見えた母のうなじと、髪の毛です。それとともに温かい背中にくっついてゆられていた感覚が蘇るのです。

私が話せるようになったのは、2歳になってやっとだったといわれています。

自分では言葉が話せないのに、人が私に語りかけていた言葉を覚えているのも不思議です。

目覚めたときから夕方まで、親だけではなく、近所の人たちに絶えず声をかけられていたこと、私の名前を呼んでくれていた人たちの声の違いまでしっかり覚えています。

具体的な場面の思いでも、いろいろありますが、体に染み付いた感触として思い出せるのは、陽だまりの匂い、草むらの匂い、冷たい井戸水の感触、ひざの上の温もり、水溜りを覗き込むのが楽しかったこと、神社のひんやりとした空気、肩車されて揺れながら高いところから眺めた景色などです。

私が、「話せない0歳、1歳児でも、ほとんどのことをわかっている」と信じて赤ちゃんと接するのは、自分にこれらの思い出があるからです。

3歳ぐらいまでは、五感をフルに使って息をしていたのだと思います。すべてが実感なのです。

ところが、テレビの中の世界は触れることも出来ない、匂いもしません。こんな世界を赤ちゃんが納得できるのでしょうか?

 

もう一つ、例をあげさせて下さい。

事例2.

N君 111ヶ月 男の子  お母様はとても穏やかな方です

ある日、物静かなシニアのご夫人と一緒に男の子を連れた素敵なお母様がみえました。

その男の子N君は、ショップに一歩踏み込んだとたん、ブラインドの紐は引っ張る、本棚は力任せに揺らす、次々に脈絡もなくショップの備品や商品に触るーと、まったく落ち着きがありませんでした。

私は、まるで嵐が吹き込んできたようなショックを受けました。

言葉での注意はまったく意味がありませんでした。

体を張って止めなければならない危ない場面も何度もありました。椅子の上に立とうとしたとき、「椅子は座るところ、危ないから椅子の上には立たないでね」と言っている私の顔を見ながら、本当に立ち上がり、手を伸ばしても届きそうもないものを取ろうとします。思わず、「あぶない!」と言ってN君の体を抱きしめました。

すると、N君は、私が生まれて一度も聞いたことの無い、「ギーッ」という、私の鼓膜が痛みとともに振動で破れそうな高音の連続音で叫び続けるのです。ただ、不思議なことに、その声は、思い通りにならない怒りの声そのものなのに、N君は私を引っかくでもなく、暴れるでもなく、私の体にぴったりと自分の体をくっつけて、抱きしめられるに任せているのです。「危ないのよ、わかった?」と声をかけて、叫び声が収まったところで手を離す、すると、すぐにまた、次の危険なことを始めます。私があわてて「あぶないっ!」と言って抱きしめて止めると、また「ギーッ」が始まるのです。これを何回か繰り返している間、おばあ様と、お母様は「きかなくて、すみませんね」と謝り通しです。

最後には、入店のときから興味しんしんだったショーウィンドウにかざってある木の汽車、何度も「あの汽車は外から見るだけね」と伝えていたその汽車にテーブルの下を這って突進して言ったのです。私はN君の傍にいらしたお母様に「危ないから、止めてください!」とお願いしました。お母様は「Nちゃん、危ないから止めなさい」と、声をかけてくださいましたが、N君はききません。私は慌ててとんで行ってN君のずぼんのウエストを引っ張ってテーブルの下から引きずりました。N君は今まで以上の大きな「ギーッ!」という叫び声と共に大泣きです。大粒の涙を流し、鼻水を流し、その顔を私にぐいぐい押し付けてきました。それでも私にびったりくっついているのです。

N君は、まだおしゃべりはしません。でも、いたずらの合間に、電車が通ると私の腕をトントンたたいて教えてくれていました。「テレビ見ていますか?」と伺うと、ほとんどテレビがついている状態のようです。それを伺い、私は「あっ」と、思い当たったのです。

「そうか、N君、寂しかったんだね。ずーっと、ずーっとテレビを見ていて、テレビに何かお話してもテレビが何にも答えてくれないから、寂しかったんだね?」と、私が訊いた途端、叫び声が止まり、「うん!」とうなずいて、更に大声で泣き出したのです。「すぐにテレビを止めてください!」。私は今まで口にしたことが無いぐらいのきつい口調でつい、言ってしまいました。「テレビを他の部屋に移して、ゆっくりN君とお話してみてください」とお願いすると、「大きすぎて他の部屋には移動できないんです。」と言われ、びっくりしました。お母様は、「直ぐに布をかけて、コンセントを抜くことにします。」と、おっしゃいました。

いつも巨大なテレビとにらめっこしていたN君。

私はN君を更にギューッと抱きしめました。N君も私も顔も体も涙や汗でびしょびしょです。

「わかったよ、N君、もう大丈夫!お返事してくれないテレビ、見なくていいからね。お母様が一緒に遊んでくださるって。もう寂しくないよ!」

N君は更に大きな声でひとしきり泣きました。

やっと泣き止んだN君を腕から離してみると、そこには別人のように晴れ晴れしたやわらかな表情のN君がいました。そして、N君は、初めてショップの中をゆっくりと眺めたのです。私が積木遊びに誘うと、床にしっかりと座ってじっくり遊び始めたのです。その遊び方を見て、自分で色々と発見する力を持っていることに驚きました。おもちゃでじっくり遊んだことが初めてだそうですが、色々と工夫をして遊んでいる姿にお母様も驚いていらっしゃいました。

気が付くと、N君がショップに入ってから2時間がたっていました。帰るときには、落ち着いた表情で帰っていったN君。

翌日、どしゃぶりの雨の中、お母様がお一人で、前日にN君が夢中で遊んでいた積木を買いに来てくださいました。そして、日本語の絵本のセットもご予約いただきました。あの日、帰られた後、さっそくテレビを布で覆われたそうです。すると、いつもより落ち着いて食事が出来た気がしたとのことでした。

1週間して、お母様がN君と一緒に、絵本のセットが届いたと、来てくださいました。NJ君は落ち着いて明るい表情になっていました。そのとき、不思議なことに気が付きました。初めて来てくれた日、どんなに私にきつく注意をされても、そのしかっている私のところにやってきて、一度もお母様に泣きついていかなかったN君が、その日は何度もお母様のひざにのっているのです。

お母様が、「絵本を読んであげるようになったら、初めてひざにのってくるようになったんです。それに今まで無かった後追いがすごくて、トイレまでついてくるようになって。」

それを伺い、N君はお母様のことを、今までの何倍も大好きになったんだと思いました。N君はそれまで返事をしてくれないテレビと向き合っていたから、お母様の素敵な声をちゃんと聞いていなかったのかもしれません。

★ 最後に

私は、医療の専門家ではありませんから、テレビと障害との因果関係、症状、治療法などには言及できません。また、現在の医学情報を通して、「テレビ視聴が自閉症の原因には、なり得ない」という事や、「乳幼児のテレビ視聴が脳に何らかの悪影響をもたらすかどうかの結論を出すには、まだデータが不十分」と言われていることも、認識しています。

しかし、現実に、『お気に入りを見つけても「もう一回?」に、答えてくれない、一方的に話しかけておきながら、速いテンポで勝手に流れていってしまう、なじみも実感も無い世界を次々と繰り広げるテレビ』を毎日見ながら、戸惑い、寂しい思いをしている赤ちゃんや子どもたちがいることと、その子たちが、テレビの無い生活を始めることによって、笑顔を取り戻せるという事実は、お伝えしていきたいと思っています。

 

(編集 茂木)