「原爆下の本因坊戦」
囲碁を文化と世界平和の使節に!
敬愛するアメリカ大統領バラク・オバマ殿
1009年度ノーベル平和賞受賞おめでとうございます
今年4月にプラハでなされたオバマ大統領の核兵器廃絶に関する講演は人類にとって記念すべきものと思います。
この宣言は原子爆弾の被爆者を初め、核兵器を廃絶して世界平和を望む人々に大きな喜びと希望を与えてくれた歴史的講演と思います。これを機に核兵器廃絶の機運が世界的に一層盛り上がってきました。また、この度のご授賞はこの運動に更なる力を与えることでしょう。
広島の原爆投下は、私たち日本の囲碁ゲーム愛好家にとって忘れられない「原爆と囲碁」について一つの史実があります。ご存じないかと思いますが、それは広島で行われた囲碁のタイトル戦「原爆下の囲碁対局」というものです。(「囲碁」とは盤上でなされる2人ゲームです。ごは数千年前の歴史を有するもので、発祥地は中国ですが、現代の形式は主に日本で整備されました。現在では囲碁はアメリカを含めて世界中に広まっております。囲碁の意義についてこの手紙の最後の脚注をお参照下さい。)
このエピソードは、1945年8月6日に最初の原爆が広島に落とされた時に行われた最も権威ある囲碁タイトル戦に関するものです。この事件は、囲碁を通して世界の人々と手を結び核兵器廃絶と世界平和に役立とうとの強い思いを、このときの対局者に与えました。その意思は日本の囲碁界に広く受け継がれています。以下にその事件の概要をご紹介します。
「原爆下の囲碁対局」のエピソードと、囲碁を世界平和と文化の使節として普及活動をしている人々がいることを、この機会にオバマ大統領にお伝えしたいと思い立ちこの手紙をしたためました。
原爆下の対局
1945年には、日本の敗戦が濃厚でもはや囲碁どころではないという状況でした。当時の唯一の囲碁タイトル戦は「本因坊戦」でした。 囲碁界の重鎮、瀬越憲作は「人類の垣根を越えて、心を交流し、平和を築く、それが囲碁の心であり、道である」と常々強調し実践していました。それゆえ、本因坊戦だけは万難を排してやらねばならぬと準備を進めました。しかし、すでに東京を含めて日本の大都市はほとんど破壊されていましたので、局場を広島市に決めました。
しかし、米軍機による空襲のため、対局者が対局場に会することが困難でした。漸く1945年7月に、タイトル保持者橋本宇太郎本因坊と挑戦者岩本薫、および瀬越ら関係者が広島に集まることができました。
タイトル戦は全部で7局打たれることになっていました。第一局は、7月23,24,25日の3日間で行われ、岩本の勝ちでした。この間、米軍艦載機が市内を機銃掃射し、対局場の屋根も壊れるほどの危険な状態でしたが、対局者も観戦者も防空壕に避難することなく、この対局を打ち終わったそうです。
第2局目は8月4,5,6日の3日間でしたが、広島市内は危険なので郊外に対局場を移して行われました。ここも安全とは言えませんでした。ここで原爆にあったのです。
そのときの記録:対局3日目の6日の朝、8時過ぎ、空襲警報も解除されたので、始めようと前日までの手順に従い石を並べた。その時、空に一機の米軍機。落下傘が高い空からきらきらと光りながら降りてくと、ピカッと閃光が広がった。写真を撮るためのマグネシウムをたいたように対局場が真っ白になった。そのうちに、広島の上空に入道雲のようなものがむくむくと持ち上がり、異様な物音が轟々と迫ってくるようだ。あっという間に爆風が対局の部屋に突っ込んできた。気がついてみると、橋本は庭の芝生に突っ立っていた。瀬越は畳の上に茫然と座り込み、岩本は碁盤の上にうつ伏せになっていた。窓ガラスもなにもかも吹き飛がされていた。しばらくして、部屋を取り片づけ、午後になってから囲碁を再開し、橋本の勝ちとなった。( 第3局目以降は当然中止になりました。)
大変な爆弾らしいということは想像できたが、広島市内の様子はまだ判っていない。 囲碁が終わった頃、対局場の前を原爆で傷ついた被災者たちがぼろぼろに焼けただれた衣服で通り始めた。その有様は時間とともにひどくなり、地獄絵と化していきました。広島市内の被害は筆舌に尽くしがたい残酷な状況であったことは改めて言うまでもないでしょう。対局場は爆心地から10キロメートルほど離れていたので、対局者や瀬越は奇跡的に命拾いをしました。
囲碁を通して世界に人の和を、そして平和を!
これ以降、岩本薫の人生観は変わりました。彼はいっぺん死んだのだ、そのつもりでこれから囲碁会のために尽くそうと決心したそうです。その通り岩本は私財を投じてまで海外各国に囲碁センターをつぎつぎ建設し、囲碁普及を通して世界平和へ貢献するという瀬越憲作の情熱を受け継いで一生を捧げたのでした。 また、橋本宇太郎も「囲碁は平和のための使節です。世界平和には碁が一番いいと信じます。だから平和の時代に囲碁は最も盛んになるし、その逆でもあります」と常々言っていました。
「原爆と囲碁」の奇しき因縁は、「囲碁と平和」を一層強く結びつけたように思えます。
囲碁は単なるゲームではない、「一種の文化である」といわれています。「文化としての囲碁」には、礼儀を重んじ、人々の和を作り、創造的智を磨くことで立派な人格を育成するという意味が込められています。囲碁が神秘的なゲームであることだけでなく、なにか奥深い哲理を含み、しかも人間同士の心が言葉なくても交流しあうという不思議な親和力をもっているからでもあります。
今では囲碁が国際的に普及し「世界的ゲーム」になったので、囲碁を通して人の和を造り世界平和の基礎を築くことに貢献することができるでしょう。瀬越憲作の意思を受け継いで、囲碁を世界平和に活かそうという気持ちは、日本の囲碁界に今も強く引き継がれています。
核兵器廃絶と世界平和を強く希求する日本の囲碁愛好家の強い思いをお汲み取り頂くようお願い致します。
敬具
2009年10月16日
菅野禮司(理論物理学専攻・大阪市立大学名誉教授)
宮本直毅(関西棋院理事 棋士9段)
注:囲碁は19×19路の盤面に黒石と白石を1個ずつ交互に置いてゆき、囲んだ地の大きさを競うゲームです。
囲碁は別の名を「手談」ともいいます。「手談」とは、言葉は通じなくとも、対局者が碁盤の上に黒石と白石を交互に一手ずつ打つことにより、自らの意思と相手の意図を互いに読み取ることで心が通じ合う、というところから生まれた素晴らしい呼び名です。
また、他のゲームにはない囲碁の特徴は、盤面には何もない無の状態から始めて、2人が交互に石を置きながら一つの宇宙(新世界)を作り上げていく構築型のゲームということです。
囲碁は本来「地を分かち合う」ゲームであるとみることができます。地は全部で361路と決まっています。その地を奪い合うのでなく分かち合うゲームならば、調和(バランス)が自然の姿となります。だから囲碁の本質は平和主義なのです。
(「オバマ大統領への手紙」は、「囲碁梁山泊」誌2009年秋号(第55号)に掲載されたものです。「私達の教育改革通信」への転載を許可してくれた同誌に深く感謝申し上げます)。
勲章とレトリック
長谷川弘基さる2009年11月2日、深く敬愛する歌手=詩人の中島みゆきが長年の業績を評価され、紫綬褒章を授与されたことが巷間に広く報道された。それと前後して、私の皮肉家の友人が早速、「あんたの歌姫さん、勲章(事実は、勲章ではなく褒章だったのだが)なんかを貰いはりましたな」と祝電ならぬ、祝メールを一介のファンに過ぎない私にまで送りつけてきた。この友人の気分は、例えば、やはり皮肉家で気難し屋の辺見庸が『永遠の不服従のために』(2002)の中で次のように語るときの気分とほとんど同じだっただろうと推測している。
試みに、秋の叙勲の受章者リストを見るといい。改憲派の政府・法曹関係者ばかりではない、かつての護憲派の元学長さん、現役護憲派の名誉教授様、芥川賞作家まで名前を連ね、あたら晩節を汚し、じゃなかった、輝かしきものとしているのである。これにかつての褒章受章者を加えれば、反権力を標榜していた映画監督や著名作家、反戦歌を詠んだことのある歌人もいたりして、意外や意外どころのさわぎではない。革新政治家、かつては“社会の木鐸”を気どっていたはずのマスコミ経営者、万人平等を教えていたはずの学者ら、その他諸々の、ひとかどの人物たちが、ま、いっとき色に耽るのもよろしかろう、お金をもうけるのも結構でしょう、名前を売るのもどうぞどうぞではあるのだけれども、強欲人生の最後の仕上げと夢なるものが、勲章・褒章と、おそれ多くもかしこくも、宮中にての親授式だと知ってしまえば、「なーんだ、そうだったの」というほかはない (P.102)。
中島みゆきにしても、例えば「瞬きもせず」という歌の中で、「あのささやかな人生を良くは言わぬ人もあるだろう/あのささやかな人生を無駄となじる人もあるだろう/でも僕は誉める 君の知らぬ君についていくつでも」などと歌ってきたわけだから、このたびの受賞に対して、「なーんだ、そうだったの」という冷ややかな反応があったとしても、決して不思議ではない。
私自身、紫綬褒章のニュースを耳にしたとき、「受章辞退の方が彼女らしいのに」と感じなかったわけではない。そして、受章辞退した中島みゆきの方が、受章してしまった中島みゆきよりもおそらくはいっそう好きになっていたことと思う。彼女に勲章の類は似合わないと思うから。(もちろん、よほどの変わり者でない限り、勲章・褒章のメダルを身に付ける蛮勇の持ち主がいるとは信じられないが。)
けれども、仮に彼女が褒章を辞退していたら、いったいどんな騒ぎになっていただろう? 受章してこの大騒ぎだったのだから、辞退していたなら、少なく見積もっても二倍の騒動になっていたのではないだろうか。そして、辞退に伴う大騒ぎに巻き込まれている中島みゆきの姿を想像することは、一ファンの率直な感想としては、文部科学省の一室でインタビューに答える中島みゆきの映像を見せられることに比べて、はるかに、桁違いに憂鬱である。この意味で、彼女が粛々と、あるいは嬉々として、受章したことは結局は良かったのだろう。
それにしても現代に残る叙勲・褒章制度とは困った代物であると言う他はない。事の本質は、例えばオリンピックのメダルと全く異なる。オリンピックやワールドカップのメダルであれば、勝敗の行方は明らかであり、その結果に対して優劣を定めることに何の問題もない。また、競技者たちが基本的には自らの意志によってその優劣の判定合戦に参加したことも特記しておかねばならない。この点では、絵や音楽のコンクールにおいても同様であり、参加者たちは参加を決めた最初から、自分たちの試技に関して優劣の判定が下されることを期待しているのである。つまり、オリンピックにしてもコンクールにしても、本質において、彼らの表彰は「同好の士による、同業者同士の栄誉の称え合い」だといえる。
ところが、叙勲・褒章の方は、同じく「栄誉を称える」と言いながらも、その本質は、国家による個々人の優劣判定である。「あなたは他の一般人よりも優れているので表彰する」と国家が宣言するのだから、よくよく考えてみれば、グロテスクであること、この上ない。特等・特級市民の選別のようである。こう考えると、叙勲・受章の誉れに与った人の中には、さぞ困惑された人も含まれていたことと思う。いないはずがない。誰にしても、たとえそれが「特級・特等・最上級」といったラベルであったにしても、自分の額に勝手にそんなラベルが貼られた日に、良い気分がする人は、それこそ特別に殊勝な人であろう。自ら望んでもいないときに他人によってランク付けされることに対して、本能的・反射的反発を覚えない人がはたしているものだろうか。例えばミシュランによるレストランのランク付けに対して、それを便利だと思いつつも、どこかに耐え難い胡散臭さを感じ取るのが、普通の感受性なのではないだろうか。そして、もしも自他共に認める一流の料理人が、ミシュランからの三つ星認定を嬉々として恭しく受け取るとしたら 、むしろその料理人は何かもっと大切なものを失ってしまったことを示しているのではないだろうか。
けれども、統計によると、叙勲や褒章を辞退した人は意外に少ないという。比較的記憶に新しいところでは、故宮沢喜一元首相の遺族が辞退し、作家の城山三郎は生前の内に自ら辞退していたと聞く。海を越えれば、ミック・ジャガーは勲章授与を受け入れ、デビッド・ボウイは辞退したと聞く。単なる私見だが、もしも普通のサラリーマンが叙勲・受章される機会に恵まれたら、本人の意志に関わらず、辞退することは極めて難しいだろう。勤め先の会社があの手この手で辞退を阻止するのではないだろうか。それとも、これは単なる下司の勘ぐりに過ぎないのだろうか。だが、城山三郎が辞退できたのは、彼が本質的に作家という自由業に従事していたためだと思われてならない。彼が辞退することで当惑する関係者はいなかったであろう。宮沢喜一が遺族に辞退を遺言できたのも、それが自身の死後のことであることと無縁ではないと思われる。辞退に伴う大騒動は、それを考えるだけでも、あまりに鬱陶しい。叙勲・受章とは、文字通り、天から降ってくるものであり、それを避けるのは誰にとっても難しいのかもしれない。
そして、勲章・褒章が天から降ってくるという事実を、中島みゆきは、よくよく考えると、とてつもなく恐ろしいレトリックで表していた。新聞を通して報じられたそのレトリックは、「思いがけずうれしいことの表現に『棚からぼたもち』と申しますが、今の私の気持ちは、ぼたもちどころではございません。『棚から本マグロ』。これくらいの驚きでございます」であった。
私の知る限りでは(つまり、普段目にするマスコミのレベルでは)、彼女のこの表現は彼女一流のユーモラスな表現として好意的に受け止められていたように理解している。確かに、紫綬褒章=棚からぼたもち=棚から本マグロという連鎖には絶妙なおかしみが認められる。褒章が、庶民的食べ物でもある「ぼたもち」へ下位変換されるのはもちろん面白いが、いったん下方へ変換された「ぼたもち」が、一見する限りでは上位方向の「本マグロ(絶滅危惧種)」に再変換される素振りを示しつつ、実際には「棚から本マグロ」という不条理で解決される一連の表現には、受章者の驚きの大きさをユーモラスに表現している以上に、叙勲・褒章の不条理が端的に示されている。曰く、「褒章は、棚から本マグロが降ってくるほど、それほどに常軌を逸している」。
これは私の天邪鬼な曲解かもしれない。しかし、考えてみれば、勲章とレトリックは、思いの外、似ている。両者とも「飾りもの」である。事実、英語では勲章をdecorationと言う。場合によっては、両者とも「不必要に飾り立てる、余計なもの」というニュアンスを持つ。気の利かないレトリックは嫌われ、否定される。勲章も、場合によっては、嫌われる。時代錯誤的愚かさの臭いがする。けれども、たとえ両者が同じく「飾りもの」「余計もの」だとしても、一点だけ決定的に異なる特性がある。レトリックには、川柳や壁新聞に散見されるような、弱者の側からの、権力の裏をかく、必死かつ絶妙な手段としての側面があるのに対して、勲章・褒章は、弱者には全く無縁である。弱者は叙勲されると同時に、額に勲章の烙印を押されてしまい、昨日までの弱者ではいられなくなってしまうだろう。
ここで、いささか唐突に思われるかもしれないが、私としては、どうしてもロラン・バルトのことを思い出さずにはいられない。手元に資料がないので、正確な引用が出来ず残念ではあるが、私の記憶では、バルトがコレージュ・ド・フランスの教授に任命されたときの記念講演を収めた本の中で、彼は権力に刃向かう際の心得を説いていた。権力や体制に対して、真っ向からぶつかってはいけない。そんなことをしても、十中八九は潰されてしまう。また、仮にそのような形で権力に勝利したとしても、それはせいぜい自分自身が権力を奪取し、権力者として君臨するに過ぎない。それでは権力の看板が書き換えられただけで、権力を否定したことにはならない。「権力そのもの」を否定するために必要なことは、「権力からの圧力を斜交いに構えて反らし、かわすこと。権力に真っ向から立ち向かって激突するのではなく、権力を茶化すことが必要である」という意味のことを言っていた。
レトリックに備わった粉飾が弱者にゆるされた必死の偽装であるとき、レトリックはバルトの言う「斜交いの構え」、「茶化すこと」と重なる。とすれば、心ならずも褒章の誉れに与った人の取り得る最後の頼みの綱がレトリックであることは、決して偶然ではないだろう。紫綬褒章を中島みゆきが「棚から本マグロ」と表現したこと、この事実を私は彼女の懸命なレトリックの表れとして覚えておこうと思う。畏れ多い褒章は、彼女の言により、今では貴重な食材になりつつある本マグロに、しかも棚から落ちるぼたもち然とした本マグロに、不況のために収入を減らされた 庶民が思いがけず格安で手に入れることの出来た正月のためのご馳走に変容したのだから。
鳩山政権、「温室効果ガス排出25%削減」を言うけれど
岩本智之国際社会が温室効果ガス排出削減のための必要にして十分な対策に手をこまねいている間も地球の気候系は変容しつつある。今年の夏から秋にかけて、日本付近の天候は「冷夏」とはいえないまでも、気温はほぼ平年並みに推移した。また梅雨明けは異常に遅くなった。西日本で出梅が発表されたのは8月3日。これは平年に比べて15日も遅れた。だからといって、“地球温暖化は止まった”と騒ぎ立てるのは早計に過ぎる。気象庁の速報によれば、2009年9月の世界の月間平均地上気温は2005年と並ぶトップタイになったとのことである。
「地球温暖化」と俗に言われているが、地球上の温度は一様に上昇しているのではない。1950年以降、北極圏では100年あたり2.29℃も上昇したのに対し、赤道付近では1.25℃である。つまり南北間の温度差が相対的に小さくなっている。これが大気の大循環を変化させ、ブロッキング現象が起こりやすくなる。こうして異常高温や異常低温が持続する。
また鉛直方向に見ると、地表ではたしかに温暖化しているが、成層圏ではむしろ寒冷化が進んでおり、大気全体としては実は温暖化も寒冷化もしていないのである。これは大気が不安定となり対流活動がより活発化していることを意味する。
こうした中、鳩山総理は就任早々、本年9月ニューヨークで開催された国連気候サミットにおいて、日本の温室効果ガス排出量を2020年までに1990年比で25%削減することを公約した。これは前政権が“2005年比で15%減(1990年比8%減)”を表明して、国際社会から非難を浴びたのに対し、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)など世界の専門家が提唱してきた削減目標(25〜40%)に比肩する目標として評価することはできる。
しかし問題はこのような目標をいかに実践していくかにかかっている。とくに産業界などは“経済の活動量低下”、“1世帯あたり36万円負担増”などと根拠のない宣伝を展開し、排出削減への抵抗をはかっている。そして自らについては“乾いた雑巾を絞るようなもの”として責任を回避し、「国民各層の更なる努力」を求めるていたらくである。国内最大の排出量を占める電力や鉄鋼などの大企業の責任がなおざりにされており、ここにこそ政治の主導性が発揮されなければならない。
新政権の政策にも問題が多々ある。たとえば高速道路の通行料の一律1000円、さらには無料化、ガソリンにかかる特定財源の撤廃など、運輸部門の二酸化炭素排出量増加につながる施策は、マニフェストに拘泥することなく撤回すべきである。日本はこれら国内政策を厳格に実行してこそ国際的信用を得ることができるのである。来るべきCOP15/CMP5では、2013年以降の国際的枠組み、すなわち、米国をはじめとする「先進国」の責任ある排出削減の中長期目標、新興途上国の参加、すでに被害の発生している諸国への支援、さらに技術と資金の提供など困難ではあるが必須の課題が山積している。これらの課題について、国益優先でなく、人類生存のために英知が結集されなければならない。
日本政府は交渉会議の重要な局面への鳩山総理自身の出席を含む不退転の決意でコペンハーゲン会議の成功にリーダーシップを発揮すべきである。
「ヒトの進化」:村上和雄氏の「正論」考
海野和三郎産経(11/13)の「正論」に載った、村上和雄氏の『「心」を変えてヒトは進化する』は非常に興味をそそる論説である。実は、私も、21世紀生存の危機にあって、新たな高次元の人類進化を遂げる必要を感じていたので、村上進化論に共感するところ大である。
まず、ヒトとチンパンジーとのゲノムの違いは僅か3.9%で、以前は「がらくたDNA」と呼ばれた部位にあり、脳以外でも見つかっている、というのが面白い。その一つは大脳皮質のしわの形成に関与して、遺伝子スイッチのオンとオフの、タイミングや場所の決定に関わると考えられている、とある。以前、ピラミッドを四つ切りにして、高さを半分より高い子ピラミッド4つ作ると、表面積は1.2倍とかになり、これを無限回行うと、表面積無限大の点を作る事が出来る;表面積を(字を書いての)情報量とすると『絶対矛盾的自己同一』の幾何学モデルであり、脳のヒダ構造のモデルである、などと書いたことを思い出した。「タイミングや場所の決定」に関しても、ヒトという複雑系の働きの“何時何処で”という要を握っているDNAがチンパンジーと異なるというのはすごい発見ではないだろうか。ヒトへの進化の鍵の発見と言えなくもない。更に、面白いのは、その機能が固定されたものでなく、3つの環境的要因によって変化する(従って、個人的にも、社会的にも、時間的にも異なる)ことで、1.気候変動などの物理的要因、2.食物と環境ホルモンなどの化学的要因、3.精神的要因、の3つを村上さんは挙げており、精神的要因については、「心と遺伝子は相互作用する」という。例として、「笑い」が糖尿病患者の食後の血糖値上昇を抑制し、その際オン・オフする遺伝子の発見、心にある種のエネルギーがあり、「思い」や「心の持ち方」が遺伝子のオンとオフを変えるという事実を挙げている。結論として、「心は自分で変えられるから」心の働きを変えるだけで、「遺伝子レベルでも高次の人間に進化できる可能性がある。」という。「3つの要因」と言い、「心と遺伝子は相互作用する」と言い、ヒトという複雑系の「進化」の本質を熟知して居られようである。
実は、私どもは、NPO東京自由大学で、エネルギー・地球環境・食料(人口)問題の3つ巴の混沌(カオス)のため未来に希望に持ちにくい21世紀は、ヒトの「進化」をもって対応する以外にないと考え、非力ながら、みんなで「龍馬」役をするよう「21世紀龍馬の会」への参加を呼びかけることを計画しました。まだ、会の日程も第一火曜にするか第三木曜にするか未定ですが、月に1回か2回神田の東京自由大学でやりたいと思います。テーマは、1.村上式に言うと、心のスイッチをオン・オフする「言葉」(情報)の問題;2.ヒトという複雑系を変える物理的要因、化学的要因、精神的要因;3.エネルギー・地球環境保全の最適実行案(森と海とヒトの協働的太陽エネルギー工学);の3つを考えています。1.「ことば」の機能は不完全で、態度や芸術、などで補い、他者と心の交流をしますが、何と言っても、ヒトの場合は、情報交換は「ことば」によるのが普遍的で主力です。しかし、21世紀になり、ヒトを含む複雑系の記述に「ことば」の不完全性が顕わとなり、特に、政治やジャーナリズムでは、その不完全性をいいことにして、一方的な放言が横行して、国家という複雑系の政治、文化、教育が滅茶苦茶になっている。例えば、「天下り」といった1次元的標語は、各省庁のセクショナリズムとそれを助長しかねない高級官僚の再就職を批判した「ことば」であろうが、国家行政という複雑系においては、おそらくセクショナリズムというマイナスが6あれば、各部門の専門性、独自性のプラスも4はあるであろう。高級官僚が転職してセクショナリズムを助長する可能性が6あれば、セクショナリズムに批判的な高級官僚も4はいるであろう。それぞれのマイナスを大きくプラスに転ずる行政の進化を考えるべきである。最も簡単な方策として、「天下り」ならぬ「天職」での、初任給程度の必要給与支給の制度をつくればよいであろう。「天下り」と同様な標語行政には、土曜半ドンをやめて二宮金次郎タイプの先生を減らし、尊徳ならぬ損得勘定で動くサラリーマン型の先生を増やした「ゆとり教育」もある。結果としての学力低下に議論が集中しがちであるが、初等教育に社会主義を持ち込むのは1、2歳の赤ちゃんにテレビを見せる精神障害(坂本千鶴子:教育通信133号)と同様にマイナス効果が大きい。同様な事は、郵政民営化にも、CO2排出25%削減にもあり、将来への影響のプラス・マイナスを実行案、具体策について複雑系としての時と所を与える必要がある。明治100年用いた官制の郵政は、通信・交通システムの極度に発達した現代、マイナス要因が大きくなり民営化に移行する必然性がある。しかし、今の民営経済は金融経済と市場経済の2性的経済で、第3の複雑系経済は名前だけで実体が伴っていない。そのため、保守的な安定性で人々に安心感を与えてきた郵貯・簡保などを民営化するには、そのプラスを出来るだけ保存しながら、民営化のプラスを活かす方策を講ずる必要がある。移行のプロセスは30年くらいかけるのが適当であろうか。その間に、グローバル経済にカオスの予報もできる複雑系経済機構をつくるべきである。1.2.の両方に関連する大きな問題としては、以前10年かけて伝達された情報が‘ケイタイ’で1秒で伝達されるようになった事が特筆される。これは、21世紀になって加速度的に時間が短縮されたため、量子力学的に言えば、プランク定数によって時間と相補的なエネルギーの測定精度が荒くなったことにより、情報の持つエネルギーにヒトの心が鈍感になることかもしれない。CO2排出25%削減については、国際政治の立場で、宣言する意味はあるが、実行案を土台としての発言でないと、国際的にも評価の高い日本人の自然に対する感性が不足していて、同感できない。次に述べるアニミズム的太陽エネルギー工学や火山島地下1000mにおける地熱海洋発電の研究計画も同時に行うべきである。3.の「森と海とヒトの協働的太陽エネルギー工学」は、目下、開発中で、簡単に言えば、現在利用されている太陽電池パネルに20倍集光の太陽光を当てると同時に、発電に使われなかった太陽エネルギーの8割以上を冷却水で上部のソーラーポンドに送り、10分程度で沸騰させる簡単な仕掛けです。20倍集光には、平面鏡を25枚ほど張り合わせたものを、太陽観測に使うシーロスタット方式で1日半回転の緩い駆動をすればよく、家庭用2kW発電装置は、恐らく、石油火力発電による電力価格より数倍安く電力を作るであろう。性能の良い太陽電池や充電・蓄電装置ができれば、益々、改良につながることになる。夜間と悪天候によるマイナスと使う場所で作る簡便性のプラスがある。化石燃料を出来るだけ将来に残すことが、現代人の義務である。
「赤ちゃん、幼児へのテレビ視聴の危険性」を言い難いメディア主流の現代社会
坂本千鶴子この数年、仕事上で出合う赤ちゃんや子どもたちの中に、「テレビの弊害」による問題を持つと思われる例が多くなりました。特に今年は、何人もの苦しむ子どもたちとの出会いがあり、そのうちの2例を132号に書きましたが、その時、あらためて関連書籍や新聞記事、ネット上の情報・意見を集中的に読んでみて、気がついたことがあります。
「赤ちゃん、幼児へのテレビ視聴の危険性」に関して、書籍やマス・メディアに記事や提言が出されるたびに、ネット上では、自閉症関係の団体や、自閉症のお子さんを持つ方々から、「テレビを見せすぎたから、自閉症になったとの誤解を生む」という批判がなされて、いつの間にか、「警告」そのものに勢いがなくなって消えてしまうことです。
特に2004年は、乳幼児へのテレビの影響に関する議論が活発な年でした。その年は、日本にある3つの小児科組織のうちの二つが続けて、「乳幼児とのテレビ視聴の危険性」に関する提案を出したのです。1月には、日本小児科医会が、『「子どもとメディア」の問題に関する提言』を出しました。「心身の発達の遅れや歪みが生じた事例が臨床の場から報告されてい」るとの記載の後、保護者へは「2歳までのテレビ・ビデオ視聴は控えましょう。」のような具体的提言の5項目に加えて、小児科医、病院、地域、社会にまで、具体的な「子どもとメディア」の問題解決のための方法も紹介し、協力を求めています。また、4月には、2万人弱の会員を持つ日本小児科学会が「乳幼児のテレビ・ビデオ長時間視聴は危険です」との提言をだしました。これには、2003年に、1歳6ケ月児の親に行った,子どもとテレビについてのアンケート調査の1900名分を解析したデータを付けられています。
その2つの警告に対して、7月に、日本小児神経学会から〔提言:「子どもに及ぼすメディアの影響」について〕が出されました。このなかで、先の学会の提言を評価するとしつつも、第二項では、次のようなコメントを発表したのです。「言葉の遅れや自閉症があたかもメディアのせいのようにとらえている論評があるが、いまのところ十分な科学的根拠はない」と。私はこの第二項の文章に疑問を持ちました。先の2つの学会からの提言には、「言葉の遅れ」に関する記述はあっても、「自閉症」という言葉は使われていないのに、どうして日本小児神経学会が、「自閉症」という言葉を記載したのか?また、「あたかも」という言葉にも引っかかりを感じました。
私は、一般論としての「乳幼児とテレビ視聴への警告」を、日本小児神経学会(以下、-神経学会と表記)が「テレビと自閉症との問題」へと、論点を摩り替えてしまったことは、納得できません。そして、ネット上では、5年たった今でも、この2つの警告への反対意見が大量にみられ、反対に、−神経学会への賛同がとても多いことに、ある種の不気味さを感じました。障害を持つお子さんの親御さんへの配慮は、いつでも必要です。しかし、問題点を「自閉症への配慮」で摩り替え、一般提言としての「乳幼児に与えるテレビの危険性」への警告を消してしまっても良かったのでしょうか。
そして、―神経学会の提言の締めくくりには、「今後、平成16年度から始まった独立行政法人科学技術振興機構が行う子どもの長期研究「日本の子どもの認知・行動発達に影響を与える要因の解明」などによって科学的な成果が得られることを期待する。」ともありました。正論です。しかし、調べてみると、平成18年には、この「日本の子どもの認知・行動発達に影響を与える要因の解明」は、長期プログラムへの移行を、すでに却下されているのです。2004年から5年以上たった今、その年に生まれた赤ちゃんは、もう5歳。成長著しい赤ちゃんにとって、この5年は取り返しのつかない大切な時期です。
平成20年3月に発表されたNHK放送文化研究“子どもに良い放送”プロジェクト フォローアップ調査中間報告 第5回調査報告”によると、一週間に少しでもテレビに接触する0歳の赤ちゃんが97%いて、一日の映像メディア接触時間の合計は3時間35分(テレビ一日3時間15分+ビデオ20分)だといいます。0歳児の睡眠や食事時間などを引いた6時間の半分以上を、実体が伴わないテレビを見続けることへの危険性を、データが不十分と言って無視できるのでしょうか?乳児期に育まれなければいけない「信頼感」は、身近な自分を愛してくれる人とのやり取りのなかでしか育ちませんし、コミュニケーション力も養われません。返事をしてくれないテレビは、その信頼感を赤ちゃんから大きく奪っているはずです。また、五感の発達も著しいこの時期、体全体の機能で感じながら経験をつんで、感情、感性を発達させていきます。匂いも感触もないテレビと長時間、向き合うことが危険だということは、はっきりしているはずです。
私が仕事を通して出会う赤ちゃん、幼児の中だけでも、本来持っている力を出せずに、悲しみの渦の中にいる子どもの割合は、確実に増えているのです。そして、テレビの視聴時間を0に、または少なくして、親からの語りかけを多くするだけで、元気を取り戻した赤ちゃん、幼児もたくさんいるのです。医師や研究者の方たちは、「エピソードはエピソードでしかない」と言われます。しかし、事実の積み上げの中から正視して、何らかの手を打てる問題が先に見えてくることもあるはずです。お母さんたちが楽になることが必要なのは、私も十分感じます。
でも、それがテレビの力を借りることでしょうか?
私が受け持つ「親子教室」では、わらべ歌を一緒に歌い始めた途端に、お母さんたちの笑顔が増え、赤ちゃんの笑顔も驚くほど増えました。不安なお母さんを楽にしてあげるのに、テレビが必要なのではないのです。温かい肉声を聞く、触れ合う、そんな自然なことの方が、ずっとストレスは解消するはずです。「育ちの」中で、危険を予測させるものに関しては、たとえ細かい正確なデータが揃わない段階でも、勇気を持って発言していくことも大事なはずだと思う毎日です。
ナチスと悪霊と昆虫————最近のアメリカ映画3題
佐々木聖CGで着膨れする映画
(1)ナチスに家族を殺されたユダヤ人女性が、占領下のパリで名前を変え、叔母の経営する映画館を引き継ぎ、そこで開催されることになったプロパガンダ映画のプレミア上映会に集まるナチス幹部たちとその関係者を、映画館もろとも焼き殺そうと復讐を企てる。
(2)銀行の融資担当キャリアウーマンが出世欲に駆られて、老婆の家屋差し押さえ中止の懇願を非情に断り、その恨みで老婆に乗り移った呪いの悪霊につきまとわれ、散々な目にあう。
(3)遅刻常習者で仕事ぶりも冴えない青年がクビを言い渡された瞬間、巨大化した昆虫に街が襲われ、若者は生き残った人たちとともに巨大昆虫と戦う。
この3本はいずれも2009年の11月から12月にかけて日本で公開されたアメリカ映画だ。(1)は『イングロリアス・バスターズ』(クエンティン・タランティーノ監督)、(2)は『スペル』(サム・ライミ監督)、(3)は『ビッグ・バグズ・パニック』(カイル・ランキン監督)。
戦争、ホラー、パニックと、それぞれジャンルは異なるが、この3本には明らかな共通点がある。上映時間が短い。100分以内におさまっている。『ビッグ・バグズ・パニック』91分、『スペル』99分。『イングロリアス・バスターズ』は2時間32分もあるのにどうしてだ、と言われそうだが、実はこの映画には、先のストーリーとは別に、ナチスの兵隊を捕まえては頭の皮を剥いだりバットで頭を叩き潰したりと残虐の限りを尽くすアメリカの特殊部隊(題名の由来)の作戦というもう一つのストーリーがあって、全体が4部構成になっている。だから40分前後の短編を4つ観たような印象を受けるというわけだ。
昨今の、コンピュータグラフィックスを駆使して目眩く戦闘シーンを繰り広げるアメリカ映画は、総じて2時間を優に超える大作が多い。さしずめ「CG着膨れ映画」とでも呼びたいものばかりで、こういう単なる視覚的刺激のつるべ打ちだけで出来上がっている映画は、最初のうちはびっくりするものの、だんだん慣れてくると、いいかげんうんざりしてくる。行き着くところは最近増えている3D映画だが、これだって同じことだろう。
ファストフードの刺激的な濃い味に慣れてしまうと、味覚が麻痺してしまい、たとえば日本料理のお吸い物のような繊細な滋味がわからなくなってしまう。なんだか映画もそのようなことになっている気がしてならない。
アメリカ映画事情通の話によると、近年のハリウッド映画のスポンサーはおおむね金融資本で、彼らはシナリオを読む判断力などないから、企画としてはよく知られたコミックスの映画化や過去にヒットした映画の続編といった安全パイが幅をきかせることになる。いきおい、CGを駆使してより派手に、いかに観客の耳目を驚かせるか、に演出の主眼が置かれ、巨額な資本を投下して巨額の収益を狙うビジネスモデルになっていた。ところがリーマンショック以来の金融崩壊で、どうやらその目論見も危ういところに来ているようだ。
そんな近況が反映しているのかどうか、少なくともこの3本、最近のアメリカ映画の中では珍しく、もちろんCGは使われているものの、それに頼り切ったハリボテの大味な作品にはみられない切れ味の鋭いタイトな出来栄えとなっている。まあ、しょせんファストフードの国だから、いきなり後ろからワッと脅かすような、単純に視覚と聴覚に強い刺激を与える手法は相変わらずで、お吸い物の滋味など期待すべくもないが、少なくともそれが物語の小気味よい進行を邪魔しない。「山盛りのご馳走ぜんぶ食べてほしい気持ちはわからないでもないけれど、少しはこちらの胃袋の容量も考えてくれよ」と注文をつけなくてすむアメリカ映画は、もはや貴重な部類に入るといわねばならない。
恐怖と哄笑は紙一重
『スペル』のサム・ライミは、まさに昨今のアメリカ映画の典型である、目眩くCG戦闘シーンを売り物にしたコミック原作『スパイダーマン』シリーズをヒットさせたが、もともとは『死霊のはらわた』などB級ホラーを得意としていた人で、このたびはめでたく原点に返った。それも「恐怖と哄笑は紙一重」の持ち味を十全に発揮して「笑えるホラー」に仕上がっている。
生理的に嫌悪感を催す場面はたくさんあるが、それがあまりにもバカバカしいほどストレートな描写なので、気持ち悪さや怖さを突き抜けて思わず笑ってしまう。CGもこんなふうに使えば胃にもたれない。ヒロインが除霊師に「悪霊退散には動物の生け贄を」とアドバイスされ、「私は菜食主義なの、そんなことできない」と言いながら、しつこい悪霊の攻撃についに音を上げ、ペットとして可愛がっていたある小動物を犠牲にすると、あとで除霊師の助手にとりついた悪霊が「こんなものいるか!」と叫んで口からその小動物をヒロインに向かって吐き出すところなど、その好例だ。
ヒロインは昔おでぶちゃんで「ミス・ポーク」コンテスト(!)で優勝したことがある。この設定が、ある種のコンプレックスから来る上昇志向が招いた災厄、という点で物語の起動力を推進している。起動力が強いぶん、お約束めいたラストのどんでん返しもみごとに決まった。
切り捨てる思いきりの良さ
物語の起動力の強さこそ映画をスリムにする肝心な要素だ。『ビッグ・バグス・パニック』はそこがさらに徹底している。何の前提もなく、巨大化した昆虫がいきなり人間を襲ってくるのだ。巨大化した原因や、それについて対処する行政当局やマスコミといった余計な描写はいっさいない。特定の街の特定の人物たちと巨大昆虫との戦いにのみ物語の焦点は絞られる。脚本・監督のカイル・ランキンはこれがデビュー作の新人だが、この思いきりの良さには拍手喝采を送りたい。こうでないと91分の上映時間は実現できなかっただろう。
リーダー格の人物や、いかにも強面の人物がさっさと画面から消え、主人公の青年をはじめとして、とてもヒーローやヒロインの器にはみえない人物たちが生き残り、弱さを抱えながらも各々の役割を自覚して困難に対処するという、かつてのハワード・ホークス作品(『ハタリ!』『リオ・ブラボー』など)に通じる作劇術が採用されているところも、この映画の美点の一つだ。
あと9分長くして100分、移動の途中で居残る東洋系の女性の活躍をもう少し観たかった、と思わせるくらいでちょうどいい。後半30分、主人公が俄然ヒーローとして目覚め、巨大昆虫の巣に連れ去られたヒロインを奪還しに行くクライマックスで、メキシコでバーテンダーをしていた過去や、社内で同僚と興じていた他愛ないゲームが伏線として生きてくる小技の効かせ方もぬかりない。
強固な骨格と引き締まった肉体
ゲームといえば、『イングロリアス・バスターズ』で最も緊張感あふれ、時間を忘れる場面に、小道具としてゲームがうまく使われている。ドイツの女優スパイを手引きに特殊部隊の3人がナチスの上官に化けてバーの席で酒を飲んでいる最中に、本物のナチスの将校が現れ、互いに腹の探り合いをするのだが、ここで将校が、隣のテーブルで下士官たちが興じていたゲームをこちらでもやろうともちかける。有名な人物の名をそれぞれカードに書いて伏せ、それを隣の人に渡し、互いの額に表向きに貼る。自分の額のカードにある名前を、一人ずつ皆に質問しながら当てていくというゲームだ。これが「正体」をめぐる暗喩として機能するかと思いきや、もっと別の意外なことが原因で、この場面はある決着を迎える。その結末はおおかた予想がつくとはいえ、久方ぶりに緊迫した会話のスリルが味わえる出色のシーンだ。
タランティーノは前作『デス・プルーフinグラインドハウス』で、CG全盛の時代に敢然と反旗を翻すように、生身のアクションが炸裂するB級映画スピリット満載の快作をものしたが、意外にこうした役者が火花を散らす会話にも力量を発揮する。ナチスに家族を虐殺されたヒロインの捨て身の復讐と、特殊部隊のナチ殲滅作戦はそれぞれ別個に進行して同じ映画館に向かって集約される。二つのストーリーが交わるようで交わらないところがおもしろい。
特殊部隊のヘッドを演じるブラッド・ピットは、近作『バーン・アフター・リーディング』(イーサン&ジョエル・コーエン監督)で、間男と間違われてクロゼットの中で射殺されるような、おつむの足りないマッチョマンを嬉々として演じていたが、ここでも、目的のためには手段を選ばない非道ぶりをみせつけ、およそスターのイメージとはほど遠い、感情移入しにくい役柄をあえて選んでいるようにみえる。なかなかに素晴らしい。
ナチスが題材として取り上げられているが、歴史上のナチスとは何の関係もない、と思ったほうがいい。要するに、戦争でとんでもないことをしでかしている奴らを、これまたとんでもない奴らがやっつけようとする話として、タランティーノはこの映画の一方のストーリーを組み立てる。とにかく昆虫が巨大になって襲ってくるんです、大変でしょ、というのとほぼ同じだ。そうやって、この題材につきまとう、もろもろの厄介な事柄をあらかじめ封印することで、映画の結末もまた、とんでもない方向に舵を切ることができた。
だからこそ、可燃性フィルムの山に火を放つヒロインの復讐劇というもう一つのストーリーが美しいファンタジーとなって昇華するのだ。虚構のナチスは映画という虚構によって葬り去れられることになるだろう。強固な骨格と引き締まった肉体をもつ映画だからこそ、成しえたことと思う。